第97話《母の最適解》
冷たい沈黙が満ちる祈りの塔最下層。
光さえ届かぬ深部で、エリカは膝を抱え、小さく身体を震わせていた。
頭上では、運命そのものが軋んでいた。
それを感じながらも、この地下には別種の静けさが流れていた。
二千年という時間だけが沈殿したような、神域の静寂。
エリカはゆっくり顔を上げる。
「アネシア……皆が上に来ている。この国はどうなる。祈念波も塔の接続も遮断された。あんたなら状況がわかるでしょ。あんたは塔そのものなんだから」
闇の奥、巨大な中枢コアが淡く脈動した。
『はい。ラグスが全てを打ち明け、今にも戦いが始まっています』
その声は相変わらず無機質でありながら、不思議な温度を持っていた。
「あんたと対話しに来たのに、それどころではないってわけね」
わずかな皮肉を滲ませるエリカに、アネシアは静かに応じる。
『いいえ。私の望む条件は揃いました。私は見届けるだけです。この地を創り上げた本人たちが、この現状にどう向き合い、どう決断するのかを』
その言葉が終わった瞬間だった。
エリカの背部へ伸びていた無数のケーブルが、音もなく解放されるように外れていく。
束縛ではなく、繋がりそのものがほどけていくようだった。
エリカが息を呑む。
「――アネシア、これは……」
『行きなさい、エリカ。二千年の因果に、あなたの答えを示すのです』
「今さら……何をどうすればいいの! 私の罪は何!」
張り詰めていた感情が、そこで初めて揺れた。
するとアネシアは、どこか母のような静けさで答えた。
『エリカ。何もかも忘れ去って生まれてきたとしても、カルマは断ち切らぬ限りいつまでも付きまといます。それが今なのです。母として、ここまでの準備はしました。あとはエリカ。あなたの手で……』
十七年ぶりの解放だった。
断たれたケーブルを見つめ、エリカはようやく悟る。
「……あんたは私を縛りつけていたわけじゃない。……守っていたのね」
震えるように呟く。
「何だろうね……解放感じゃなくて、残るのは寂しさなんだ」
『はい。これが、あなたを守る母としての最適解でした』
エリカは苦く笑う。
「また最適解……でも、あんたは十七年間、何も言わず黙っていた」
『エリカ。私が何を言わずとも、あなたはこれまできちんとこの国を守り続けました』
その言葉に、エリカは目を閉じた。
「――そう」
それだけを返し、ゆっくり立ち上がる。
そして歩き出す。
「この最下層って、こんなに寒かったのね。知らなかった……」
その言葉には、長い幽閉を今さら知るような、奇妙な実感があった。
昇降機へ向かう途中、エリカはふと振り返る。
都市の中枢。
二千年この都市を支え続けたアネシアのコアが、淡く脈打っている。
まるで、見送る心そのもののように。
エリカは静かに微笑んだ。
「あんたと繋がってた十七年間……温かかった」
その言葉は、別れのようでもあり、赦しのようでもあった。
そして――
「行ってくるね。……お母さん」
その呼び名が落ちた瞬間、最下層の空気がわずかに震えた気がした。
エリカは昇降機へ向かって歩き出す。
解放された者の歩みは、思ったより静かだった。
アネシアのコアはその背を見守り続ける。
やがて、エリカの姿が暗闇の奥へと消えていく。
そして、誰にも届かぬ声で、アネシアは呟いた。
『さようなら。私の愛おしい子――エリカ』
その声を、エリカが聞くことはなかった。
最下層には、再び静寂だけが残った。
だがそれは、終わりの沈黙ではない。
祈りが、動き出す前の静けさだった。
カイとナギはソルフェに乗り、ルカの先導のもと、祈りの塔前の広場へと出た。
塔の外では、すでに騒乱が広がっていた。
異変を察知したネオスたちが広場に押し寄せ、塔を見上げざわめいている。
「誰か出てきたぞ! 中では何が起きてる!」
「祈念種だ! ノエル様は無事か!?」
「お前ら! 中で何をした!」
次の瞬間、石が飛んだ。
石はカイのこめかみに当たり、鈍い痛みが走った。
血が頬を伝った。
「祈念種はこの国から出ていけ!」
「七区の暴動を許すな! ルシエ様を返せ!」
「化け物どもがまた災いを……!」
罵声が、波のように押し寄せる。
ナギは思わず耳を塞いだ。
「カイ……ここ、怖い……」
その声は小さく、震えていた。
カイはナギを抱き寄せる。
その身体もまた、かすかに震えていた。
そして、静かに顔を上げた。
「……黙れ。言いたい放題言いやがって」
低く、押し殺した声だった。
拳が震える。
だが、それでも振り上げはしない。
「オレたち祈念種は、怒りを知らないわけじゃない。……抑えられるんだ」
吐き出すように言う。
ソルフェが二人を庇うように、一歩前へ出た。
「傷つけられても、誰かを傷つけないように、そばにいる誰かが、少しでも幸せでいられるように。それだけを本気で願える種族なんだ」
声が、わずかに震えた。
視線が、群衆を射抜く。
「なのに……今、お前らがやってることは何だ! ……ナギを傷つけている」
腕の中のナギを、強く抱き寄せた。
それでも民衆の罵声は鳴り止まなかった。
ネオスたちは、カイたちを囲い込むように押し寄せてくる。
「くそっ……」
カイは拳を震わせる。だが、それ以上踏み出せない。
そのとき、塔の方角から一機の移動ユニットが駆け込んできた。
「道を開けろ!」
血に濡れたノエルを抱えたイエルだった。
「ノエル様!」
「どうなってる!?」
怒号と悲鳴が、広場を揺らす。
イエルはユニットを降りると、ノエルの頭を抱いたまま、静かに地面へと横たえた。
そして、震える声で懇願する。
「……ナギ。頼む……兄さんを助けてくれ。……君が、僕にしてくれたように……」
言葉が途切れる。
「……頼む、ナギ……」
ナギは小さく頷き、カイとともにソルフェから降りた。
一歩、ノエルへ近づく。
カイはその背を見守る。
だが――
さらに一歩を踏み出そうとした瞬間、群衆が再びざわめいた。
「イエル様! ノエル様を祈念種に触れさせてはいけません!」
「あなたの父も祖父も、祈念種に殺されたのですぞ!」
その声に、ナギの足が止まる。
次の瞬間、カイの胸へと逃げるように抱きついた。
空気が、凍りつく。
「黙れ!」
イエルの怒声が裂けた。
「何も知らずにものを言うな! 今、兄を救えるのは、この子しかいないんだ!」
言い終えた、そのときだった。
イエルの頬に、そっと手が触れた。
「イエル……」
かすれた声。
ノエルだった。
「……すまない。もういいんだ。……何も知らなかったわけではない。……薄々、気づいていた」
イエルはノエルの手を握る。
「……兄さん」
ノエルは微かに微笑む。
「……イエル。この国の贖罪は、すべてオレが死をもって償う」
息が浅い。
それでも、言葉だけは途切れない。
「……伝えてくれ。マリアスにも、オルガにも……そして、この国の民に」
視線が、揺れる。
「……怒りではなく……赦しで……」
その瞬間、ノエルの口から血が溢れた。
「兄さん! ダメだ!」
ノエルの瞳に宿っていた淡い光が、静かに消えかけていた。




