第88話《祈りの交渉》
カイは伝達ユニットを手に取り、内部構造を確かめるように視線を走らせた。
「マリアス。このユニット、録画返信機能と帰還用の座標が設定されてる」
「そうか……」
マリアスはわずかに思案するように視線を落とす。
「なら、このままこちらの要望をノエルに伝えたいところだが……イエル、これは直接ノエルに届くのか?」
イエルは一度息を整え、静かに首を横に振った。
「いや……必ず要人による検閲が入る。兄さんの元へ届く前に、ラグスが目を通す可能性も高い」
その言葉に、場の空気がわずかに張り詰める。
マリアスはユニットへと視線を向けたまま、静かに口を開いた。
「私たちの目的は変わらない。エリカの解放、そしてアネシアとの対話だ。それが結果的として、塔の奪還にも繋がる」
カイが、その言葉を受けるように続ける。
「そのあとは……ネオスが祈念種への迫害をやめて、ちゃんと平和な世界にするんだよね?」
マリアスは、わずかに微笑んだ。
「そうだ。カイ……そしてナギも。この国に生きるすべての者が、穏やかに暮らせる未来のためだ。そのためにも、アネシアと向き合わなければならない」
祈りの塔から放たれた一閃が脳裏に蘇る。
あの光が中枢へ向けられていたなら。
都市は、ひとたまりもなかった。
ノエルでもない。ラグスでもない。
この都市における真の脅威は――
「……アネシア」
マリアスは、小さくその名を呟く。
あの存在は、裁量一つで、すべてを終わらせることができる。
だからこそ対話が必要だった。
イエルはゆっくりと身体を向き直し、マリアスを真っ直ぐに見据えた。
「僕を使え、マリアス」
その一言に、場の空気がわずかに揺れる。
「どういうことだ、イエル」
マリアスが静かに問い返す。
「僕は今、囚われの身ということになっている。だったら、そのまま交渉材料として使えばいい。兄さんにとって、僕は唯一の肉親だ。それに――これは、兄さんが僕を救うために動いた結果だと……そう信じてみたい」
「……イエル」
マリアスの声がわずかに揺れる。
イエルは小さく肩をすくめた。
「その方が、都合もいいだろう」
オルガが腕を組み、低く唸る。
「だとしても、その後が問題だ。仮に引き渡したところで、奴らが約束を守る保証はねぇ。イエルも危険だ」
「だからだ」
イエルはオルガへと視線を向ける。
「この場の全員での面会を条件にする」
わずかに口元を緩める。
「マリアスたちがエリカに辿り着くまで……オルガは僕の首に刃を当てていればいい。その方が、お前も守りやすいだろ。オレだって、もう捨て身で行くつもりはない」
その言葉に、オルガの眉がわずかに動く。
オルガは一瞬だけ考え込み、やがて小さく笑った。
「……なるほどな」
顔を上げ、マリアスを見る。
「マリアス、イエルはオレに任せろ。必ず守り切る」
マリアスはわずかに目を閉じ、短く息を吐いた。
「あぁ……わかった」
そしてイエルへと視線を向ける。
「イエル……もう無茶はやめてくれ。私たちの未来に、君は欠かせない」
イエルは静かに頷く。
「あぁ……わかってる」
マリアスはゆっくりと立ち上がり、オルガへと向き直った。
「オルガ……イエルを頼む」
オルガは力強く頷く。
「任せろ」
マリアスは小さく頷き、カイへと視線を向ける。
「よし、カイ。返信の準備だ」
「了解」
カイがユニットを操作すると、空間に淡い光が走り、画角の前に立つマリアスの姿がホログラムとして立ち上がる。
その光景に、ナギがぱっと表情を輝かせた。
自分の姿が映し出されているのを見て、楽しそうに身体を揺らし始める。
ヨウルもまた、映し出された“もう一匹の狼”に反応し、低く唸り声を上げた。
「こら、ナギもヨウルも落ち着け」
マリアスが軽く笑いながら手を差し出す。
「これは、ノエルへ届けるためのものだ。皆で映るぞ。ルカもこっちへ来い」
「アイ!」
ルカが小さく応じ、よちよちと近寄ってくる。
マリアスは一度全員を見渡し、静かに指示を出した。
「オルガ……イエルの首に剣を当てろ」
「わかった」
オルガは頷き、イエルの背後に回る。
イエルは抵抗することなく一歩前へ出て、その場に静かに立った。
刃が首元へと添えられる。
緊張が、空間にわずかに走る。
「カイ、録画を始めたら、君もこちらへ来てくれ」
「わかった。……じゃあ、録るよ」
カイが操作パネルに手をかざす。
小さな起動音とともに、記録が開始された。
その場にいる全員の姿が、ひとつの画面に収まる。
マリアスはゆっくりと一歩前に出た。
静かに息を整え、口を開く。
「ノエル、久しぶりだな。十七年ぶりだ。ホログラムとはいえ君の姿を見れて嬉しかったよ。
まずイエルの件だが……見ての通りだ。こちらで捕らえている」
その瞬間、オルガがぐいっと前に出る。
「イエルを殺ってまうぞゴラァー!」
「黙れオルガ」
マリアスが即座に切り捨てる。
「誤解するな、ノエル。我々は無闇に命を奪うつもりはない。彼はユナガーデンにおいても、祈念種の権利を守るために動いていた。
だが――君たちネオスは今もなお、祈念種への迫害を続けている。十七年前、その報復を受けたはずだ。君たちの父、ルシエはその果てに命を落とした。……それを、忘れたわけではあるまい」
カイの表情がわずかに歪む。
踏み出しかけた足を、イエルが静かな視線で制した。
「イエルの返還について、こちらからも条件を提示する。返答次第ではイエルの命も保証はできない。
まず、我々をエリカの元へ通せ。そして、アネシアとの対話の場を設けろ。
君も理解しているはずだ。先日の七区でのあの一閃……あれはアネシアによるものだ。
アネシアは、我々との対話を求めている。それは同時に、ルミエルを守るための選択でもある」
わずかに間を置き、声を落とす。
「そして、ノエル。君は、私との対話を検討しているそうだな。私も君と話したい。この条件が満たされるのであれば、イエルは無事に返還する。……以上だ。カイ、止めてくれ」
カイは録画を止め、オルガも剣を下ろす。
マリアスは小さく息を吐き、視線を落とした。
「……私たちも、対話の前に行動に移してしまったことは、早計だったのかもしれない」
そして、ゆっくりとイエルへ目を向ける。
「イエル。先日の一件を踏まえても、向こうが即座に攻め込んでこないのは……ノエルが動かないのは、きっと君を案じてのことだ」
イエルはわずかに目を細める。
「……そう信じたいね」
短く答えたその声には、どこか苦さが滲んでいた。
マリアスは静かに頷く。
「カイ……それをルミエルへ送ってくれ。あとは……祈るしかない」
「……うん」
カイはユニットの操作パネルに手をかざし、帰還座標を起動させる。
わずかな駆動音。
静かに地面へと降ろされたユニットは、カツカツと乾いた足音を響かせながら、宮殿の外へと走り出した。
誰も言葉を発さない。
ただ、その小さな背中が遠ざかっていくのを、全員が、黙って見送っていた。




