ラウルの不安
久々に、スヴェンソン家を訪れる機会に恵まれた。
アリから、一緒に夕食をどうかという誘いがあったのである。
もっとも、その日アリは高校があったので、私が訪れた時に、家にいたのはラウルだけだった。
緯度が高い北欧では、冬は散々暗い日々が続くが、逆に夏は、いつまで経っても明るい日々が続く。
冬時が信じられないほどに、まだまだ明るい夕方の窓の外を眺めながら、私はラウルの淹れてくれたコーヒーを飲んでいた。
いよいよエステルへの対抗心を燃やしているなと、部屋の中を観察しながら、私は思った。
ロレンスのビデオに、原作に、伝記。アラビア地域に関する文献も、かなり集めたらしい。その中に、アラビア語の初学者向けの文法書が混じっているのを見つけて、私は思わず、ラウルを振り返った。
「アリは、アラビア語を始めたんですか?」
私の問いに、ラウルは頷いた。
「暇を見てかじる程度だが、いずれ本格的に学ぶ気でいるようだ」
パレスチナに帰る日のため、なんだろうな、と、ラウルはどこか遠い目をして言った。
「そういえば、アリ、大学はどうするんですか?」
「進学するよ。もっとも、競技に専念するために、しばらくは行かないつもりのようだ」
それから、ラウルは私の方を見てこう言った。
「エステル・コーヘンから、手紙を受け取ったと、アリが言ってきたよ」
やっぱり伝わっていたかと、私は頷いた。
「ええ。私の、イスラエル在住の知人が、エステルの知人だったそうです。私がアリの記事を送って、向こうがエステルの記事を送る、と。お互い、似たような経緯で、似たようなことを目論むに到ったようです」
そう言えば、ラウルは、相づち代わりに頷いた。
それから、いささか唐突に、問うてきた。
「君は、まだ、アリが好きかい?」
何を当たり前のことを、と、私は答えた。
「私は、ずっとアリの応援をするつもりでいますよ」
そうか、と、ラウルは呟いた。
「私は最近、アリが変わってしまったような気がしてならないんだ。いや、どんどん、今も変わっている。もちろん、どうなったって、私がアリを愛していることには、変わりはないよ。でも、エステルの存在を知ってからのアリは、何か思い詰めているようにすら見える」
不安を隠しきれない目で、ラウルは続けた。
「別に、エステルに対抗心を燃やすことは、悪いわけじゃない。彼女の刺激で、彼の演技がもっと高い水準のものになったことは、紛れもない事実だ。けれど、エステルがユダヤ的であればあるほど、アリはアラブに、パレスチナにとらわれていく。悪いとは言わない。決して、悪いわけじゃない。パレスチナは、アリの故郷だから」
でも、と、ラウルは嘆息する。
「でも、忘れられるような気がして、怖くなってきたんだ。アリの中で、エステルの存在が大きくなるほど、彼女に対抗する意味で、アリの中のパレスチナの存在が大きくなっていく……でも、覚えていてほしい。アリにはスウェーデンもあるのだと。そしてスウェーデンには、たとえ彼がどこへ行っても、戻ってくることを待っている、私がいるのだと」
ラウルの言葉に、私は頷いて、それから、元気づけるように微笑みかけた。
「大丈夫。大丈夫ですよ。アリはスウェーデンを忘れることはありませんし、まして、あなたを忘れることなど、あるわけがありません」
だから、そんなに不安そうな顔をしないで下さい。
「ラウル、あなたがいるから、アリは飛べるんです」
そう私が言うと、ラウルは少し、安堵したように、微笑みを見せた。
やがて、アリが帰宅した。
夕食をごちそうになって、雑談に花を咲かせて、それから、私はスヴェンソン家を辞した。
私の帰り際、アリは見送りながら、そっと一枚の封筒を差し出した。
宛名を見て、私は軽く目を見開いた。
そこには、エステル・コーヘン、と書かれていた。
「よければ、また、例のお知り合いに送って下さい」
そう言って、また小さな声で、付け足した。
「ラウル父さんのこと、ありがとうございました」
驚きを隠せなかった私に対し、ほら、とアリは笑って言った。
「最近、何か思い詰めているような感じだったから。だから、あなたに会えたら、気分が晴れるんじゃないかと思ったんです」
私は思わず苦笑した。
「ラウルはね、君がスウェーデンを、自分を忘れるんじゃないかと、少し不安だったんだよ」
そう言うと、今度はアリの方が、驚いたように眉を上げた。
「そんなこと、絶対にありえない。何故?」
「君がエステルを気に掛ければ気に掛けるほど、君の中のパレスチナが大きくなっていく。その分、自分のことが占める部分がなくなっていっているのではと、そう、少し……少しだけどね、思っていたんだよ」
アリは、不服そうな顔を見せた。私は笑った。
「だから、ラウルに一言、『愛してる』と、言ってあげると良いと思うよ」
私がそう言うと、アリは、わかりました、と笑った。
やっぱり、まだ自分のことで精一杯の少年なのだな、と感じさせる、そんな笑顔だった。




