第91話《祈りを背に》
――出発当日。
アストレア宮殿前広場。
朝の光が、石畳を淡く照らしていた。
だがその静けさとは裏腹に、広場にはすでに多くの人々が集まっている。
ざわめきが、広場をゆっくりと満たしていく。
「本当に行くのか……」
「ルミエルと対話なんて……」
「危険すぎる……」
不安と期待が入り混じる声。
それでも――
誰一人として、その場を離れようとはしなかった。
――そのとき。
広場の奥、宮殿の扉がゆっくりと開く。
マリアスが姿を現した。
その後ろには、カイとナギが手を繋ぎ、足元にはルカ。
その隣にはヨウル、さらにオルガとイエルが並び立っていた。
歓声が、広場を揺らした。
「マリアス様ー!」
「オルガ様ー!」
その熱狂に、カイが目を見開く。
「すごい……こんなにも、みんなに……」
言葉を探すように息をつき、思わず笑う。
「……愛されてるんだな」
そして、ふと横を見る。
「……兄さんも? すごい人気だ」
イエルが肩をすくめるようにして、隣に並んだ。
「そりゃそうさ。この五年、この国を立て直すのは楽じゃなかった。力仕事なんかは、オルガが率先して皆を助けていたからな」
カイはその言葉を聞きながら、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
誇らしさと、ほんのわずかな羨望。
そのとき。
「イエル様ー!」
ひときわ高い、女性たちの声が飛ぶ。
カイが思わず笑う。
「イエルもすごいな。特に女性に人気だ」
イエルは苦笑いを浮かべた。
「まぁね。孤児院や養護施設で子供たちを預かってるから……あれは、子どもたちのお母さんだよ」
その言葉に、少しだけ柔らかな空気が混じる。
――その中で。
「カイ! カイ君!」
聞き覚えのある声が届いた。
「え?」
視線を向けると、そこには――
五年前、ユナガーデンへ旅立つ前。
カイが身体の機構を修理した人々が、何人も手を振っていた。
「カイ君! 君のおかげで、今でも調子がいいよ!」
「また何かあったら頼むぞ!」
イエルが、ぽんと軽く肩を叩く。
「カイ君……君も、この国のヒーローだな」
「……うん」
カイは小さく頷いた。
込み上げるものを抑えきれず、少しだけ目を細める。
そして、まっすぐに手を振り返した。
マリアスは片手を上げ、一歩前へと歩み出た。
歓声は自然と収まり、広場はゆっくりと静寂に包まれていく。
誰もが、次の言葉を待っていた。
マリアスは集まった人々を見渡した。
一人ひとりの顔を確かめるように、ゆっくりと。
「皆、集まってくれてありがとう。これから、我々はルミエルへ向かう」
わずかなざわめきが広がる。
それでもマリアスは言葉を止めない。
「だが――これは戦いではない。祈りを守るための対話だ」
その一言で空気が変わる。
人々の視線が、まっすぐにマリアスへと集まった。
マリアスは一度、広場を見渡した。
「この国は、決して順風満帆ではなかった」
静かに、過去をなぞるように言葉を落とす。
「迫害され、奪われ、声を上げることすら許されなかった時代もあった。祈りは踏みにじられ、存在そのものを否定され続けてきた。それでも我々は立ち上がった。祈りを捨てなかった。互いに支え合い、この国をここまで築いてきた。だからこそ、守る価値がある」
人々の表情が、わずかに変わる。
それでもマリアスの視線は、まっすぐ前を向いた。
「そして今――」
一歩、踏み出す。
静かに、だが確かに響く声。
「この連鎖を終わらせる時だ。奪われ続ける歴史を、ここで断ち切る。この国の祈りを未来へ繋ぐために」
静かな風が、広場を通り抜ける。
「この道は平坦ではない。気づいている者もいるだろうが、我々はつい先日、ルミエルと交戦したばかりだ。正直に言おう。この対話の場も、ルミエルの策略である可能性もある。よって、命を落とす可能性もある。それでも私は行く。なぜなら、この国の祈りを背負っているからだ」
その言葉は重く、だが確かな温もりを帯びていた。
マリアスは再び視線を巡らせる。不安に揺れる者もいれば、祈るように見つめる者もいる。
「もし――私が戻らなかったとしても、どうか生きてほしい。祈りを絶やさず、この国を守ってほしい……」
その声は静かで、どこまでも優しかった。
そして、ほんのわずかに微笑む。
「……と言えば、また仲間たちに叱られるな。だから安心してくれ。私は帰ってくる。必ず、皆のもとへ。だから、信じて待っていてくれ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が揺れる。
ナギもカイと目を合わせ微笑み合う。
沈黙のあと、ひとつの声が上がった。
「マリアス様……!」
それは瞬く間に広がり、祈りのような声が重なっていく。
「必ず帰ってきてください!」
「信じています!」
その声を背に、マリアスは静かに立っていた。
振り返ることはない。
だが、その背には確かに、この国すべての祈りが宿っていた。
マリアスが静かに左手を上げた。
「ソルフェ!」
その呼びかけに応じるように、空気が震える。
次の瞬間、上空から滑るように降りてきたのは、マリアスの移動ユニット――ソルフェだった。
大きな翼を持つ鳥型の機体。
カイの手によって修復されたその姿は、以前にも増して洗練され、機能美すら感じさせる輝きを帯びている。
かつては飛ぶことすら叶わなかったその機体は、新たな翼を得た。
今やそれは、空を翔ける存在へと変わっていた。
マリアスは軽やかに跨り、前へとナギを乗せた。
ナギは少し緊張した様子でヘルメットとゴーグルを装着する。
ルカもまた整備された大型ユニットと連結し、その背にオルガが乗り込む。
カイはヨウルに跨り、イエルも自身の移動ユニットへと静かに身を預けた。
全員の視線が、自然と前を向く。
マリアスは一度だけ振り返った。
広場を埋め尽くす人々。
その一人ひとりを、確かに胸に刻むように。
「それでは、行ってくる。アストレアの民よ――皆は、私の誇りだ」
その声はまっすぐに響いた。
「どうか祈ってくれ。我々祈念種は繋がっている。皆の祈りが、私たちの力になる」
一瞬の静寂。
そして――
大きな声援が、広場を震わせた。
「マリアス様ー!」
「どうかお気をつけて!」
「無事を祈ってます!」
その声を背に、マリアスは歩みを止めなかった。
だが、その背には確かに、この国すべての祈りが宿っていた。
その熱がまだ消えきらぬまま、マリアスは静かに左手を上げた。
「……行くぞ」
静かな号令。
次の瞬間、小さな隊列はゆっくりと動き出した。
石畳を踏みしめる音が重なり、やがてそれは確かな行進へと変わっていく。
祈りを背負い、未来へ向かうために。
彼らは、国境へと歩き出した。




