第86話《赦しきれぬ心》
アストレア宮殿の客間。
ベッドの上で、イエルは静かに眠っていた。
傍らにはマリアス。
そしてカイとナギ。
ナギは不安そうに、イエルの顔を覗き込んだ。
マリアスはイエルの肩の傷口に手を当て、微弱な祈念波を送り続けている。
カイがその様子を見つめながら、ふと口を開いた。
「マリアス……ネオスの怪我も、祈念で治せるの?」
「いや、気休め程度だ。回復がわずかに早まる程度だな。ただ――イエルの母はミデアだ。普通のネオスよりは、回復も見込める」
カイは一瞬言葉を失い、思わず声を荒げた。
「えっ……? だってイエルの父親は、次期最高指導者だったルシエだよね? 祈念種を迫害してる国の後取りの妻が、ミデアだったなんて……」
マリアスはわずかに視線を落とす。
「あぁ……。ルシエが生きていれば、あの国はもう少し違っていたかもしれない。それもあって、ルシエは中央から遠ざけられたのだろう。イエルとノエルの母は、二人を産んだあと行方知れずだ」
「……そんな」
カイは言葉を失い、眠るイエルの横顔を見つめる。その表情には、いたたまれない感情が滲んでいた。
「祈念種はネオスに迫害され続けてきた。それでもイエルが僕たちと共に戦ってくれたのは……そういう事情もあってなのか。マリアス、最初は疑ってすまなかった」
「気にするな、カイ。こちらにも伝えきれていないことが多すぎた」
そのとき、わずかに気配が揺れた。
視線を向けると、イエルが薄く目を開けてこちらを見ている。
「イエル……聞いていたのか」
マリアスが安堵を滲ませながら声をかける。
「あぁ……。まずマリアス、助けてもらったこと、礼を言う。ありがとう。君がいなければ、今頃この世にはいない」
「イエル。お前は無茶をしすぎだ」
「……すまない。作戦は失敗だな」
「あぁ。動きを読まれたというより、向こうも同時に仕掛けてきたようだ。それに――ラグス。奴は厄介だ」
その名を聞いた瞬間、イエルの顔が歪む。
「……ラグス。奴だけは許さん」
拳に力がこもり、怒りが滲む。
そのとき、ナギがそっとイエルの胸元に手を置いた。
マリアスの仕草をなぞるように、小さな掌から柔らかな祈念が流れ込む。
「イエル……今は忘れて。怒っちゃダメだよ」
ナギのその言葉とともに、張り詰めていた感情がゆっくりとほどけていく。
怒りは形を変え、沈んでいく。
代わりに浮かび上がったのは――深い悲しみだった。
「……父さん……」
イエルの瞳から、大粒の涙がこぼれた。
マリアスが静かに口を開く。
「イエル。それが、祈念種の心の在り方なんだ。お前にもミデアの血が流れている。ルシエも言っていたはずだ。憎しみではなく、赦しで未来を見据えろと」
イエルの表情がわずかに和らいだのを見て、マリアスは静かに続けた。
「そのために……また、共に戦おう」
「……そうだな」
震えの残る声で、イエルは頷く。
「今はまだ、休め」
「あぁ……」
イエルは静かに目を閉じた。
その呼吸が落ち着いていくのを見届けながら、マリアスはナギを優しく抱き上げる。
「ナギ……ありがとう。ナギの祈念は、この世界を救う」
ナギは照れたように微笑み、マリアスの胸に顔を埋めた。
宮殿の外では、オルガがルカの頭を抱え上げ、必死に叫んでいた。
「エリカー! オルガだ! 聞こえるか、エリカーー!」
「オルガ……ダカラ、ソレワ、エリカニ聞コエナイ」
「ふん! でもお前、伝わるって言ったよな?」
「ココカラワ、サスガニ届カナイ」
「……そうか」
オルガはそのままルカを抱え、地面にどさりと腰を下ろす。
「早く伝えたい。この思いを……。マリアスは次の作戦、決めたのか?」
「ワカラナイ。デモ、オルガノ思イ……ルカノログニ記録。国境越エタラ、エリカヘ放テル」
「何だと……! よし、ルカ。今からオレの思いを全部記録しろ!」
「ウウ……」
それからしばらくの間、オルガは一方的に思いの丈を語り続けていた。
そのときだった。
オルガの背後に、ぞわりとした気配が走る。
――ルカを、こっちへよこせ
言葉ではない。
だが確かに、オルガの祈念核へと直接届いた。
「……!」
反射的に振り向く。
そこにいたのは、低く唸るヨウルだった。
「ヨウルか? ……今のは」
ヨウルの全身を覆う甲装が、バチバチと祈念波を放出している。
「……ただ受信を強めただけじゃねぇな。ヨウルの感情そのものを波形にして飛ばしてるのか……。カイ……やるじゃねぇか」
その隙に、ルカはオルガの腕からするりと抜け出し、ヨウルの元へと駆け寄っていく。
ヨウルは大きく身体を倒し、腹を見せる。
ルカはその周りをくるくると回り、じゃれつくように触れていく。
ひとしきり戯れたあと、ヨウルはそのまま立ち上がり、ルカとともに山の方へと駆けていった。
オルガは、祈りの塔の方角へと視線を向ける。
「まだ遠いな、エリカ。でももうすぐだ。必ずそこから助ける」
宮殿の階段に腰を下ろし、風を受ける。
背後から、足音が近づいてきた。
振り返るまでもなく、それが誰かはわかる。
「残念だった、オルガ。私の作戦ミスだ。すまない」
マリアスだった。
「いや……カイが戻ったとき、追ってきた敵ユニットを必要以上にぶち壊したのはオレだ。その直後だ。もっと警戒すべきだった。オレこそすまない」
マリアスはそのまま、オルガの隣に腰を下ろした。
わずかな沈黙ののち、静かに口を開く。
「オルガ……リゼルは死んだ」
「……そっか。殺ったのはラグスか」
拳を握りしめながらも、声は低く抑えられていた。
「いや……ノエルだ」
「ノエルが……」
オルガの視線が揺れる。
「まさか……リゼルは、ノエルも、オレたちも、みんな可愛がってくれてたのに」
「ラグスが、エリオ殺しの罪をリゼルになすりつけた。ノエルはそれを信じたんだ」
マリアスはわずかに視線を伏せ、続ける。
「エリオを殺したのもラグスだ。奴は身体に機構を纏っていた。現場に残っていたという油染みは奴の機構のものだろう」
「クッ……」
オルガの歯が軋む。
「マリアス……オレはどうやら、普通の祈念種とは違うらしい。胸が、やけに熱い……。これが……怒りか」
「……わかるよ、オルガ」
マリアスもまた、静かに目を閉じる。
「私の中にも、悲しみとは別のざわめきがある。押し込めても消えない……強い衝動だ。だが、それに呑まれてはいけない」
ゆっくりと目を開く。
「いずれにせよ、エリカを早く助けなければならない。ラグスは何をするかわからない。ノエルも……殺すと言っていた」
「……ノエルも? ラグス、奴の目的はなんだ」
その言葉が、重く落ちる。
「いずれにせよ、ノエルも救うことになる。いいな、オルガ」
オルガはしばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……あぁ。わかってる」
「それと、塔から放たれたあの一閃。やったのはアネシアだ」
「アネシア? 目覚めているのか?」
「恐らく。エリカなら街ごと巻き込むようなやり方はしない。それに、完全にラグスを狙っていた。エリカは誰であろうと殺そうとはしない」
「……そうか」
二人はそれ以上言葉は交わさなかった。
遠く国境の向こう、エリカがいる祈り塔の方角を見つめる。
マリアスも赤い夕陽に照らされながら、静かに自身の傷を再生させていた。




