第102話《未来を残すために》
オルガは薄れゆく意識の中、幼かった頃のエリカと、いま目の前に立つエリカの姿をゆっくりと重ねていた。
「……いい女になったな、エリカ」
掠れた声だった。
「やっと会えたってのに……つくづく運がねぇ」
胸元へ手を当てる。
砕けた祈念核は、もう熱を失い始めていた。
「……それでもいい。また……お前に会えた。それだけで、生きた意味になった」
視線を外さぬまま、石床へ手をつく。
その身体は、もう立っていることすら限界だった。
「――クハッ……」
血が零れる。
その瞬間だった。
オルガの魂へ、灼けつくような記憶の奔流が流れ込む。
それは魂の輪廻の記憶。
奪う、奪われる。
争い、殺し、殺される。
理不尽に、不条理に。
生まれ変わってなお、また命を奪われる。
「……また……殺される……」
低く漏れた声と同時に、オルガの身体が黒い波動に包まれた。
神聖だったはずの広間が、一瞬で冷え切る。
それは祈念波ではない。
虚無。
憎悪。
祈りの果てに沈殿した、何か別のもの。
ラグスが思わず一歩退いた。
「……なんですか、これは。祈念波では――」
言葉は、最後まで続かなかった。
オルガの剣が閃く。
凄まじい速度だった。
寸前で身を逸らしたラグスの頬を、剣先が浅く裂く。
血が散った。
ラグスの瞳に、初めて明確な動揺が走る。
神性とは真逆の、底の見えない邪悪だった。
赤く染まった瞳が、ラグスを捉えて離さない。
エリカが叫ぶ。
「ダメだ、オルガ! 祈りの墓場へ堕ちるぞ!」
駆け寄り、背後からその身体を強く抱き締めた。
「もういいんだ、オルガ……」
震える声だった。
「お前の最後の瞬間、私がそばにいる。……だから、憎しみで終わるな。怒りで終わるな……」
エリカの祈念波が、静かにオルガを包み込んでいく。
荒れ狂っていた黒い波動が、少しずつ揺らぎ始めた。
エリカは、そっと囁く。
「先に行ってろ。必ず、お前を見つける。――だから……安心しろ」
涙が、頬を伝う。
その言葉が落ちた瞬間、オルガの瞳から赤い光が静かに消えた。
全身から力が抜ける。
そして――ゆっくりと、目を閉じた。
エリカは、その身体を抱き締めたまま、小さく呟く。
「……オルガは、還ってしまった」
それは、魂が肉体を離れた証。
祈念波ですら、もう届かない場所へ旅立ったということだった。
ラグスが、薄く笑う。
「死にましたか。……祈念種は、油断なりませぬ」
その瞬間だった。
ルカのレンズが七色に瞬く。
「オルガ、ルカノ相棒。ルカ、許サナイ!」
硬質な足音が石床を打つ。
一直線にラグスへ向かい、レンズから閃光が放たれた。
ラグスは即座に身を捻る。
光はわずかに逸れ、石壁を深く焼き裂いた。
そのままルカは、オルガの亡骸のもとへ歩いていく。
小さな機体が、オルガの傍らへ静かに座り込んだ。
レンズの光が、ゆっくりと弱まっていく。
祈念波は、もう残っていない。
それでも離れようとはしなかった。
「……オルガ……ルカノ相棒……」
最後の光が、かすかに揺れる。
そのまま静かに、ルカの機能は停止した。
「……危ないですね。凶暴なユニットで――」
ラグスの言葉は、最後まで続かなかった。
背後に、影が落ちる。
カイだった。
青白い祈念波を纏った手刀が、迷いなく振り下ろされる。
ラグスは咄嗟に剣を差し込み、その一撃を受け止めた。
しかし、激しい火花が散り、剣が音もなく折れる。
「小僧がっ!」
その声には、わずかな焦りが混じっていた。
次の瞬間、カイはすでに間合いの内へ踏み込んでいる。
狙いはただ一つ。
ラグスの胸元だった。
しかし伸ばした手が届く寸前、腕を掴まれる。
そのまま強引に投げ飛ばされ、視界が反転した。
だがカイは空中で身を捻り滑るように着地する。
それでも視線だけは決して逸らさなかった。
「……起爆装置を狙ったな」
ラグスが低く言う。
「兄さんが……最後にルカへ送った祈念だ」
息を整えながら、カイはラグスの胸を指した。
「そこにあるってな」
瞳からは涙が零れている。
それでも、拳は震えていなかった。
ラグスは一度だけ目を伏せ、小さく息を吐く。
「……ここまでとは。実に厄介ですね」
折れた剣を見下ろし、ゆっくりと視線を巡らせる。
エリカ。
マリアス。
カイ。
ヨウル。
そして――ナギ。
「手負いの獣に、ミデアが二人。オリジンも二人……そのうえ、どいつも規格外……」
その言葉と同時に、ラグスの両脚の機構が火を噴いた。
空気が裂ける。
踏み込んだ石床が抉れ、姿が消えた。
気づいたときには、ナギの目の前にいる。
伸ばされた手が、その小さな身体へ迫った。
「――いやっ!」
ナギの悲鳴が響く。
だが次の瞬間、ラグスの腕はマリアスの剣に弾かれていた。
衝撃を逃がすように身を捻り、そのまま出口側へ転がる。
マリアスもまた、ナギを抱き寄せたまま広間中央へ滑り込んだ。
「ナギ! 大丈夫か!」
駆け寄ったカイに、ナギは怯えたまま小さく頷く。
「……うん」
ラグスはゆっくりと後退していた。
背が、大扉へ触れ、そして止まる。
「……さて、出口は、いただきました」
静かな声で、わずかに笑う。
「この塔は、ここで終わりです。祈りの塔もろとも――消えていただきましょうか」
その言葉は、あまりにも淡々としていた。
「オレたちを閉じ込めて、塔を破壊する気か!」
カイが叫ぶ。
その横で、マリアスが小さく囁いた。
「ナギ。私はラグスを止める」
静かな声だった。
「……私のために、祈ってくれるか?」
ナギは涙を浮かべたまま、小さく頷く。
「……うん」
「ありがとう、ナギ」
マリアスは優しく微笑んだ。
「必ず使命を果たす。私の使命は……君が幸せに暮らせる世界を残すことだ」
その瞳が、真っ直ぐ前を向く。
「私の祈りは――その世界で、皆と共に生きること」
そして、ナギが胸の前で手を合わせた瞬間、世界が変わった。
塔が共鳴する。
祈念波が、首都ユナガーデン全域へ広がっていく。
「マリアス……大好き」
涙が零れる。
「カイも、オルガも、エリカも……ルカはナギの子で、私のママなの。ヨウルもお友達。イエルも……あそこにいた人たちも……」
祈念波が、さらに強く脈打つ。
「ネオスも、祈念種も……世界が平和でありますように……」
その願いは、祈りそのものだった。
「マリー様は、この世界を創ったの。ユナ様のために……ピリカ様のために……セレア様も、アネシアも、ずっと守ってた……」
嗚咽混じりの声が続く。
「みんなに……仲良くしてほしくて……」
ナギの祈念に呼応するように、力尽きていたルカのレンズが再び淡く光を取り戻し始める。
その祈念を受け、マリアスの背に片翼が広がった。
「ラグス。お前には見えなかったのか」
マリアスの片翼が淡く輝く。
「この都市は、誰かを踏みつけるためではなく――皆が幸せに生きるために、祈りの中で受け継がれてきた」
地を蹴る。
一瞬で間合いを詰め、祈念波を纏った刃が振り下ろされた。
ラグスは機構化した右腕で受け止める。
激しい火花が散った。
「――グッ!」
衝撃に押され、ラグスが一歩退く。
「その顔です、マリアス。美しい理想を語りながら、祈念種も結局は怒りで剣を振るう」
マリアスは静かに剣を構え直した。
「怒りではない。怒りだけで、人は未来へ進めない。倒れた者たちは、憎しみのために命を散らしたのではない。誰かを守り、未来を残すために戦った。ならば私は、その想いを背負う。祈りを、ここで終わらせないために」
その瞳は、まっすぐラグスを見据えていた。




