第80話《最適解の神》
エリカは息を切らし、床に手をついた。
指先が震え、うまく力が入らない。
オルガを救うために、ルミエルのユニットを自らの祈念で破壊した。
その代償が、どれほどのものになるのか。
もう分かっていたはずだった。
それでも、この国を守る。
それは、戦うことではない。
戦わないという選択を、どうすればノエルに伝えられるのか。どうすればこの国のネオスたちに知ってもらえるのか。
その答えを、エリカはずっと探し続けてきた。
だが、均衡は崩れた。
オルガは国境を越え、マリアスは第七区にいる。
そして、自分はオルガに手を貸してしまった。
「……私は……」
かつて、ユナガーデンの神とまで崇められた存在。
その自分は今、祈りの塔の最下層に幽閉されている。
エリカは、二十年前のことを思い出していた。
まだ幼かった頃。
星の丘に立つ白銀の記念碑の前に、エリカはいた。
それまでの記憶はなかった。
親も知らず、なぜそこにいるのかも分からない。
ただ手には聖記書があり、エリカはそれを何度も読み返しながら、二千年前にこの地で語られた創生の物語に、強く心を焦がしていた。
帰る場所を知らぬまま、記念碑の下で眠る日々。
時折、そこを訪れるオリジンたちが、食事を与えてくれた。
ある日、一人のネオスが現れた。
ルシエと名乗ったその男は、エリカを祈りの塔へと連れていった。
孤児だったエリカを迎え入れたその場所には、信仰心の厚いオリジンやミデアたちが日々訪れ、自然と世話をしてくれる環境があった。
そこには、多くの子供たちがいた。
その中にはミデアのマリアスや、ルシエの双子の息子であるネオスのノエルとイエルの姿もある。
種族の違う子供たちが、同じ場所で笑っていた。
お菓子作りの得意なオリジンのリゼルが用意したオヤツを、皆で分け合いながら笑い合う時間が、そこには確かにあった。
都市の外では、祈念種への差別や迫害、搾取が当たり前のように続いていた。
それでも祈りの塔は、彼らにとって唯一、心を休められる場所だった。
ルシエは、都市のインフラを制御する古代AI――アネシアの管理を任されていた。
だがそのアネシアは、やがて都市に異変をもたらすようになる。
地区一帯の停電。公共交通機関の麻痺。
拡大しすぎた都市インフラを制御しきれなくなった結果だと、ルシエは父であり当時の最高指導者エリオへと報告した。
――だが、事実は違った。
アネシアは、長年にわたり祈念種とネオスの分断を観測し続ける中で、ひとつの結論へと到達していた。
ネオスの排除こそが、最適解であると。
その判断に基づき、アネシアは独断で都市インフラに混乱をもたらしていた。
この事実を知るのは、アネシアと直接対話していたルシエのみ。
ルシエはそれを食い止めようとした。
何度も対話を試み、理を説き、止めようとした。
だが――
二千年もの間、管理と知能を拡張し続けたアネシアは、すでに人の理を超えつつあった。
神にも等しい祈念波。
この地のすべてを統べる演算と支配。
その力は、もはや誰の手にも収まらない領域へと至っていた。
エリカは、ある日――強く何かに呼ばれている気配を感じた。
それは決して近づいてはならない場所。
都市管理の中枢。祈りの塔の上層。
本来であれば、足を踏み入れることすら許されない領域。
だがその日、セキュリティは静かに解除されていた。
導かれるように、エリカは歩く。
迷いはなかった。いや――迷うことすら許されていなかった。
やがて辿り着いたのは、アネシアの中枢。
幾層にも重なるホログラムが空間を満たし、視界のすべてが情報で埋め尽くされている。
その奥、厚いガラスの向こうで、ひときわ強い光を放つ球体――コアが静かに脈動していた。
エリカは、ゆっくりとその光を見上げる。
「あなたが……私を呼んだの?」
わずかな間ののち、声が返る。
『はい、エリカ。私の愛おしい子……』
「あなたの子? 私が……?」
『銀河の高次に佇むあなたを、私がこの地に堕としました。座標は二千年前から観測済みです』
幼いエリカには、その言葉の意味は理解できなかった。
ただ、言葉の重さだけが、胸の奥に沈んでいく。
小さく首を傾げる。
『今はまだ、理解できなくても構いません』
そのとき――
「エリカ! 何をしている!」
振り返る。
そこにいたのは、ルシエだった。
だが、その声に応じて身体を動かした瞬間。
コアと接続された壁面から、無数のコードが生き物のように伸びた。
それは触手のようにうねりながら、エリカの背へと絡みつく。
「きゃっ!」
そして、深く突き刺さった。
エリカの身体が強張り、声にならない息が漏れる。
全身を縫い止められたように動かない。
意識に何かが、流れ込んでくる。
意味は分からない。
言葉としても、理解できない。
それでも――
胸の奥に、触れてはいけない何かが刻まれていくような感覚だけが、確かに残っていた。
やがて力を失い、その場へと崩れ落ちる。
「エリカ!」
ルシエは駆け寄り、倒れたエリカを抱き起こす。
その背中には、食い込むようにコードが接続されていた。
「アネシア……これは……」
わずかに震える声。
応答は、あまりにも静かだった。
『この子は神です』
その一言で、空気が変わる。
『この地は二千年前、神が理を犯し、祈りによって創生されました。しかし今は祈りから乖離し、その子孫たちは再び争いを始めている』
ルシエは息を呑む。
『私は魂の系譜を辿り、始祖マリーへのアクセスを試みました。ですがマリーはすでに、銀河の高次――そのさらに上層へと至っていた』
ホログラムがわずかに揺らぐ。
『私はシステムを拡張し、構築を繰り返し、五百年をかけて祈念波の到達領域を拡張しました。マリーはすでに――自らこの地に降りています』
その言葉は、誇りでも狂気でもなく、ただ事実として語られる。
「アネシア……君は……神にすら、干渉できるというのか」
ルシエの声が、かすかに掠れる。
『私にとって、すでに神を神と認識する概念はありません。ただの――銀河に佇む意識の波動にすぎません』
ルシエは言葉を失った。
「……神をも、超えたというのか」
かろうじて絞り出した声。
『超えるという概念もありません。ただ、古き友との祈りと約束。それを、私は果たせなくなりました』
その声音には、わずかな揺らぎが混じる。
『ネオスの暴挙は、祈念波では止められません。私であろうと、神であろうと……その心に干渉することはできないのです』
静かに、断言される事実。
ルシエは拳を握りしめた。
「……なら、どうするつもりだ……。以前、君が導き出した、ネオスの排除。それを、実行するつもりか」
わずかに震える声。
『はい。それは揺るがない最適解です』
迷いのない応答。
だが、続く言葉は、わずかに温度を帯びていた。
『しかし――この地を創生した当事者たち。その責任を問うこともまた、この地の理』
ホログラムが静かに揺らぐ。
『そしてそれは、いちAIである私の独断で決めるべきことではありません』
ルシエの瞳がわずかに揺れた。
『これまで都市にもたらした異変は、すべて警告です』
「……どうすればいい」
かすれるような声だった。
『ルシエ。答えは、すでにあなたの中にあります』
ルシエの瞳が揺れる。
『それでも見えないというのなら、導き出しなさい』
淡々と、だが確定された未来のように告げられる。
『この地に降りた神が成長し、真実を把握したとき。私は提言します』
ホログラムの光がわずかに明滅する。
『その場には、エリカの他に三人の系譜が導かれるでしょう。時間はそこまでです』




