第89話《統治者の選択》
伝達ユニットが中央区へと帰還したのは、夕刻だった。
要人の一人がそれを抱え、ノエルの前に跪く。
「ノエル様。アストレアより、伝達ユニットが戻りました」
「そうか。皆を集めろ。緊急議会を開く」
「御意」
――数時間後。
昨日に引き続き、評議会本部には要人と議員たちが集められていた。
重苦しい空気が、室内を満たしている。
ノエルが静かに口を開く。
「アストレアからの返信は、記録されていたのか」
「はい。録画データが確認されております。イエル様を人質に交渉を要求しています」
議会内が騒めきが広がる。
「卑怯な祈念種どもめ!」
「……しかしイエル殿はアストレアと繋がっているという噂も」
「黙れ。まずは――再生しろ」
そのときだった。
会議室の扉が開く。
ゆっくりと中へ入ってきたのは、車椅子に乗ったラグスだった。
失われた右腕と両膝から下には、すでに機構が組み込まれている。
「ラグス……無理はするな。まだ休んでいろ」
ノエルが低く声をかける。
ラグスは穏やかに微笑んだ。
「お心遣い、痛み入ります。しかし今は、ルミエルの命運が揺れる局面。ただ眠っているわけには参りません」
そのまま車椅子を滑らせ、ノエルの横へと並ぶ。
「それにしても――ルミエルの医療技術は見事です」
ラグスは機構化された右手を持ち上げ、指を滑らかに動かしてみせた。
「失った部位も、すでに私の一部となっております。違和感はほとんどありません」
その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「それは……何よりだ」
ノエルは短く応じた。
だが、その視線は決してラグスから離れない。
ラグスはイエルに刃を向けた男だ。
ノエルの意識は、無意識のうちにラグスの腰元へと向けられていた。
そこにある短剣。
わずかな動きすら見逃すことはできない。
空気が静かに張り詰めていく。
「さぁ、アストレアの要望とやらを私にも見せてくださいませ」
ラグスの一言でホログラムが浮かび上がり、マリアスの声が議会に響く。
イエルの首元に当てられた刃に、ノエルは唇を噛んだ。
一方ラグスは、静かにほくそ笑む。
――小賢しい芝居ですね。……理解しているようだ。ノエル様が“人質同然”であることを
再生が続く。
『――君も理解しているはずだ。先日の七区でのあの一閃……あれはアネシアによるものだ。
アネシアは、我々との対話を求めている。それは同時に、ルミエルを守るための選択でもある』
再び議会が騒めく。
「アネシアは眠っているはずでは?」
「祈念種の戯言など鵜呑みにしてはなりませぬ!」
ノエルの鋭い視線が場を貫き、再び静寂が戻る。
『――そして、ノエル。君は、私との対話を検討しているそうだな。私も君と話したい。この条件が満たされるのであれば、イエルは無事に返還する――』
ホログラムの再生が終わり、ラグスが口を開く。
「ノエル様、向こうは対話を望んでいるようですが、いかがなさいましょうか」
ノエルはラグスに視線を向けるが、その疑念は隠しきれなかった。
やがて正面に向き直り、告げる。
「まずはお前の意見を聞こう、ラグス」
「ご安心ください、ノエル様。アストレアに軍備などほぼありません。叩き潰せば済む話です。マリアスはイエル様を殺しなどしません。交渉材料を失えば――あの小国は、滅びるだけです」
議会がラグスの言葉に沸き立つ。
「さすがラグス殿!」
「今こそ潰すべきだ!」
ノエルが静かに立ち上がり、正面を見据える。
その眼差しに、場は一瞬で静まり返った。
「そんな単純な話ではない。アネシアが目覚めている。この都市の中枢が意思を持ち、ネオスの排除を最適解と導き出しているのだ!」
ノエルは再び席に着く。
「……問題は、アストレアではない」
静かに、だが確信をもって言い切る。
「真に対処すべきは――アネシアだ」
議会にざわめきが広がる。
「アネシアが……我らを排除するなどと」
「たかが制御機構が……!」
ノエルの視線が鋭く突き刺さる。
「たかが、ではない」
低く押し殺した声。
「七区でのあの一閃はアネシアが撃った。あれが都市の中枢に向けられていたら――ルミエルは終わっていた」
誰も言葉を返せない。
ノエルはわずかに目を伏せ、続ける。
「アネシアは、すでに“判断している”。我々ネオスを排除すべき存在だと」
空気が凍りつく。
「……ならば即刻、アネシアを停止すれば!」
誰かの声が上がる。
ノエルは首を横に振った。
「違う。排除の判断を下した相手に強行手段で応じれば、“最適解”として即座に都市を破壊されるだけだ」
「エリカは何をしているのです……エリカはアネシアを制御できないのですか!」
ノエルの視線が鋭くなる。
「エリカはこの都市を守ってきた。そのエリカがあの一閃の後、アネシアの前で力尽きていた。都市管理の主導はアネシアだ」
議会に沈黙が落ちる。
その意味を、全員が理解した。
ノエルはゆっくりと視線を上げる。
「アネシアが奴らとの対話を望んでいるのだ」
その言葉に、ラグスの瞳がわずかに細まる。
「つまり――奴らは、我々よりもアネシアに近い位置にいる」
「そうだ。この都市は、奴らとアネシアの対話次第だ」
空気が変わる。
恐怖と理解が、静かに混じり始める。
「理解したか、ラグス。きっかけは奴らであっても、少なくともお前のその怪我の直接要因はアネシアだ。そしてこの都市が祈念波の依存から脱却できていない今、ここは奴らに頼るしかない」
ノエルは静かに結論を下す。
「対話する」
その一言が、場を支配した。
「アストレアとの交渉に応じる。条件は精査するが、このまま武力で進めばルミエルは滅ぶ」
ラグスの横顔が、わずかに歪む。
だが、ノエルはそれを見ない。
「ラグス。準備を進めろ。交渉の場を設ける。――二週間後だ。祈りの塔に奴らを呼ぶ」
「御意」
ラグスは頭を下げ、そのまま視線だけを上げてノエルを見上げる。
だがノエルは、一度もその視線を受けなかった。
――まぁ良い機会です。多少予定よりも早まりましたが……いずれ来るべき時です。――さて……想定外は、アネシアか
ラグスは静かに表情を整えた。
「では早速、準備にかかります」
ラグスが車椅子を後ろへ滑らせる。
「ラグス……」
ノエルは振り向かないまま、静かに呼び止めた。
「病み上がりだ。無理はするな……それでも、お前に任せる」
ラグスはゆっくりと視線を上げた。
「身に余るお言葉にございます。……必ずや、ご期待にお応えいたします」
ラグスが応じるのを、ノエルは振り向かずに聞いていた。
胸の奥に残る違和感は、消えない。
それでもノエルは、ラグスを切り捨てることができなかった。
父を失って以降、常に傍にいたのはあの男だ。
疑念と同じだけ、信頼もまた消えなかった。
だが、扉の向こうへ消える直前、ラグスの口元にはごく僅かな笑みが浮かんでいた。
やがて扉が閉まり、室内に残るのは張り詰めた静寂だけだった。
その夜の議会は、静かに解散した。




