第77話《炎の記憶》
祈りの塔の最下層。
エリカは変わらず祈念波を巡らせ、都市を維持していた。だがその瞳の輝きは翳り、いつしか祈りは意志ではなく、ただ繰り返される無心の作業へと変わっていた。
「中央六区、ユニット損傷……また壊された……破壊確認。中央二区、送電システム六番機……受信板損傷。予備に切替……完了」
囁きに近い声が、暗い空間にかすかに反響する。
感情の削げ落ちたその響きは、もはや誰かの声というより、機構の一部のようだった。
その時、国境のユニットから緊急アラートが発せられる。
国境の向こうに、整然と並ぶユニット群の隊列。
「――オルガ? 何をしている」
わずかに揺れた声に、かすかな人の色が戻る。
次の瞬間、奥の闇から足音が近づいてきた。
湿った空気を踏みしめるような静かな音が、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
エリカは顔を上げた。
目の前に立っていたのは――かつて少年だった面影を残す青年。
「――イエル?……なぜここに」
「エリカ……久しぶりだね。元気……そうではないな」
低く抑えた声だった。
だがそこには、確かにあの頃の温もりが残っていた。
エリカは小さく息を呑む。
長い時の隔たりが、一瞬で胸に押し寄せる。
あの日別れた少年が、もうこんなにも大人になっている。
エリカは手を伸ばしかけ、けれど触れることをためらい、ただ微笑もうとした。
「あぁ……そうだね。君も大きくなった。……無事でよかった」
イエルは短く頷き、視線を伏せる。
言葉にできない時間が、沈黙となってふたりの間に落ちた。
「……すまない。なかなか来れなかった」
「仕方ないさ。君は国の中枢から外されている身だ。ここは危険だ、長居はしちゃダメだ。どうして来た?」
「どうしてって。もう話さなきゃならないことが多すぎて。まず……リゼルがいなくなった。……エリカ、君なら何か知っているかと思って」
エリカの肩がかすかに震える。
瞳が揺れ、言葉を探すように唇が動いた。
「すまない、イエル……リゼルは殺された。ノエルに……私のせいなんだ。本当に……すまない……」
その瞬間、イエルの瞳が大きく見開かれる。
エリカの頬を伝う涙が、静かな光の中でゆっくりと落ちた。
「……殺された? 兄さんが……どうして!」
怒りが、声の奥で燃え上がる。
その瞬間――背後の空気が、わずかに歪んだ。
「――エリカ様が汚らわしい祈念種の子をここに入れたからですよ。リゼルを使って」
低く落ちる声。
振り返ったイエルの目に映ったのは、暗がりから姿を現すラグスだった。
「いけませぬな、イエル様。あなたとてここに足を踏み入れてはいけないはずですよ」
ラグスの姿を見た瞬間、イエルの表情が鬼の形相に歪む。
その奥で、記憶が弾けた。
金属の擦れる音。血の匂い。燃え広がる炎。
崩れ落ちる建物と、途切れぬ悲鳴。闇の中で振り下ろされる刃と、父ルシエの叫び。
血飛沫が夜空に散り、幼いイエルの瞳に焼きついた光景は、今もなお消えてはいない。
「――ラグス! 貴様っ!」
イエルは腰の柄に手をかけ、鋭く剣を抜いた。
研ぎ澄まされた太刀筋が暗がりに白く走る。
ラグスも刃を抜き、間合い一つで衝突する。
刃が火花を散らし、金属の短い悲鳴が壁に跳ね返った。
「ほぅ、イエル様。なかなかの腕前です」
ラグスは皮肉混じりに呟き、そのまま力で押し返す。
勢いに耐えきれず、イエルは弾かれるように飛ばされ、エリカの目前で膝をついた。
「――イエル! 大丈夫か?」
エリカの声は届かない。
怒りに火がついたイエルは、立ち上がると再びラグスめがけて突進した。
「よくも父上を……!」
震える声に、抑えきれない感情が宿る。
「おやおや、それはここでの“禁句”ですよ、イエル様」
ラグスは受け流し、刃を絡めたまま囁く。
「あなたが生きておられることは、私にとって実に都合が悪い。あれは――あなたの祖父、エリオ様の命令でした。私は命を受けただけに過ぎません。私を恨まれるのは筋違いとも言えますな」
イエルの瞳が激しく揺れる。だが次の瞬間には、怒りがそれを塗り潰していた。
「言い訳など聞きたくない! たとえ命令があっても、手を下したのはお前だ。僕の目の前で、父上を――!」
ラグスは一歩も引かず、静かに言葉を返す。
「心情はお察ししますよ、イエル様。しかし現実は情で動くものではない。ノエル様は真実を知らぬまま統治している。もし彼にすべてを告げれば、連邦は内に裂ける。民は動揺し、国は瓦解するでしょう。……それを、あなたは望みますか?」
その声音には、わずかに愉悦が滲んでいた。
イエルの剣先がぶるりと震える。
「望むかって? 望むわけないだろう! だが、父の血の意味をこの国が忘れるのを――許すつもりもない!」
ラグスは薄く笑った。
「祈念種を悪者に仕立てることで、民衆の結束は保たれている。あなたの存在は、その秩序を壊す真実そのものだ。……やはりここで消えていただくのが最も都合がいい」
空気が張りつめる。
その刹那――
「黙れぇぇぇっ!」
イエルは再び飛びかかった。
怒りと涙を乗せた一撃が、閃光のように走る。
だがラグスはそれを受け止め、間髪入れずに強烈な膝蹴りを腹に叩き込んだ。
「――ッ!」
イエルは息を詰まらせ、膝をつく。
石床の冷たさが、容赦なく現実を突きつけてくる。
ラグスの刃が、首筋へとすくい上がる。
冷たい先端が、静かに肌を押した。
「――ラグス! やめろ!」
エリカの叫びが響く。
ラグスはわずかに目を細めると、刀を鞘へ戻した。
「私も無闇に人を斬るつもりはありません。……が、警告はしました。次にここへ近づけば、同じ結末を招きますよ、イエル様」
イエルは首筋の血を押さえながら、震える声で言う。
「……兄に会わせてくれ」
「叶いませぬ。それでは面倒が増える」
短く、冷たい拒絶。
イエルは唇を噛み、血が顎を伝った。
「あなたは今、常時監視下にある。次は――本当に斬りますよ。その首を。……あの夜のように」
「それ以上は言うな!」
イエルはよろめきながら立ち上がる。
「エリカ……すまない。まだ希望はある」
そう言い残し、震える足で闇へと消えていった。
エリカは何もできなかった。
ただその背を見つめ、声にならないまま涙を流す。
伸ばしかけた指は宙を掴み、冷たい床を押さえたまま、どうしようもない苛立ちと哀しみが胸を締めつける。
イエルの背後に、小型監視ユニットが一定の距離を保ちながら追従していった。
「ところでエリカ様、七区からまたあのミデアの少年が入国したようですな。大きな獣に乗っていた。見つけ次第、排除します」
ラグスはそれだけを告げ、闇へと戻っていく。
――カイが。
その名を思った瞬間、エリカの胸に小さな灯火が生まれた。
冷たい機構の中に閉じ込められたまま、それでも消えない、微かな光。
国境にはオルガが現れ、イエルもここに来た。
ならば――きっと何かが変わる。
そう信じたい。
この国を守るために。
そして――祈りを、取り戻すために。




