アリの目標
数日経って、ラウルから電話が掛かってきた。
あの大会以降、アリは今までにないぐらい、必死に練習している。しかし、練習しすぎて体を壊さないか、それが心配でたまらない、と。
私が癖になるといけないので、自分自身で行くことを控えていた、アリの練習リンクに、私は向かった。
地域のクラブのリンクで、控えているとは言いつつも、それでも、会員でもないのにちょいちょい顔を見せていれば、覚えられるのも道理だ。私が、取材許可証を見せると、入口で警備員が、にやっと笑った。
「アリですか?」
警備員の問いに、ええそうです、と私は答えた。
「もう、二年ですか」
彼の言葉に、私は今度は苦笑して、頷いた。
「ええ、二年になりますね」
リンクへ向かうと、アリが一人で滑っていた。一応、一区切りはついているらしいと見て、私は声をかけた。
「アリ!」
呼ばれて、彼は振り返った。どこか、ほっとしたような顔を見せるので、相当思い詰めているなと思った。
「ちょっと、休憩したらどうだい?」
そう言うと、彼は黙って頷いた。
どさっと腰を下ろす動きに、無茶をしているな、と、また思う。
ジャンプの着氷時、足にかかる負担は、相当なものだと、一応は聞いて知っている。それがどのぐらいきついものなのか、競技経験すらない私には分からないが、今のアリが無理をしているらしいことは、十分に感じ取れた。
「焦っているね」
私が言うと、アリは黙って目をそらした。
「今、大急ぎで焦ったところで、今季のプログラムを大幅に変えることはできないし、オリンピックだって、まだ先だぞ」
そう言うと、わかってます、と、彼は呟いた。
「でも、悔しいんですよ……」
頭を抱えて、彼はそう付け加える。
同じ男子の競技者に対して、彼はずっと、自分は自分、他人は他人、のペースを崩すことなくやってきた。それがアリの良さであったが、同時に、煮え切らなさでもあった。どこまでもマイペースで、他人によって刺激されることが、とても少なかったのだ。
そんな彼にとって、女子の競技者に対して対抗心が燃え上がる日がやってくるなど、想像もしなかったことだろう。
それだけ、エステル・コーヘンという人物は、アリの中に深く刻み込まれたのだ。
彼女があっさり、中東の母国へ帰っていったのも、アリには腹立たしかったことだろう。アリには、帰りたいと願ったところで帰る場所もなくなっているのだ。
「頭の中に、彼女の演技がこびりついて、離れません」
アリはそう、苦しそうに言った。
「悔しくてたまらないんです。彼女のことを思うと、練習しないと、どんどん引き離されそうな気がして、夜も眠れなくなってくる」
ラウルは、どちらかといえば、その焦りは、同じ男子の競技者に対して感じてほしかっただろうな、と、私は思ったが、口には出さないでおいた。
私は言った。
「でも、それで体を壊したりしたら、引き離されるどころの話じゃない。今、無茶をして体を壊して、もしも競技ができなくなったら、君は彼女に、負けっ放しだったことになるんだぞ」
我ながら、少しきつい言い方かと思ったが、アリの目は鋭く輝いた。
それで、もう一押しと、私は言葉を続けた。
「射程は、再来年の五輪だ。次の、次のシーズンだ。それまでに着実に、四回転をものにして、演技力を向上させて、そうして、金メダルを取るんだ」
それから、私はじっと彼の目を見て、言った。
「金メダルを取って、スウェーデンと、そしてパレスチナに掲げるんだ。たとえ、イスラエル代表で彼女が勝ったとしても、男子で君が勝てば、パレスチナが金メダルを取ることに、代わりはないんだ」
だから、そのために、ばかな無茶はするな。
そう言うと、彼は、じっと私の目を見つめて、それから、はい、と頷いた。
私は笑って、それでいい、と言った。
アリはようやく、笑顔を見せた。
「じゃ、改めて聞こうか。アリ、君の今季の目標は?」
私がそう問うと、アリは答えた。
「国際大会での表彰台……できれば、優勝」
「じゃあ、来期の目標は?」
「世界選手権出場と、優勝」
「じゃあ、来々期の目標は?」
彼は笑って、答えた。
「オリンピックで金メダル」
私も少し笑って、また重ねて問うた。
「そのために必要なことは?」
アリは、ウィンクして、言った。
「とりあえず、今は休憩」
私は笑った。アリも笑った。
それからアリは、小声のスウェーデン語で呟いた。
「ラウル父さんに、謝っておかなくっちゃ」
二年経って、今の私は、スウェーデン語でも、日常会話程度なら理解できるようになっていた。それで、アリの言ったことが理解できた。
良い父と息子だと、私はしみじみと思った。




