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二人の空  作者: 蒼久斎
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アナスタシア・バレンボイム


 世界に挑戦すると誓った以上、国際大会に出場する回数も増えることとなる。アリは、実母ヤスミーンの遺影に詫びながら、学業の時間を削って、大会に参加するためのスケジュールを組んだ。

 世界大会というものは、スウェーデンや、その近隣の諸国だけで開かれているわけではない。違う大陸にも行かねばならない。

 それでも、私はアリを追い続けた。

 この頃には、すでにアリにはスポンサーがついていて、遠征費用などの負担は、ほとんどなくなっていた。父子家庭であるスヴェンソン家にとって、それはありがたいことだっただろう。

 ヨーロッパだけではなく、アメリカやアジアの選手たちとも、もっと、もっとぶつかる機会が増える。素晴らしい選手も数多くいる。かつてのマイペースなアリは影を潜め、今の彼は、そういった各国の選手たちにも刺激されるようになっていた。

 それでも、彼にとって、もっとも刺激を与えるのは、依然として、同じ男子シングルの選手ではなく、女子のエステル・コーヘンだった。

 初めのうちは、慣れない時差をの調整に苦しんだが、ほどなくコツを掴んだ。当初こそつまずいたものの、やがて入賞し、表彰台にも登った。

 それでも、彼は満足しなかった。より良いプログラムを、より高い技術を、彼は求め続けた。

 パレスチナに金メダルを。

 それが彼の願いだった。スケート選手の選手生命は短い。オリンピックで金メダルを取れる機会は、アリには、多くとも、二回だ。

 焦っていなかったと言えば、嘘になっただろう。

 そんな中でも、彼は相変わらず、エステルとのメール交換を続けていた。内容はすでに、スケートのことだけでは、なくなっていたようだ。

 エステルは、国際大会に出る回数を、極力抑えているようだったので、出くわすことは少なかった。

 二人が再び、直接顔を合わせたのは、世界選手権だった。この時、私はアリの関係者として、舞台裏に潜入する機会に恵まれた。実のところ、私は何か技術的にアリを指導する立場でも何でもなかった。しかし、彼の愚痴やら何やらを、ずっと聞いていたことを理由にして、ケア役という名目で、彼のそばにくっつけることになったのだった。

 ケア役という公の役目をもらった、私の最大の仕事は、実を言うとマスコミ対策だった。相変わらずメディアは、エステルとアリとの仲に、注目を続けていたのである。

 アリの傷に踏み込ませないために、前の私ができたことはといえば、私自身が記事を書くのを拒否する程度だった。しかし、今や私は、大手を振って、アリの傷をほじくろうとする取材をはねつけられた。

 エステルとアリとのメール交換の詳細については、二人の間で、おおっぴらにはしない、という合意ができていたようだ。それをアリから伝え聞いて、私も了解した。これは彼らの問題で、私が口を出すものではない。

 そうして迎えた世界選手権は、二人がともに参加するということで、メディアの注目も大きくなっていた。舞台裏で取材することを許された各国の報道機関に対して、私は慎重に対応を続けた。

 それはどうやら、エステルの側も同じらしかった。

 アリの話によると、エステルは、学校に行くこともままならない生活らしい。選抜されたコーチングスタッフに囲まれて、英才教育を施されてはいるが、彼女の生活には自由がない、という。

「きっとこのメールも、監視されているに違いない」

 そう、最初に書いて寄越したという。

「私の周りは、みんな、私の護衛で監視役なの」

 アリは、それを読んで、国に期待されるというのも、嫌なものがあるのだと知った、と言っていた。

 その頃、私は偶然、エステルのコーチの一人と、話をする機会を得た。

 その人物は、私が最初に彼女を見た大会で、キス・アンド・クライに座っていた、女性コーチだった。名前はアナスタシア・バレンボイム。旧ソ連出身だった。

 自販機の前で、私はアナスタシアと出会した。私は彼女の顔を覚えていたので、思わず目を見開いた。彼女の方は、もちろん、私のことを知らなかっただろうが、私の関係者証のスウェーデン国旗を見て、私が誰の関係者かを理解したようだった。

 彼女に先をゆずった。彼女は無糖のコーヒーを買い、それから、ミネラルウォーターを買った。

「ありがとう」

 ひどく訛りの強い英語でそう言って、彼女は去っていった。

 それが最初の出会いで、大会前日のことだった。

 二度目は、大会当日の、男子の滑走が始まる頃だった。私はアリの集中を妨げないため、彼から離れて、人気の少ないところで一息ついていたのだが、そこに甲高い少女の叫び声が聞こえてきた。

 聞き覚えのない言語での応酬に、おやと思って顔を出すと、エステルとアナスタシアだった。

 エステルは、今季十六歳になったとは思えないほど、子どもっぽい表情で、ほとんど泣きそうに叫んでいた。何を言っているのか分からない私には、アナスタシアがそれを、じっと聞いて、なだめているように聞こえた。

 私が見ているのに気づくと、二人はばつの悪そうな顔になった。それから、エステルは、アナスタシアの腕を振り切るような格好で、選手控え室の方へ戻っていってしまった。

 私は、飲もうと思って、まだ栓を開けていなかった、無糖コーヒーの缶を差し出しながら、声を掛けた。

「飲まれますか?」

 彼女は一瞬、びっくりしたような顔をしたが、やがて、苦笑しながら、それを受け取った。

「すみません」

 彼女は受け取ったコーヒーの栓を開け、一口飲んだ。それから、大きくため息をついた。

 それで、私は気になって、訊ねてみた。

「御気分を害されたらすみません。何か問題でもあったんでしょうか?」

 私の問いに、アナスタシアは笑って首を振った。

「いつもの癇癪ですよ。甘えているんです、私に」

 私は、思わず目を見開いた。



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