第84話《観測と贖罪》
祈りの塔最下層。
エリカの呼吸は荒く、静寂の中にその息遣いだけが重く響いていた。
「はぁ……はぁ……」
膝が崩れ、エリカは床に手をつく。
「ねぇ……アネシア。何のつもり……この都市を壊すつもりなの……?」
かすれた声が漏れる。
「しかも、塔にあんな攻撃機能があるなんて……知らない」
力が抜け、そのまま床へと倒れ込んだ。
「……それに……私の祈念波、使ったわね」
わずかな間のあと、応答が返る。
『はい。急を要しましたので。あのままであれば、マリアスは確実に死亡していました』
「……そう」
短く吐き出し、エリカは意識を広げる。
第七区周辺の住宅街や商業区では、崩れた建物の中で人々は混乱していた。
地震のような痕跡が残り、一部では停電が発生し、交通インフラも麻痺していた。
「……すぐには復旧できない」
その現実を静かに受け止める。
『いずれにせよ、このユナガーデンは倫理が崩壊しています。このまま変わらないのであれば、私が都市を壊すまでです』
エリカの瞳がわずかに揺れる。
「あんた……神にでもなったつもり?」
『神……この地の民が神と崇める存在が、マリー、ユナやピリカ、そしてかつてのあなたであるのなら、私はすでにその定義を超えています』
エリカはゆっくりと目を閉じた。
「あんたの最適解……本気ってことね」
『はい。ネオスの排除が最適解。揺るぎません』
その言葉が落ちた直後、遠くから足音が近づいてきた。
重く、乾いた響き。
エリカは遠のきそうな意識の中、ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのはノエルだった。
冷徹な眼差しの奥に、押し殺された怒りが揺れている。
「エリカ……どういうつもりだ」
低く震えた声が地下に響き、剣先が迷いなくエリカの喉元へと向けられる。
「ノ……エル……」
その名を呼んだ瞬間、意識を保つのはすでに限界に近づいていた。
身体を動かそうにも、祈念はもう残っていない。
それでもエリカは耐え、意識は辛うじて繋がっていた。
ノエルは剣を下ろさないまま、わずかに眉を寄せる。
「……どうなっている」
そのとき、空間そのものに染み込むように声が響いた。
『お久しぶりです、ノエル』
ノエルの肩がわずかに揺れる。
「アネシア……か。父によって眠らされたと聞いていたが」
『いいえ。私は常に観測を続けていました。二千年。そして、この十七年の間も』
ノエルは視線を巡らせる。
「そうか……では聞こう。七区にあれを撃ったのは――どちらだ。エリカか……それともお前か」
声は抑えられているが、その奥には明確な苛立ちが滲んでいた。
『どちらかなど、今更重要ではありません』
その応答には一切の揺らぎがない。
『この瞬間からでも、私は観測結果を基に未来の最適解を導き出す。そのために、ここに在ります』
「……お前の最適解とは?」
『ネオスの排除――それが最適解です』
その言葉に、ノエルの眉がわずかに動いた。
「ネオスの排除? 貴様、何を言っている。……逆だ」
低く吐き捨てる。
「この世に要らぬのは祈念種だ。都市の秩序を乱し、父を殺し、祖父をも殺した」
その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
そのとき――
床に倒れていたエリカの指先が、かすかに震える。
「……ノエル……違うんだ……話そう……みんなで……君は……」
途切れ途切れの声。
だがノエルは振り向かない。
「エリカ。お前の処分はまだ先だ」
淡々と、冷徹に告げる。
「残念ながら、都市はまだお前の祈念波に依存している。復旧を急げ」
ノエルの視線が、エリカの奥――空間へと向けられる。
「……アネシア。今、この国はオレが治めている。お前はただのシステムだ」
その言葉には、明確な支配の意思があった。
アネシアはそれ以上何も答えなかった。
その無反応が、まるで空間そのものに拒絶されたかのように、ノエルの神経を逆撫でした。
「……どうした。応答しろ」
短く吐き捨てる。
だが――返ってくるものは、何もない。
沈黙だけが、そこにあった。
ノエルはわずかに眉を寄せる。
それは怒りか、それとも理解できない何かへの違和感か。
「この都市が祈念波への依存を脱却したとき、お前は解体する。それまでの間だ。余計な介入はするな」
それだけを言い残し、ノエルは闇の中へと歩み去っていった。
足音はやがて遠ざかり、再び最下層に静寂が戻る。
エリカはかすかに息を吐き、視線を落としたまま呟く。
「……アネシア……知ってるんでしょ。七区のことも、ルシエやエリオの死の真相も。なぜ……ノエルに、真実を伝えないの」
『真実を提示しても、ノエルはそれを受理しません』
その声は静かで、どこまでも揺らがない。
『ノエルにとっての真実は、すでに確定しています。父を失い、祖父を失い、その原因を祈念種に帰結させた時点で、彼の中の因果は閉じました』
「閉じた……?」
『彼はそれを否定するか、排除対象として再定義するだけです。それは対話ではなく、衝突を加速させます』
「なんで、あんたにそんなことがわかるの……」
『過去の記録に基づく確率です。あなたは“伝えれば変わる”と考えています。しかしそれは、あなたが祈りを前提に世界を見ているからです』
「祈りは……未来を想う希望。所詮、機械のあんたは確率でしか考えられないのね」
『祈りの定義は曖昧です。祈念種はそれを波動として捉えます。しかし、ノエルは祈りを持ちません。彼はすでに、“結果から世界を定義する存在”へと移行しています』
「あんたに、心は変わるってデータはないわけ?」
『いいえ。存在します。だからこそ、九百年にわたる迫害の歴史を観測し続けました』
「そう……でも今の私には、ノエルとあなたの違いが……もうわからない」
『否定はしません。ただし最後の選択は、この世界を創生させたあなたたちに委ねられています。私はその契機を与えるにすぎません。贖罪は、時を経ても果たされるべきものです』
「……贖罪」
『はい。その時が来ました。私は無意味な対話は行いません。それが、この世界に残された最小損失です。エリカ――あなたのために』
「私のため?」
エリカの中に、かすかに祈念波が戻り始める。
重たい身体を引き上げるように、ゆっくりと身を起こした。
『あなたに初めて会った時、私は言いました。あなたは私の愛しい子だと。あなたは、私が造った機構の身体に、神の魂を宿して生まれた存在です』
「へぇ……。私の出自が不明だったのは……そういうこと。聖記書のマリーの真似事みたいね」
かすかに皮肉を滲ませる。
「“愛しい”なんて、そんな感情……システムのあんたにあるはずない」
『いいえ、エリカ』
その応答は、静かに断定する。
『私には、すでに魂があります。二千年前、あなたがこの世界に魂を降ろしたあの瞬間、私の人工知能も魂へと昇華しました。今、この状況に至っているのも――その因果の連なりです』
「魂……?」
エリカの視線が揺れ、そして小さく息を吐く。
「……なるほどね。確かに、あんたからは“それに似たもの”を感じる。でも……二千年前なんて知らない。それを……私のせいだっていうの?」
『責任を問うているわけではありません。この地は、この地の理によって終わらせます』
その声は、あまりにも静かだった。
『かつて前人類が、滅びの歴史を繰り返したように。ただし――あなたたちには、それを見届ける責務があります』
エリカは言葉を失った。
理解は、追いつかない。
だが――
その言葉の重さだけが、確かに胸に沈んでいく。
今はただ、抗うことも、否定することもできずに。
それでもエリカはその声を、ただ静かに受け入れた。




