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二人の空  作者: 蒼久斎
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自分だけのためではなく


 世界選手権での優勝で、アリは、来るオリンピックにおける、フィギュアスケート男子シングル、スウェーデン代表の座を、ほぼ確実にした。

 エステルも、競技に差し支えるような後遺症はないようで、おそらくほぼ間違いなく、女子シングルの、イスラエル代表として出場することになると思われた。

 アリとラウルは、オリンピックのプログラムについて、話し合いを始めていた。

 そこで私は、ちょっとどころでなく驚くようなテーマを聞かされる。

「ヴァレンベリーを、やろうかと言っているんだ」

 ラウルの言葉に、私は眉根を寄せた。

「ワレンバーグ、と言ったら、分かりますか?」

 アリが英語式に発音してくれたおかげで、私はやっと、彼がたくらんでいることを理解した。

 第二次大戦中、ナチからユダヤ人を救うために尽力した、スウェーデンの外交官ではないか。

「……悪いとは言いませんが、あまりに刺激が強すぎやしませんか? 反ユダヤ主義者だけならともかく、それだと、下手をするとロシアも刺激します」

 英語読みワレンバーグ、スウェーデン語読みヴァレンベリーという外交官は、スパイ容疑でソ連に捕らわれた後、獄死したと伝えられているのだ。

「そう、そこが悩みどころ」

 ラウルは、問題の深刻さを錯覚しているのではないか、と、一瞬思ってしまうほど、軽い調子で言った。

 困惑気味にアリの方に目を向けると、組み合わせた手の上にあごを載せた彼は、真剣な目で言った。

「かつてスウェーデンの外交官は、ユダヤ人たちをナチから助けた。そして僕は、スウェーデンに受け入れられた。僕にとってスウェーデンは、弱者に手を差し伸べてくれる国です。ワレンバーグは、ユダヤ人だから助けたんじゃない。彼らが迫害されていたから、助けたんです。そして今、スウェーデンは、僕がパレスチナ人だから助けたのではなく、僕が難民だから助けてくれた」

 強い目で言い切って、そしてアリは、穏やかな目でラウルを見やった。

「ワレンバーグが助けたユダヤ人たちが、何をやったかについて語るつもりは、僕にはありません。ただ、一人の男が、迫害される人々に、手を差し伸べたという行為について、僕は語りたいんです。それは人間を愛するという、もっとも尊い行為だと思うから」

 うん、と、私はそれには頷いた。

 けれども、と続けようとした私の言葉を遮って、当のアリが、その言葉を発した。

「けれども、直接的に演技をするわけにはいかないのは、確かに仰るとおりです。とても微妙な問題ですから。だから、何か昔の物語で、代用の比喩になる話はないかと、そう思っているんですよ」

 それなら、黙っていれば、誰にも裏は分かるまい。

 私は、好奇心から、もう少し訊ねてみた。

「エステルは、何をやるか言ってきたかい?」

 アリは首を左右に振った。

「今のところ、そんな連絡は来ていません」

 ラウルが、少し慰めるような響きも聴き取れる声で、そっと言った。

「まぁ、あんな事件のあった後だし、色々と問題も続いているようだ。なかなか動けないんだろう」

 アリは黙って頷いた。けれども、重い目をしていた。

 ならば、と私は言ってみた。

「君からメールで訊いたらどうだね? 自分のやりたいことを伝えて……前は、そうしていたんだろう?」

 私の言葉に、アリは肩をすくめた。

「訊いてもいいんですが、気がかりなことがあって」

 気がかり、とは、何のことだろう、と、私とラウルは顔を見合わせた。

 アリは、ほら、と、もどかしげな顔で言った。

「ほら、ネットのニュースで、出てたじゃないですか」

 私は知らなかったので、首を傾げるばかりだったが、ラウルは何のことか分かったようだった。

「コーチ人事のことか」

 その言葉に、私は眉をひそめた。人事?

 アリは暗い目で、その嫌なニュースを教えてくれた。

「アナスタシア・バレンボイムコーチが、重傷を理由に、エステルのチームから外されたそうです。警備は増員されたそうですが、一連の発言のこともあって、今までより監視が厳しくなったそうで」

 その言い回しで、ラウルも私も、アリの言いたいことを察した。

 つまり、現在のエステルは、身の回りの誰も、信用できる状況にはない、ということだ。

 私は、やりきれなさに首を振った。

「チーフ・コーチの彼は……モルデハイ・アヴィグドールだったか? 彼は承知の上なのか?」

 私の問いに、アリは鼻で笑って答えた。

「その彼こそが、エステルをプロパガンダに使おうとしたそもそもの元凶だったんですよ」

 私は目を見開いた。だが、そうか、と納得もした。

「『育ててくれたこと、スケートを教えてくれたこと、そのことには感謝している。けれども、言いなりに踊るのは、もう嫌だ』と、世界選手権の前、彼女はメールで、僕にそう言っていました」

 私の脳裏に、アナスタシアの言葉がよみがえった。

 アリは一度目を閉じた。それから、脳裏に思い出したメールの文面をなぞるように、続けた。

「『私は、私の心に従って踊る。けれども、それはもう、私だけのための踊りであっては、いけない』」

 迫害された者の子孫として、今、迫害している者の一員として。だから、受け入れること、許すこと、そして、愛すること。それらとともに生きることのすばらしさを、伝えていかなければならない、と。

 アリはそう言って、唇を噛んだ。

「でも、それを快く思わない人々もいる。息を抜く相手すら奪われた彼女に、僕が話しかけることは、負担にはならないでしょうか?」

 不安に揺れる目で、彼は続けた。

「僕たちは手を取らなくてはいけない。そして、ともに歩かなくてはいけない。だからこそ、僕は僕のペースで動くことによって、彼女を振り回すわけにはいかない。それでは、一緒に歩いたとは思ってもらえないから」

 そっと、ラウルが立ち上がった。

 そして力づけるように、アリを抱きしめた。



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