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二人の空  作者: 蒼久斎
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心の中にいる敵


 会見によって、イスラエル国内のエステルの評価は、一気に逆転したらしい。つまり、それまでエステルを支持していた右派の人間たちは、彼女を非難し始め、逆にエステルを非難していた左派の人間たちは、今度は彼女を擁護し始めたのだ。

 十六歳の少女には、つくづく荷の重い話だろうと、私は思った。

 しかし、アリは微かに苦笑して、首を振った。

「一人じゃありませんよ。彼女には、バレンボイムコーチもいるし、僕もいる。そして僕には、彼女と、ラウル父さんと、あなたがいます」

 その言葉に、私は思わず顔を赤くして、肩をすくめた。本当に、元は一人の追っかけに過ぎなかったのに。

 大丈夫ですよ、と、彼は大人びた瞳で言った。

「僕たちは、一人じゃない。僕と彼女は、大きな翼を一枚ずつ持っているんです。一人では飛べなくても、二人でなら飛んでいける」

 そう言ったアリは、それから、少し意地の悪い笑みを見せて、私に問うてきた。

「あのエステルのスピーチには、欠落があるんですが、ご存じですか?」

 初耳だった。私は首を左右に振った。

 でしょうね、と、何故か嬉しそうに言いながら、アリはメールをプリントアウトしたらしい紙を取り出した。

「一部ね、自粛したんだそうですよ」

 アリはそう言いながら、それを私に向けて差し出した。それで私は、受け取った文面に目を通し始めた。


《私の名前はエステルです。私の育て親のチーフ・コーチは、モルデハイです。

 だから、皆さんよくご存じの、プリムの話をたとえに引いてみましょう。

 聖書のエステルは、ペルシアの王クセルクセスの妃で、ユダヤ人の虐殺を目論んだ大臣ハマンを阻止します。

 私が戦いたいのは、人間の心の中に巣くう、憎しみという名のハマンです。差別という名のハマンです。このハマンは、すべての人間にとっての害悪です。

 このハマンについて語られる時には、私たちは、グラッガーを鳴らしてはいけません。大きな音でかき消して、聞かなかったことにしてはいけません。

 何故ならこれは、私たちの心の中にいる敵だから、よく見つめて、そして、そうすることによって戦わなければならないのです。

 モルデハイ・アヴィグドールは、私に言いました。

「ユダヤの誇りを忘れるな」

 幼かった私は、短絡的な選民思考で、パレスチナ人差別に結びつけました。

 違うのです。そうではないのです。

 聖書のエステルは、きっと、ユダヤの誇りを抱いていたことでしょう。けれども彼女は、きっと、だからといってペルシア人を差別などしなかった。

 私は思うのです。聖書のエステルは、たしかに、虐殺からユダヤ人を守るために、王妃になった。けれども、そのためだけに王妃になったのではなかっただろうと。

 私は思うのです。エステルはきっと、クセルクセス王を愛していたに違いないと。

 ユダヤ人として同胞を愛することと、ペルシアの王を愛することは、彼女の中で、きっと両立していたのに違いない、と。

 そしてそれはきっと、一人の人間として、彼女が王に敬意を抱いていたからに違いない、と。》


 読み終えた私は、アリを見上げて、まず一つ、疑問を投げかけてみた。

「『グラッガー』というのは?」

 そう来たか、と、アリは苦笑した。

「ユダヤ教の春の祭り、『プリム』で、礼拝の時に使う道具だそうです。この日、シナゴーグではエステル記を読むんですが、その時、ハマンの名前が出てきた時に、それを聞かないために、わざと騒音を立てるんだそうで。そのための道具だそうです」

 なるほど、そういうことか、と、私は理解した。

 そして、もう一つの、こちらは感想を、述べた。

「愛されたようだね、クセルクセス王」

 そう言ってやると、アリは、少し困惑を交えながらも、満更ではなさそうな笑みを浮かべて見せた。

 が、すぐに表情を引き締めて、厳しい目で、言った。

「でも、これは公表するわけにはいかない」

「何故?」

 私の疑問に、アリは軽く手を振って、言った。

「エステルが、公の場でこれを言ってしまったら、また問題になるからです。ペルシアの後継国家を自認しているイランと、イスラエルとは、現在も険悪な仲です。その意味で、政治的に軽率な比喩だと言われても、仕方ありません」

 そしてもう一つ、と、アリは睨むような目になる。

「エステルが僕を愛していると公言したら、彼女がどんなに素晴らしいスピーチをしたとしても、色恋に目がくらんで、たぶらかされたのに違いないと、そう言う人が現れるでしょう」

 そんな、と、私は思わず声を上げた。

「彼女はたしかに子どもっぽいところのある人間だが、恋愛に目がくらんで、前後の見境もなくすような愚かな人間では、ないはずだ」

 ええ、と、アリは頷いた。

「でもそれは、僕たちだから分かることです。世のほとんどの人は、エステルの賢明さを知らない。知らないままで語る。けれど、そうやって語られたエステル像が、独り歩きをする。それがこの世界なんです」

 僕がそう理解しているように、彼女もそう理解している。だから、彼女はこれを語らなかったんです。僕たち二人の、お互いのために。

 そう告げるアリの横顔は、十八歳という年齢よりも、遙かに大人びて見えた。

 生み落とされた複雑な環境を受け入れ、。そして、数奇な出会いを肯定的に生かそうと決意することによって、彼は大きく成長し、大人になったのだ。

 あるいは、そうならざるを得なかったのだろう。



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