切磋琢磨
受け取った手紙を、私はいつも通り、封書に紛れ込ませて、イスラエル在住の例の知人に届けた。
これからどうなるのかは、神のみぞ知る、だろう。
夏が終わり、スケートシーズンが近づいてくる。
アリに、近々、またリンクでの練習を見に行ってもいいだろうかと、そう伝えた。家に夕食に招かれる仲となったからと言って、それに甘えてほいほいと顔を出すような真似を、私は相変わらず避けていた。
アリは、構いませんよ、と答えた。そして、いちばん近い練習予定日を教えてくれた。
教えられた日、私は朝からリンクに向かった。
取材許可証を見せながら、しかし、私は、取材のために彼を追っていると言うより、最初から、彼を追いたかったから追っているのだったな、と思う。
自分が、彼のことについて書くのは、彼の引退後になるだろうな、などと、思っていたのだった。
リンクを眺めると、すぐアリが近づいてきた。
挨拶を交わした後、アリは、完成したプログラムを、通して見られますか、と問うてきた。私は、もちろん、と即座に頷いた。
いつも眺める席に座ろうとすると、隣に立っていたラウルと目があった。
ふ、と、ラウルは私を見て微笑んだ。
あの夏頃の不安は、もう、欠片も見られない、穏やかな笑顔だった。
それで私は、改めて、ラウルとアリの絆を知った。
リンクの中央にアリが立つ。
「まず、ショートプログラムの演技だよ」
傍らでラウルがそう言った。
アラブの独立のため、そう信じてアラビアに赴いた、イギリス人将校のロレンス。アラブ人たちの信頼を得、部隊を率いて、砂漠での戦闘を戦っていく。
四回転、三回転の、コンビネーションジャンプ。
最初は不安。そして使命感。やがて、アラビアに対する愛が、彼の中で大きくなっていく。
期待を携えたまま、ショートプログラムは終わる。
「スピンの精度が、格段に上がりましたね。軸がぶれていない」
四回転を成功させるアリの足を引っ張っていたのが、スピンだった。彼は、ジャンプは好きで得意だったのだが、スピンはどちらかというと好きではなく、従って、得手な方でもなかったのだ。もちろん、決して下手なわけではなかったが、トップ選手の中に混じると、その不安定さは、はっきりと見て取れた。
それが、今の彼にはない。
私がそう言うと、ラウルは笑って頷いた。
「良いアドヴァイザーを見つけたようだよ」
「新しいサポートスタッフの方ですか?」
そう問うたが、答えはなかった。
ラウルは、リンクの上を見るようにと促した。
アリが、フリースケーティングのプログラムを、滑り始める準備をしていた。
「大丈夫なんですか? あんまり間をおいてませんが」
少々不安になって問うと、ラウルは、大丈夫だろう、と軽く答えた。
再び、曲が始まる。
今度のロレンスに訪れるのは、喜びではなく悲しみだ。信じたものに裏切られる、怒り、悲しみ、絶望。
裏切った祖国を憎みきることもできず、けれども、自分の意志ではなくとも、裏切ってしまった愛する世界の中で生きていくこともできず、失意のうちに、事故で世を去っていく。
私は、妙な既視感を感じて、目を瞬かせた。
(似てる……)
もちろん、アリの持ち味がなくなったわけではない。一つ一つの動きにまで染みこんだ、彼らしいダイナミックさは、決して損なわれてはいない。
しかし、今滑っているアリの姿が、どこか、昨シーズンに見た、エステルの姿と重なって見えた。
もっとも、アリの演技は、悲壮ではあるが、エステルほどに陰鬱ではない。恨みに満ちてもいない。ただ、純粋に愛し、裏切られたという印象の演技だ。
しかし、昨季までのアリにはなかった、細やかな部分まで計算された「演技」は、エステルの演技と共通するものを感じさせる。
頽れながら、どこか救いを仰ぎ見るように、アリの双眼が天を仰いで、演技は終了した。
さすがに連続での演技は、半端ではなくきつかったのだろう。激しく肩で息をしながら戻ってきたアリに、私は、つい、単刀直入に訊いてしまった。
「まさか、エステルの演技を参考にしたのかい?」
アリは、お、と言うように眉を上げて、それから笑い、そして、私の後頭部に打撃を加えるような返事をくれた。
「いいえ、エステル自身と話したんです」
その台詞のショックに、しばらく口が利けなかった。
「……何だって?」
「今、僕は彼女と、Eメールのやりとりをしているんですよ」
涼しい顔で、そんなことを言う。おかげで私は、驚きに開いた口を、一向に閉じる暇がない。
「いつの間に?」
「彼女からの最初の手紙に、僕が返事を書いたでしょう? あの中に、良ければこっちに返事をくれと、僕のメールアドレスを書いておいたんです」
そうして、二人の文通が始まったのだという。
「いろいろ確執もありますよ。お互いに、捨てられない背負ってきたものがある。でも、それを抱えたままではありますけど、今、僕と彼女は、友人です。僕はそう思っているし、きっと、彼女もそう思っています。そう確信しています」
アリのその言葉に、私は心の中で、神に感謝した。




