表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
二人の空  作者: 蒼久斎
19/47

ラウルの不安


 久々に、スヴェンソン家を訪れる機会に恵まれた。

 アリから、一緒に夕食をどうかという誘いがあったのである。

 もっとも、その日アリは高校があったので、私が訪れた時に、家にいたのはラウルだけだった。

 緯度が高い北欧では、冬は散々暗い日々が続くが、逆に夏は、いつまで経っても明るい日々が続く。

 冬時が信じられないほどに、まだまだ明るい夕方の窓の外を眺めながら、私はラウルの淹れてくれたコーヒーを飲んでいた。

 いよいよエステルへの対抗心を燃やしているなと、部屋の中を観察しながら、私は思った。

 ロレンスのビデオに、原作に、伝記。アラビア地域に関する文献も、かなり集めたらしい。その中に、アラビア語の初学者向けの文法書が混じっているのを見つけて、私は思わず、ラウルを振り返った。

「アリは、アラビア語を始めたんですか?」

 私の問いに、ラウルは頷いた。

「暇を見てかじる程度だが、いずれ本格的に学ぶ気でいるようだ」

 パレスチナに帰る日のため、なんだろうな、と、ラウルはどこか遠い目をして言った。

「そういえば、アリ、大学はどうするんですか?」

「進学するよ。もっとも、競技に専念するために、しばらくは行かないつもりのようだ」

 それから、ラウルは私の方を見てこう言った。

「エステル・コーヘンから、手紙を受け取ったと、アリが言ってきたよ」

 やっぱり伝わっていたかと、私は頷いた。

「ええ。私の、イスラエル在住の知人が、エステルの知人だったそうです。私がアリの記事を送って、向こうがエステルの記事を送る、と。お互い、似たような経緯で、似たようなことを目論むに到ったようです」

 そう言えば、ラウルは、相づち代わりに頷いた。

 それから、いささか唐突に、問うてきた。

「君は、まだ、アリが好きかい?」

 何を当たり前のことを、と、私は答えた。

「私は、ずっとアリの応援をするつもりでいますよ」

 そうか、と、ラウルは呟いた。

「私は最近、アリが変わってしまったような気がしてならないんだ。いや、どんどん、今も変わっている。もちろん、どうなったって、私がアリを愛していることには、変わりはないよ。でも、エステルの存在を知ってからのアリは、何か思い詰めているようにすら見える」

 不安を隠しきれない目で、ラウルは続けた。

「別に、エステルに対抗心を燃やすことは、悪いわけじゃない。彼女の刺激で、彼の演技がもっと高い水準のものになったことは、紛れもない事実だ。けれど、エステルがユダヤ的であればあるほど、アリはアラブに、パレスチナにとらわれていく。悪いとは言わない。決して、悪いわけじゃない。パレスチナは、アリの故郷だから」

 でも、と、ラウルは嘆息する。

「でも、忘れられるような気がして、怖くなってきたんだ。アリの中で、エステルの存在が大きくなるほど、彼女に対抗する意味で、アリの中のパレスチナの存在が大きくなっていく……でも、覚えていてほしい。アリにはスウェーデンもあるのだと。そしてスウェーデンには、たとえ彼がどこへ行っても、戻ってくることを待っている、私がいるのだと」

 ラウルの言葉に、私は頷いて、それから、元気づけるように微笑みかけた。

「大丈夫。大丈夫ですよ。アリはスウェーデンを忘れることはありませんし、まして、あなたを忘れることなど、あるわけがありません」

 だから、そんなに不安そうな顔をしないで下さい。

「ラウル、あなたがいるから、アリは飛べるんです」

 そう私が言うと、ラウルは少し、安堵したように、微笑みを見せた。

 やがて、アリが帰宅した。

 夕食をごちそうになって、雑談に花を咲かせて、それから、私はスヴェンソン家を辞した。

 私の帰り際、アリは見送りながら、そっと一枚の封筒を差し出した。

 宛名を見て、私は軽く目を見開いた。

 そこには、エステル・コーヘン、と書かれていた。

「よければ、また、例のお知り合いに送って下さい」

 そう言って、また小さな声で、付け足した。

「ラウル父さんのこと、ありがとうございました」

 驚きを隠せなかった私に対し、ほら、とアリは笑って言った。

「最近、何か思い詰めているような感じだったから。だから、あなたに会えたら、気分が晴れるんじゃないかと思ったんです」

 私は思わず苦笑した。

「ラウルはね、君がスウェーデンを、自分を忘れるんじゃないかと、少し不安だったんだよ」

 そう言うと、今度はアリの方が、驚いたように眉を上げた。

「そんなこと、絶対にありえない。何故?」

「君がエステルを気に掛ければ気に掛けるほど、君の中のパレスチナが大きくなっていく。その分、自分のことが占める部分がなくなっていっているのではと、そう、少し……少しだけどね、思っていたんだよ」

 アリは、不服そうな顔を見せた。私は笑った。

「だから、ラウルに一言、『愛してる』と、言ってあげると良いと思うよ」

 私がそう言うと、アリは、わかりました、と笑った。

 やっぱり、まだ自分のことで精一杯の少年なのだな、と感じさせる、そんな笑顔だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ