第101話《心に触れるもの》
マリアスたちは塔へと駆け込み、開かれた大扉を抜けた。
その瞬間――足が止まった。
広間の中央にあったのは、あまりにも現実離れした光景だった。
ラグスの剣が、オルガの胸を深く貫いている。
そして、その刃がゆっくりと引き抜かれた。
音が遠のいた。
膝から崩れ落ちるオルガの身体。
支えを失った身体が、石床へと沈んでいく。
そのまま、かすかに顔を上げた。
視線がこちらを捉える。
「……エリ……カ」
掠れた声だった。
「オルガーー!」
エリカの叫びが、広間を裂く。
「――兄さん!」
カイの声も重なる。
ナギは目を伏せるようにマリアスへとしがみついた。
その小さな身体が、震えている。
マリアスは目を見開いたまま、言葉を失っていた。
見ている。
理解している。
だが、それを受け止めることができない。
せめてものように、ナギの手を強く握る。
その手もまた、わずかに震えていた。
オルガの目は、確かにエリカを捉えた。
「……ようやく……会えたな……エリカ」
崩れ落ちながら、オルガの意識は遠い日の塔へ沈んでいった。
――十八年前。
まだ幼いオルガは、両親に手を引かれ、祈りの塔へと来ていた。
高くそびえる塔を見上げても、何がそんなに大切なのかはわからない。
ただ退屈で、早く帰りたくて仕方がなかった。
「オルガ、ほんとお前は……もうすぐお兄ちゃんになるんだから。お祈りのときくらい、大人しくしなさい」
母の声が少しだけ強くなる。
「やだよ。退屈なんだもん。早く帰ろうよ」
頬を膨らませるオルガの頭を、父が苦笑しながら撫でた。
「まぁ、まだわからなくていいさ。もう少し大きくなれば……信仰の意味も、きっとわかる」
その手は機構で出来ているはずなのに、不思議と温かかった。
オルガは、その感触が好きだった。
「おやおや、元気の良さそうな子だ」
穏やかな声が、背後から降ってくる。
振り向いた先に立っていたのは、ルミエルの次期最高指導者――ルシエだった。
両親が慌てて膝をつき、頭を下げる。
「おやめください。ここでは私もただの信者です。皆と同じですよ」
柔らかな笑み。
その言葉に、両親はほっとしたように顔を見合わせた。
ルシエはしゃがみ込み、オルガと目線を合わせる。
「君、名前は?」
「……オルガ」
「オルガか。いい名前だ」
少し考えるようにして、続ける。
「ねぇオルガ。私の子供たちと友達になってくれないか? ノエルとイエル、双子なんだ。君と同じくらいの歳だよ」
オルガは即座に首を振った。
「やだ。おじさんネオスでしょ。オレ、ネオスの子供とは遊ばない。あいつら、祈念種をバカにするから」
「オルガ!」
父が慌てて声を荒げる。
だがルシエは、静かに手でそれを制した。
「……そうか。すまないな」
一瞬だけ、表情に影が落ちる。
それでも、すぐに笑みに戻した。
「私はね、そんなこの国を変えたいんだ」
その言葉は、祈りのように静かだった。
ルシエはオルガの肩に手を置く。
「そうだ。ミデアのマリアスって子もいる。オリジンのリゼルもだ。リゼルはね、お菓子作りが得意なんだ」
「お菓子?」
オルガの目が、わずかに輝いた。
「そう。そこに種族は関係ない」
ルシエは、少しだけ楽しそうに目を細める。
「それに……君みたいな元気な子には、エリカの遊び相手にもなってほしい」
その名が出た瞬間、両親の表情が変わった。
「ルシエ様、それは……!」
慌てて頭を下げる。
「この子はまだ未熟で……エリカ様に無礼でもあれば、私たちは――」
「大丈夫ですよ」
やわらかく、しかし確信を持って言い切る。
「エリカも、まだ子供です。きっと……喜びますよ」
その言葉の奥にあったものを、幼いオルガはまだ知らない。
ただ――どこか遠くで、誰かが待っているような気がした。
その日から、オルガは塔の上層へ出入りする許可を与えられ、折に触れて遊びに来るようになった。
そこには、幾本ものケーブルに繋がれた少女がいた。
エリカだった。
だが幼いオルガにとって、その光景は不思議でも異様でもなかった。
ただ、そこに“そういうもの”として在るだけだった。
「エリカ。お前、ずっとそこに縛られてるみたいでさ……外で遊びたくならねぇのか?」
素朴な疑問だった。
エリカはきょとんとした顔で、すぐに胸を張る。
「可哀想? なんでよ。私はこの都市を守ってるの。ルシエも言ってたわ。エリカは偉いって」
誇らしげに続ける。
「ここは始祖マリー様とユナ様が創った都市なんだから。……この役目は私の憧れでもあるの」
「へー。女どもはみんな信仰が好きなんだな」
オルガがそっぽを向いた、その隙に。
――ぱくっ
隣のマリアスが、オルガのクッキーをひとつ奪い取った。
「あっ! こらマリアス! それオレのだぞ!」
振り向きざま、マリアスの頭に軽くゲンコが飛ぶ。
「いたっ……うぅ……」
マリアスが頭を押さえ、涙を浮かべる。
「オルガ! 女の子に何するんだ!」
ノエルが飛びかかり、オルガを押し倒した。
「うるせぇ、先に食ったのは――」
言い終える前に、二人はもつれ合う。
「もう、やめなさい!」
リゼルが間に入り、強引に引き離した。
その傍らで、イエルがそっとクッキーを差し出す。
「ほら、マリアス。僕の分も食べていいよ」
「……ありがとう」
涙声のまま、マリアスはそれを受け取り、かじりつく。
その様子を眺めながら、エリカが小さくため息をついた。
「もう……オルガ。私のをあげるわ」
そう言って、自分のクッキーを差し出す。
「この国の民の幸せを守るのが、私の役目なんだから」
「いらねーよ」
反射的に返した、その瞬間。
エリカが、オルガの手を取った。
その手の中に、クッキーをそっと握らせる。
――その刹那。
何かが、オルガに流れ込んだ。
祈念波――ではない。
もっと曖昧で、もっと深いもの。
懐かしさに似た痛みと、言葉にならない悲しみ。そこには、どこか遠い怒りと憎しみも混じっていた。
だがそれらを包み込むような、温もりが確かにあった。
――オレは……エリカを、生まれる前から知っている……?
理解が追いつかない。
それでも、心だけが先に震えた。
次の瞬間、オルガは動けなくなっていた。
頬を伝う涙だけが、止まらない。
ノエルが戸惑う。
「えっ……な、なんで……。オレ、悪くないよな……?」
リゼルが静かにノエルの頭を撫でる。
「ノエル様のせいではありません」
優しく、しかしどこか確信めいていた。
「……きっと、オルガの心に何かが触れたんです」
その視線は、エリカへと向けられていた。
「祈念種には、たまにあることなんです。記憶ではなく……想いに触れることが」
エリカは、ただ黙ってオルガを見ていた。
その瞳の奥に、わずかな揺らぎがあったことに、まだ誰も気づいていなかった。




