エステルの反抗期
アナスタシアは、またコーヒーに口を付けた。
「エステルが子どもになれるのは、私相手の時だけ、なんです。賢い子だから、いつもずっと我慢をしている。自分がどう振る舞うべきか、きちんと理解している。理解しすぎているから苦しくなる」
優しく微笑んで、彼女は続けた。
「だから、私が受け止めてやるんです。つまり私は、エステルのコーチというよりは、ケア役なんですよ、あなたのように」
その言葉に、今度は別の意味で驚いた。
「私と、アリ・スヴェンソンのことを、ご存じで?」
私がそう問うと、ええ、と彼女は頷いた。
「似てるな、と思いながら、見ていましたから」
とても、彼のことを大事に思ってらっしゃるのだと、見ていて分かりました。
そう続けられて、私は顔が真っ赤になるのを感じた。
アナスタシアはコーヒーを飲み終えると、空き缶をゴミ箱に捨てるためか、一度席を外した。それから、再び、今度は未開封の缶を持って現れた。
「取ってしまったようですから」
そう言いながら差し出されたので、私は思わず笑って、それをありがたく受け取った。
「アリのそばには戻らないんですか?」
彼女は私にそう訊ねた。私は首を振った。
「本番前は、ラウルと二人にするんです」
彼女はそれを聞いて、不思議そうな顔をした。
「きっと、そばにいた方が、彼は安心できるのではないでしょうか?」
私は首を傾げた。
「いえ、私の出番は本番後ですよ……でも、エステルは、あなたにそばにいて欲しいんですね」
そう私が言うと、彼女は、複雑そうな顔をして、また一つ、ため息を吐いた。
「最近、反抗期なんですよ、彼女」
「反抗期?」
「まぁ、相手は私じゃありませんけれどね。モルデハイ・アヴィグドール……彼女の親戚で、育て親です。で、私たちのボス」
おそらく、チーフ・コーチだろう。
「悪いことじゃないと思うんですけどね、別に、彼女のやろうとしていることは」
ほとんど独り言のように、アナスタシアは呟いた。
どういう意味だろう、と彼女を見ると、彼女は唇に人差し指を当てて、悪戯っぽく片目を閉じた。
そして、近くにいる私にすら、ほとんど聞き取れないほどに潜めた声で、言った。
「私は、エステルから聞いて、知ってるんですよ。彼女がアリと、メールで文通してること」
低い、囁きかけるような声で、彼女は一人ごちた。
「それでいい、と思うんです。彼女はイスラエル人だけれど。だからといって、彼女がイスラエルのためだけに、踊らなければならない理由なんて、ない」
もちろん、彼女は、イスラエルのためにも踊る、ことは厭わないと思いますけれど、と付け足して、彼女は、話は終わりだ、というように、伸びをした。
「私は、エステルの所に戻ります」
そう告げて、また、ありがとう、と付け足してから、アナスタシアは今度こそ去っていった。
私はコーヒーを流し込むと、アナスタシアが言っていたように、アリの所へ行ってみようか、と思った。
着々と、その時が近づいていた。
パレスチナ系スウェーデン人スケーター、アリ・スヴェンソンの演じる「アラビアのロレンス」と。
ユダヤ系イスラエル人スケーター、エステル・コーヘンの演じる「ヴェニスの商人」が。
同じ大会で演じられる、その時が。
戻ってきた私の顔を見たとき、アリが、少しほっとしたように表情を緩めたので、ああ、アナスタシアの言ったとおりだった、と、私は思った。
白い本番用衣装に袖を通したアリは、どこへ行っていたんですか、と、少し拗ねたような口調で言った。
私は、思わず苦笑いしながら、話せば長くなるから、また後で話そう、と答えた。
アリは、少し不思議そうに首を傾げたが、素直に、はい、と頷いた。
私はふと、疑問に思って、訊いてみた。
「エステルとは、会ったのかい?」
思い切り声を低くして問うたが、アリには聴き取れたようだ。彼は苦笑して、首を横に振った。
「会ったとは言えませんね。見かけましたけど、ピリピリしてましたよ。コーチが二人か三人、近くにいただけで、あとはみんな、彼女を避けてました」
まぁ、聞いていましたから、僕は驚きませんけど、と、アリは笑った。




