第100話《揺らぐ信仰》
マリアスはゆっくりと立ち上がった。
「エリカ、その答えは私にはわからない」
そう言いながら、わずかに視線を逸らす。
「ただ……アネシアのネオスの排除という選択を止めるため、そして、あなたを解放するために私たちはここに来た。だが……今、あなたはここにいる」
エリカは静かに頷いた。
「そう。アネシアは私を解放した。贖罪は――私たち自身の手で果たせと」
その声音には、かすかな揺らぎがあった。
「マリアス。お前は魂の系譜が見えるのだろう。であれば……誰が何をすべきか、見えているはずだ」
マリアスは短く息を吐いた。
「……エリカ。たとえ魂の系譜を辿れたとしても、未来まではわからない。だが――だからこそ私は選ぶ。大切な人を守る。大切な街を守る。大切な国を守る。皆が幸せに暮らせる世界を夢見ている」
ほんのわずかに、口元が緩む。
「今、この状況も……その過程にすぎない」
マリアスはナギとカイへと視線をやった。
怯えた小さな手と、守るように寄り添う影。
その光景を確かめてから、エリカを見据える。
「エリカ。信仰とは……正しく導くことだ。この子たちが、そしてネオスの子たちも、同じ空の下で生きていける未来を残すことだ」
「ルカモ!」
ルカが戸惑うエリカの足に寄り添う。
「そう、ルカもだ。二千年前の贖罪などと言われても……私たちには、思い出すことすらできない。だが――それでも、今を生きる者として、選ぶことはできる」
エリカは目を伏せた。
「……それでも、カルマは付き纏う。マリアス。それを断ち切るには、どうすればいい」
マリアスは一瞬だけ黙り、そして答えた。
「……今は、守るために戦う。これまでの歴史や、十七年前の復讐ではない。私たち祈念種は、過去ではなく――未来を見る種族だ」
そう言って一歩踏み出し、エリカを真っ直ぐ見据える。
「エリカ、行こう。オルガが、ラグスと……あなたを守るために、まだ塔で戦っている」
エリカは頷いた。
祈りの塔、一階層の広間。
オルガとラグスの刃が、激しく打ち合わされていた。
火花が散り、石床に傷が刻まれていく。
だが、オルガは攻めきれない。
踏み込めば勝てる。
そうわかっている。
その一歩が踏み出せない。
地下に仕掛けられた起爆装置。
エリカの命が、その先にある。
攻めを殺された剣は、守りに回るしかない。
受け、捌き、退く。
その繰り返しの中で、確実に体力が削られていく。
ラグスの声が、刃の隙間に滑り込んだ。
「オルガ……これはもう時間の問題ですよ」
愉悦を含んだ声音。
「動きが鈍くなってきている」
オルガの足が、わずかに揺れる。
太ももの傷が、踏ん張りを奪っていた。
荒い呼吸を押し殺しながら、なお剣を構える。
「……ラグス。お前こそ、遅くなってる。本来なら……とっくに斬れてる相手だ。こんなものか、“ルミエル最強の騎士”ってのは」
ラグスは小さく肩をすくめた。
「ええ、好きに言いなさい。ですが――戦略は、実力を上回る」
その目は笑っていない。
一歩、間合いを外す。
「そろそろ、お遊びは終わりにしましょう」
そう言って、ラグスはゆっくりと胸へ手を当てた。
指先が、何かをなぞるように止まる。
「ここですよ。起爆装置は」
静かな声で、わずかに唇が歪める。
「私が起動させてもよし……あなたが私を追い込み、起動させるのもよし」
刃を構え直す。
「あなたは一撃で私を仕留めることはできない。ならば――死の間際に、私は必ず起動させます」
その確信が、空気を冷やした。
ラグスはゆっくりと息を吐き、口元を歪める。
「さて、どうします?」
わずかに首を傾けた。
「そういえば……マリアスとあの子供たちを、あなたは地下へ向かわせましたね」
声に、愉悦が混じる。
「オルガ。あなた自ら、新たな人質を差し出してくれた。アストレアの守護神ともあろう者が……国を滅ぼす愚策を」
胸に手を当てる。
「そろそろ地下に到着した頃でしょうか。ここであなたを斬り、そのまま起動すれば――アストレアは……終わりです」
オルガは小さく笑った。
乾いた、勝ち誇るような笑みで、剣を肩に担ぐ。
「……やれよ」
静かな一言。
ラグスの眉がわずかに動く。
「はぁ? 何を言っているのですか。アストレアの女王も、ルミエルの女神エリカも――殺せと?」
声に苛立ちが混じる。
オルガはラグスを睨む。
「ラグス。機構に祈念核を埋め込もうが……お前は所詮ネオスだ」
一歩、踏み込む。
「祈念種を舐めるな」
ラグスの目が細まる。
「……何が言いたい」
オルガは、低く言い切った。
「地下にはいねぇよ。エリカも、マリアスも、カイもナギもな」
ラグスの声が、低く揺れる。
「……どういうことですか」
オルガは笑みを崩さない。
「ルカはエリカと同期している。ルミエルに入る前――ルカに伝えてある。エリカの祈念を拾ったら、オレに流せってな」
わずかに肩をすくめる。
「……まぁ、愛する女を監視してるみてぇで気分は悪いがな。今回は事情が事情だ」
ほんのわずか、顎を上げる。
「さっきからずっと、ルカから祈念が来てる。エリカは――もう地下にはいねぇ。今は塔の外に出た」
静かな断言。
ラグスの瞳が、初めて揺れた。
ラグスの瞳に走った揺らぎは、すぐに消えた。
代わりに、乾いた笑みが戻る。
「……なるほど。地下にはいない、と。ですが――まだ終わりではない。アネシアは、まだ私の手中にある」
剣を構え直し、わずかに重心を落としたラグスが、低く確信めいた声で告げる。
「そもそも祈念種は、あの存在を崇めていたはずだ。神を失えば――あなた方の信仰も、同時に崩れる」
オルガは鼻で笑い、一歩踏み込む。
「ふん、アネシアは知ったこっちゃねぇ。オレから見りゃ、エリカを縛りつけてたのはあいつだ。敵と変わらねぇんだよ」
刃が、わずかに前へ出る。
その瞬間だった。
――流れ込む。
ルカからの祈念が、脳裏に触れる。
鮮明ではない。
だが、はっきりと伝わる。
――エリカは……アネシアを、“母”と認識している。
「……は?」
オルガの思考が、一瞬だけ止まる。
――母? あのシステムを?
視界が、わずかに揺らいだ。
ラグスの足が動く。
そのわずかな空白を逃さない。
「迷いましたね、守護神」
低い声と同時に、間合いが詰まる。
気づいたときには、刃が迫っていた。
オルガは反射的に受ける。
火花が散る。
だが踏み込みが遅い。
「チッ――!」
次の一撃を受けきれない。
刃が、胸の奥の祈念核に深く食い込んだ。
血が弾け、オルガの身体がわずかに後方へ流れる。
ラグスはそのまま間合いを保ち、静かに息を吐いた。
「惜しいですね」
その声に、温度はなかった。




