第99話《神の問い》
祈りの塔、一階層広間。
ヨウルの前脚から血が滴り、呼吸は荒い。
それでもなお、ラグスを睨み据え、低く唸り続けていた。
「ヨウル、退がれ!」
マリアスの声が響く。
ヨウルは視線を外さぬまま、足を引き摺って距離を取る。
「ほう……賢い犬ですな」
ラグスは剣を振り、付着した血を払った。
オルガは負傷した太ももを押さえながら立ち上がる。
その視線は、ラグスを真っ直ぐに捉えていた。
「マリアス、ヨウルを診てやれ。……オレはラグスを殺る」
「わかった。無理はするなオルガ。危なかったらすぐに引け」
マリアスはすぐさまヨウルのもとへ駆け寄り、傷口へ祈念波をあてる。
「ヨウル……気休めにしかならないだろうが、痛みは少し和らぐはずだ」
ヨウルは低く息を吐き、マリアスの腿に頭を預けた。
その呼吸はなお荒い。
オルガはその様子を横目に見て、口を開く。
「ヨウル……悪かったな。ずっと嫌われてると思ってた」
一瞬だけ、視線を落とす。
「だが違ったみてぇだな。……お前を傷つけたあいつは、絶対に許さねぇ」
その瞬間、オルガの全身から赤黒い祈念波が噴き上がる。
呼応するように、ラグスも黒い祈念を纏った。
次の瞬間、オルガが踏み込む。
剣と剣が激突し、火花が散る。
打ち合うたび、オルガの太ももから血が滴る。
だが、その足は一歩も退かない。
むしろ――押している。
ラグスの足が、わずかに後退した。
そしてついに、オルガの刃がラグスの左肩を掠める。
「――うぉらぁッ!」
怒号とともに振り抜かれた一撃。
血が弧を描いて宙に散った。
「ほう……やりますね、オルガ」
ラグスは肩口を押さえながら、口元を歪める。
「テメェ、何笑ってやがる!」
オルガが吐き捨てる。
ラグスはわずかに目を細めた。
「先ほど、地下に爆薬を仕掛けたと言いましたね」
軽く肩をすくめる。
「あれは……手動でも起動できるのです」
地下を指すようにラグスは剣で床を突く。
「あなたの大切なエリカ様――今すぐにでも、殺せますよ。……私が」
オルガの目が細くなり、ラグスを射抜く。
「……貴様はとことん汚い野郎だ。そんな真似をしてみろ。次の瞬間――その首、飛ばす」
低く吐き捨てる。
ラグスは肩の傷を気にも留めず、薄く笑った。
「ええ、そのときはご遠慮なく。……ですが今は、エリカ様はこちらの“人質”です」
言葉に、わずかな愉悦が混じる。
「爆破など……私にそんなことをさせないようにしていただけますか?」
次の瞬間、ラグスが踏み込む。
鋭い斬撃が連続して襲いかかる。
オルガはそれを受け、捌き、退く。
攻めきれない。
一瞬でも踏み込みを誤れば、その瞬間に起爆される。
歯を食いしばる。
ラグスは、一撃で倒せる相手ではない。
だが、今はそれ以上に斬れない。
刃を振るう自由すら、奪われている。
攻めれば終わる。
だが、その一歩が踏み込めない。
「チッ……!」
押し込まれる。
その隙に、オルガは叫んだ。
「マリアス! 地下へ行け! エリカを助けろ――オレが時間を稼ぐ!」
「……だが、オルガ。お前が……」
言いかけた言葉を、剣戟が断ち切る。
オルガはラグスの刃を弾き、強引に間合いを切った。
「いいから行け! マリアス!」
荒い息のまま、怒鳴る。
「オレの嫁に何かあったら……マリアス、お前でも許さねぇ」
その一言に、覚悟が滲む。
ラグスは肩を揺らし、血に濡れた息を吐いた。
「……マリアス。アネシアとの対話に、オレは必要ない。行ってこい」
低く、しかしはっきりと続ける。
「カイとナギを連れて――使命を果たせ、マリアス。オレは……オレのやるべきことを、今している」
オルガは剣先をラグスへ向ける。
「今、この瞬間のために……オレはこの地に降りた」
その瞳が、赤く輝く。
祈念波が再び全身を覆い、空気を震わせる。
「来い、ラグス。……オレを殺してみろ」
「はい、お望み通りに」
ラグスは笑う。
「防戦一方で、どこまで耐えられるか……興味深い」
次の瞬間、刃が降り注ぐ。
激しい蓮撃が降り注ぐ。
だがオルガは、それを一つ残らず受け、弾き返す。
退かない。
その背に、守るべきものがあるからだ。
そのとき。
ヨウルが、ゆっくりと立ち上がった。
傷ついた前脚を引きずりながらも、マリアスの方へと顔を向ける。
――乗れ。
そう言うように、背を低くした。
「ヨウル……まだ傷が……」
マリアスの言葉を遮るように、ヨウルが低く唸る。
それは威嚇ではない。
決意だった。
マリアスは目を見開き、そして小さく笑う。
「……わかったよ。お前、オルガの気持ちを汲んだんだな」
ヨウルの背に跨る。
すぐさま身を翻し、出口へと駆け出す。
その直前、マリアスは一度だけ振り返る。
「オルガ……持ち堪えてくれ。すぐに戻る」
返事はない。
ただ、剣戟の音だけが響いていた。
ヨウルは塔の出口へと駆ける。
大扉を抜け、外の光が見えたその瞬間だった。
空気が変わる。
風も、音も、すべてが一度止まったかのような違和感。
祈念波をも越えて場を支配する、圧倒的な神々しさ。
マリアスは息を呑む。
そこに――エリカが立っていた。
十七年ぶりの再会。
互いに成長はしている。
だが、その差を埋めるように、エリカの存在だけが場を満たしていた。
ただ“いる”だけで、世界の均衡が揺らぐ。
「……エリカ。どうしてここに」
かすれた声だった。
「マリアス!」
カイとナギ、そしてルカが駆け寄る。
ヨウルは足を止め、低く息を吐いた。
その瞳は、エリカから逸らさない。
エリカはゆっくりと視線を向ける。
「マリアス。私が守ってきたこの国で……何をしている」
静かな声。
だが、その一言一言が重く沈む。
「そして、この塔は始祖マリーが創り上げた神聖な場所だ」
責めているわけではない。
それでも、逆らえぬ圧がそこにあった。
言葉ではない“理”が、場を支配している。
マリアスの喉がわずかに動く。
「……ルミエルの神……エリカ……」
その名を呼んだ瞬間、目の前の存在が、かつての友ではないことを思い知らされる。
エリカが一歩、また一歩とマリアスへ近づく。
その足取りに、場のざわめきが押し潰されていく。
マリアスは、自然と膝をついていた。
エリカはその前に立ち、そっと肩に手を置く。
触れられた瞬間、重く張り詰めていた圧が、すっとほどけた。
「……マリアス」
囁くような声だった。
「ノエルが死んだ。私は救わなかった。……お前が大切にしている信仰とは、何だ」
指先に、わずかな震え。
「この地の理とは、何だ。……アネシアは言った。この地は、神が理を犯して生まれた世界だと……。その贖罪は……何をもって償えるのだ……」
言葉が、細くなる。
最後の問いは、ほとんど息に近かった。
エリカの瞳から、静かに涙がこぼれる。
神と呼ばれていた存在は、いまはただ、ひとりの少女のように脆かった。




