第98話《赦しの選択》
再び、イエルはナギに視線を送る。
「……ナギ、早く!」
叫ぶような声に、ナギの肩がびくりと震えた。
カイが静かに口を挟む。
「イエル……ナギを、これ以上怖がらせないでくれ」
膝をつき、ナギと視線を合わせる。
「ナギ、できるか?」
ナギは大粒の涙をこぼしながら、カイを見上げた。
「……わからないの。私に、この人を救えるかなんて……」
カイは一度だけ目を閉じ、そしてイエルへ視線を向ける。
「イエル。祈念波は万能じゃない。祈念は“祈り”だ」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「ノエルは……祈念種を迫害してきた張本人だ。ナギが本当にこの人を救いたいと願えるかは、別の問題だ」
その言葉に、イエルは何も言い返せなかった。
そのときだった。
ざわめきが、不意に途切れる。
誰かが振り返り、やがて次々と人の視線が一方向へ吸い寄せられていく。
石畳を打つ、静かな足音。
黒い機構の身体を持つ一人の少女が、群衆の間を歩いていた。
誰も、その進路を遮れない。
この場に現れたものが、ただの少女ではないと、誰もが肌で悟っていた。
その瞳には、神性と――わずかな怒りが宿っていた。
「十七年だ。……十七年ぶりに地上に出られたと思えば、何という様だ……ノエル」
空気が変わる。
イエルの目が見開かれた。
「……エリカ! どうしてここに……」
ナギはその姿を見て息を呑み、カイの腕にしがみつく。
ルカもわずかに後退る。
カイは目を細めた。
「違う……あの日、塔の下層で会ったエリカとは……何かが違う……」
あの時のエリカは、静かに塔を支えながらも、どこか寂しさを滲ませていた。
最下層で共に過ごし、クレープを食べ笑い合ったあの少女は、別人のようだった。
エリカは倒れたノエルの前に立つ。
イエルが縋るように声を上げる。
「エリカ! 兄さんを助けてくれ! 頼む、もう息が浅い……!」
エリカはゆっくりと膝をつき、ノエルへと視線を落とした。
そのとき、ノエルの瞼がわずかに開く。
「……エリカ。すまなかった……オレは……怖かった。この国の立場も、この国の行く末も……」
呼吸は浅く、それでも言葉を絞り出す。
「母を知らず、父上も死に……イエルも遠ざかった。お祖父様も殺され……この怒りをどこへ向ければいいのか、わからなかった……」
激しく咳き込み、血が溢れる。
「……エリカ。この十七年、この国を守ったのは……オレじゃない。お前だ……。お前は……この国の誰よりも、長く、深く……見ていた。オレは……何も見えていなかった」
視線が揺らぐ。
「……エリカ。お前が、この国の神だ。……ルミエルの神、エリカよ……お前の心に添えず……申し訳……なかった。エリカ……オレを赦して……」
言葉は最後まで紡がれなかった。
だがその断片には、この国が忘れかけていた祈りが、確かに残っていた。
ノエルの身体から力が抜け、瞳の淡い光が、今にも消えそうに揺らいでいる。
「兄さん!」
イエルがその手を強く握る。
「エリカ! 兄を救えぬのか! 頼む……まだ、何も話せていない……!」
エリカはしばし黙したままノエルを見つめ、やがて静かにその手を伸ばした。
だが、その指先はわずかに止まる。
「……イエル。これは、もう戻せない」
一瞬の沈黙のあと、静かに言葉が落ちる。
「私が触れれば、命は繋げられるかもしれない……でも、それは赦しじゃない」
その声には、わずかな揺らぎがあった。
エリカの瞳から、一筋の涙がこぼれる。
「救わない。イエル、逝かせてやれ」
その瞬間、ノエルの瞳に宿っていた淡い光が、静かに消えていった。
「兄さん! ダメだ……!」
イエルの叫びが響く。
周囲が再びざわめき始める。
「何が神だ! 見捨てるのか!」
「所詮祈念種とはこんなものだ!」
怒号が広場を満たしていく。
だが、その中心でエリカだけが動かなかった。
ただ静かに、一つの命の終わりを見届けていた。
イエルはノエルの亡骸を抱いたまま、静かにエリカへと目を向けた。
「……何故だ、エリカ。兄さんはラグスに騙されていたんだ……何故、救えない。赦しとは……何だ」
掠れた問いが、地面に落ちる。
エリカはその視線を受け止め、わずかにまぶたを伏せた。
「イエル。私はもう、この地の理には触れない」
静かな声だった。
「ノエルの死は、ここで受け止めなければならない。アネシアは言っていた。この地は二千年前、神が理を犯して再生した世界だと……それでも今、人は同じ過ちを繰り返している。……イエル。その運命を、受け入れろ」
その言葉を残し、エリカはゆっくりと立ち上がる。
「イエル。ノエルを大切に思うのであれば、彼の贖罪を背負え。そして――お前が、この国を作り直せ」
視線が、まっすぐに突き刺さる。
「その覚悟はあるか。……イエル」
イエルはしばらく黙したまま、腕の中のノエルを見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……わかったよ。エリカ」
その声は、どこか静かだった。
イエルはゆっくりとノエルを地に横たえ、立ち上がる。
俯いたまま、拳を強く握りしめる。
わずかに震えていた。
やがて、静かに涙を拭う。
一度だけ空を見上げた。
そして――振り返り、群衆へ向き直った。
「私は、先代エリオの孫であり、ノエルの弟――イエルだ!」
広場に、緊張が走る。
「この国の要人は、この場にいないか……誰でもいい!」
ざわめきの中から、一人の議員が進み出た。
人権派として知られる男だった。
そのままイエルの前で跪く。
イエルは視線を落とし、短く告げた。
「兄を……丁重に弔え。兄さんの亡骸を――頼む」
「御意」
低く、確かな声だった。
エリカは、ゆっくりとカイとナギへ視線を向けた。
「マリアスは塔の中だな。……カイ、ナギ、行くぞ」
その声に、カイとナギは小さく頷く。
互いに顔を見合わせ、そしてエリカの背を追った。
エリカはふと足を止め、振り返る。
「イエル。この民衆を静めろ。それがお前の役目だ」
短い言葉だった。
だが、その一言には抗えぬ重みがあった。
「……わかった」
イエルは静かに応じる。
その瞳には、先ほどまでとは違う決意が宿っていた。
エリカはもう何も言わず、再び歩き出す。
カイとナギがその後に続き、少し遅れて、ルカも大型ユニットの影から離れ、足早に追いかけた。
三人と一機は、祈りの塔へと歩みを進めていく。
その背を、ざわめく民衆と、ひとつの時代を終えた広場が見送っていた。




