第85話《揺らぐ支配》
ルミエル中央制御区医務室。
ベッドの上で、ラグスはゆっくりと目を覚ました。
医療用ユニットたちが無機質に動き回り、傷の縫合や各種処置が施されている。
だが、その身体はすでに大きく欠損していた。
右腕と、両膝から下が失われている。
「目を覚ましたか……ラグス」
「……ノエル様」
「心配するな。失った部位の機構はすぐに完成する。祈念種嫌いのお前も、ついに祈念種の仲間入りだな」
「ご冗談はおよしください、ノエル様」
「とにかく、命があって良かった」
ラグスはゆっくりと視線を上げる。
「ノエル様……塔から放たれたあれは……」
わずかな間のあと、ノエルは低く答えた。
「アネシアだろう……」
ラグスの目が見開く。
「アネシア……。すでにシャットダウンされていたはずじゃ……」
「あの直後、最下層に向かった。二千年分のログをアネシアは抱えている。父ですら、完全には落としきれなかったのだろう」
ノエルの視線がわずかに揺れる。
「アネシアが、オレに話しかけてきた」
その一言に、ラグスの目が鋭く細まる。
「ノエル様……何か、聞かれましたか?」
「なぜだ。なぜそんなことを聞く」
一瞬の沈黙の後、ラグスは目を伏せた。
「……いいえ。ただ、エリカ様の元へ行かれる場合は、私もご同行いたします。エリカ様はオリジン故、ノエル様に危害を加える可能性があります」
「そうか……。まあいい。とにかく今は傷を治せ。今のオレに、信用できる者はお前しかいない」
「御意」
ノエルは医務室を出て扉を閉める。
そして拳を強く握りしめた。
「ラグス……お前は何を隠している」
ノエルは自室に戻り、七区でユニットたちが映したログを何度も再生する。
そこには、躊躇なくイエルやマリアスを殺そうとするラグスの姿があった。
「マリアスがイエルを救い、塔からの一閃がマリアスを救った……」
ノエルは映像を止めた。
ラグスの剣が振り下ろされる直前。
その一瞬で静止した映像を、じっと見つめる。
「……なぜだ」
低く、押し殺した声。
「命じたのは捕縛だ。殺せとは言っていない。それなのに――イエルにまで、刃を向けた……」
拳が、わずかに震える。
「……あれは敵ではない。たった一人残った、血の繋がった存在だ。……ふざけるな」
吐き捨てるように呟く。
怒りが、遅れて込み上げてくる。
だが、その感情を無理やり押し殺す。
「……ラグス」
静かに、その名を呼ぶ。
「あの男は間違いなく有能だ。そして今、この状況で最も頼れる存在でもある。それでも……信用できるのか……」
言葉にした瞬間、わずかな沈黙が落ちる。
視線を上げると、部屋の隅で護衛と称されたユニットたちが無言でこちらを見据えていた。
「……いや。違う。これは護衛ではない。監視か……ラグス」
ラグスの顔が脳裏に浮かぶ。
「あの男は、どこまで見ている。どこまで知っている。……オレを、誰だと思っている」
低く呟きながらも――
その胸の奥に、消えない違和感が残る。
「……アネシア。あれは、もうただのシステムではない」
確信に近い何かが、胸に残っている。
「……オレは、何を見落としている」
問いは、誰にも届かない。
ただ、静かに。
ノエルは、拳を強く握りしめた。
一方、医務室ではラグスがゆっくりと身体を起こし、失った右腕と両足を見つめた。
「やってくれましたね……アネシア。許しませんよ」
疼く痛みが、思考を揺らす。
滲んだ血の匂いが、遠い記憶を引きずり出した。
ラグスは、幼き頃の記憶へと沈んでいく。
ラグスはネオスの中でも最下層が住まう外殻地区で生まれ育った。
その身分ゆえに学校へ通うことも許されず、幼い頃から父の仕事場へ足を運び、遠くからその姿を見ていた。
ラグスの父は祈念種を従え、インフラ整備の現場を指揮していた。
だが、その扱いはあまりにも酷いものだった。
「使えねぇ奴らだな。まだユニットの方がマシじゃねぇか」
殴る、蹴る。
抵抗しない祈念種へ、一方的な暴力と罵声が浴びせられる。
「なんでオレが小汚ぇ祈念種と仕事しなきゃならねぇんだ……クソが」
昼休憩の最中、父は酒瓶を片手にラグスへと語りかける。
「なあラグス。お前は偉くなれ。こんな油臭ぇ連中と同じ場所にいるな。これじゃオレらも祈念種と変わらねぇ」
「父さん……どうやって偉くなるの?」
「さあな……わからねぇ」
そう言って父は酒をあおる。
街のホログラムに映し出される最高指導者エリオ。
その姿と、目の前で酒に溺れる父。
同じネオスでありながら、その差はあまりにも大きかった。
ラグスはその頃から、言葉にできない劣等感を抱き始めていた。
やがて年月が過ぎ、ラグスは父と共に働く逞しい青年へと成長する。
だがその劣等感は、共に働く祈念種へと向けられていった。
父と同じように。
いや、それ以上にラグスもまた、祈念種への暴力に加わるようになっていた。
ある日、現場に通報が入る。
祈念種への迫害に対する反発が強まり、人権派の声が無視できない規模へと膨れ上がっていた。
それを抑えるため、ルミエル最高指導者エリオが直々に視察へ訪れることとなる。
名目は“是正”。
だが実際は、反発を鎮めるための形だけの介入だった。
厳重な警護の中、エリオが現れる。
その隣には、息子ルシエの姿。
「父上、アネシアによると、この現場が特に酷いようです」
ルシエの言葉に、エリオは低く応じる。
「責任者を出せ」
ラグスの父が、即座に前へと出て跪いた。
その態度に、恐れは見えない。
それも当然だった。
エリオは祈念種迫害を黙認し、むしろ推し進めてきた存在として知られていたからだ。
だが――
次の瞬間、エリオの蹴りが父の顔面を打ち抜いた。
「……っ!」
ラグスは咄嗟に割って入る。
「エリオ様! 父はネオスです!」
冷たい視線がラグスへと向けられる。
「だからなんだ。貴様ら下層のネオスなど、祈念種と価値など変わらん」
その一言で、ラグスの身体から力が抜け落ちた。
父は地面に崩れ、血を流しながら呻いている。
ラグスは唇を噛んだ。
今ここで目の前の親子を殺し、そのまま自分も死んでもいい。
そんな衝動が、全身を突き上げる。
しかし、そのとき――
「父上、おやめください」
ルシエが間に入り、エリオを制する。
「穏やかに解決せねばなりません」
エリオは一転して穏やかな表情を浮かべ、ルシエの肩に手を置いた。
「そうだな……すまない、ルシエ。お前は優しすぎる。だがな、その優しさだけでは国は治められぬ。よく学べ」
その眼差しには、確かな愛情があった。
ラグスの胸の奥で、何かが軋む。
殺したい。壊したい。――すべて終わらせたい。
だが同時に、父の言葉が蘇る。
――お前は偉くなれ。
ラグスはゆっくりと前へ進み、エリオの前に跪いた。
「エリオ様。私を中央区でお使いください。必ず役に立ちます」
「何を言っている。小汚いガキが……」
その言葉を遮るように、ルシエが口を開いた。
「父上。この者の身体をご覧ください。鍛えられている。ちょうど私も友というものが欲しかったのです。役に立つかもしれません」
ルシエはラグスの肩に手を置く。
「共に来ないか。中央へ。私の友になってくれ」
――チッ。
ラグスは心の奥で舌打ちした。
だがその感情は、ルシエの純粋な眼差しには届かない。
「……まあいい。ルシエが言うのであれば」
エリオはラグスを見下ろす。
「お前はワシの役に立て」
「はい!」
「連れて行け」
護衛がラグスを引き上げる。
ラグスは振り返る。
地面に倒れた父が、血にまみれながら叫んでいた。
「ラグスー! 良かったなぁ! お前は偉くなれぇ!」
その声を背に、ラグスは中央へと連れて行かれる。
――そして現在。
ラグスはゆっくりと目を閉じ、再び開いた。
「……あれから、もう三十五年ですか」
その瞳には、かつての少年の影は残っていない。
ただ、冷たい光だけが静かに残っていた。




