第75話《嵐の前に、花束を》
――夜。
アストレアの宮殿は静寂に包まれていた。
白い回廊の灯りは落とされ、外の風の音だけがかすかに響いている。
マリアスは長卓の前に立ち、ゆっくりと視線を巡らせた。
カイ、ナギ、オルガ、そしてイエル。
ヨウルはマリアスの足元で、ルカを枕に静かに眠っている。
全員が揃っていた。
「――ついに、この時が来た。塔の奪還とエリカの解放――そして、アネシアとの対話」
その一言で、空気が引き締まる。
「アネシアの状態は、おそらく限界に近いかもしれない。アネシアは対話の要求から、もう二十年近くも過ぎている……きっと、長くはもたない」
カイが眉を寄せる。
「……アネシアって、そんなにヤバいのか?」
マリアスは静かに頷いた。
「アネシアの最適解は――ネオスの排除だ」
その瞳に、かすかな影が差す。
「旧式の人工知能とはいえ、二千年ものあいだ進化を続けてきた存在。恒星の光を祈念波へと拡張し、この都市を維持していた。……完全に停止させることはできない。だから今は――エリカが、その暴走を抑えている」
ナギが不安そうにマリアスの袖を握った。
「……エリカ、苦しいの?」
マリアスは一瞬だけ目を閉じ、そして優しく微笑む。
「だから、助けに行くんだよ」
ナギは小さく頷いた。
イエルが一歩前に出る。
「塔の地下には旧通路がある。父の手記に記されていた。閉鎖されているが……まだ生きているはずだ」
オルガが腕を組む。
「そこから侵入するってわけか」
「そうだ。ただし、まずは単独で調査する。人数が多ければ気づかれる」
カイが顔を上げる。
「一人で……大丈夫なのか?」
イエルはわずかに笑った。
「こう見えて、潜入は得意なんだ。……だから僕はここにいる」
その笑みは軽いが、どこか影を帯びていた。
マリアスが続ける。
「イエルが内部に入り、地下通路を探る。その後――第七区で合流する」
「第七区……」
カイの表情がわずかに曇る。
イエルが静かに言った。
「監視が最も薄い場所だ。だが同時に……最も記憶が残る場所だ」
オルガが口を開く。
「そのタイミングで、オレが外で騒ぎを起こす」
カイが驚く。
「騒ぎって……」
「国境付近に出る。農業用ユニットを連れてな。あいつらはカイの改造で連携が取れるんだろ?」
カイは小さく頷く。
「ああ……ルカと繋げば、ある程度は動かせる」
「なら十分だ。ルミエルに“攻めるぞ”と思わせる。それだけでいい」
マリアスが補足する。
「注意を外へ向けさせる。その隙に――私たちは塔へ入る」
「――ナギもか……」
カイが問い返す。
マリアスは、まっすぐに見た。
「私と、カイと、ナギ」
空気が止まる。
「……ナギ、大丈夫か?」
ナギは小さく震えた。
けれど、ぎゅっと拳を握る。
「……いく。わたしも」
マリアスは優しく頷いた。
「ナギは必要だ。4人でなければ、アネシアの要求には応えられない」
短い沈黙。
誰も、この作戦が綱渡りであることを理解していた。
それでも――進むしかない。
「……成功すると思う?」
カイがぽつりと呟いた。
誰もすぐには答えない。
やがて、マリアスが言った。
「わからない」
はっきりと。
「それでも――行動しなければ、何も変わらない」
その言葉は、静かで、揺るがなかった。
イエルが振り返る。
「では、先に行く。五日後、合流地点で待つ」
オルガが低く言う。
「しくじるなよ」
イエルは振り返らず、軽く手を上げた。
「イエル!」
マリアスの呼びかけにイエルは足を止める。
「怒りに囚われるな。ルシエも銀河から見守っている」
「あぁ、分かっているよ」
イエルの足音が、静かに遠ざかっていく。
その瞬間――マリアスの祈念核が、わずかに震えた。
胸元に手を当てる。
何かが引っかかる。
それはイエルの深い怒りだった。
自身も祈念種であるがゆえに、マリアスですらイエルを理解しきれているのか、自信が持てなかった。
全ては揃っているはずだった。
カイも戻り、条件は満たされている。
それでも――。
拭いきれない一抹の不安が、胸の奥に残る。
遠く、夜の空。
銀河が、静かに瞬いていた。
まるで、すべてを見透かしているかのように。
――翌朝。
カイは早速、ユニットたちの改造に取り掛かっていた。
祈念波の受信盤と増幅装置。
それを二百台分。
「こりゃ大変だ……。ルカ、手伝ってくれ」
「アイ!」
ルカはカツカツと軽やかな音を立てながら、カイの周囲をぐるぐると回る。
まるで作業を観察しているかのようだった。
その後ろを、遊びたくて仕方ないヨウルがぴたりとついて回る。
少し離れた場所で、オルガは塀にもたれながらその様子を眺めていた。
「いいか、ルカ。今日からお前はこのユニットたちの隊長だ。兄さんの言うことを聞いて、この子たちと国境を守るんだぞ」
「アイ! ルカ、国境守ル!」
「兄さんも手伝って!」
「お、おう……。オレはこういうの、あんまり得意じゃないんだが……」
オルガはぎこちなくユニットに装置を取り付ける。
だが、なかなかうまくいかない。
「兄さん、それ上下逆だよ」
「オルガ、不器用。コレワ、コウダヨ。オルガ、ブサイク」
「なっ……! カイ、やっぱりルカも連れていけ!」
「ダメだよ。マリアスの作戦通りにやらなきゃ」
そのやり取りを聞いていたヨウルが、オルガに低く唸る。
グルルル――
「……わかったよ。ほんと嫌われてるな、オレは」
オルガは肩を落とした。
「よし、あとはヨウル。君にもだ」
カイはそう言って、改造した甲装をヨウルに装着していく。
「これで祈念波をより強く感じられる。それに、この機構は跳躍力も上げるし、体力の消耗も抑えられる。……より長く、速く走れるようになる」
ヨウルは大人しく地面に膝をつき、じっとカイの手を受け入れていた。
まるで――その役目を理解しているかのように。
その頃――。
マリアスとナギは、花が咲き乱れる丘にいた。
ナギは好きな花を摘み、小さな花束を作ると、そっとマリアスに差し出した。
「ナギはセンスがいい。とても綺麗だよ」
ナギは照れくさそうに笑い、そのままマリアスの膝に腰を下ろす。
そして胸に顔を埋め、見上げた。
「……マリアスといると、なんだか、とても安心する」
マリアスは静かにその頭を撫でた。
自分でもわからない。
この子に向ける感情の深さが、どこから来るものなのか。
ただ――。
魂の系譜を辿った、そのさらに先。
輪廻を越えた、遠い記憶の奥で。
ふたりが、確かに結ばれていたことだけは感じていた。
「……きっと、昔もこうだったのかもしれないね」
「え?」
ナギが小さく顔を上げる。
マリアスは微笑んだ。
「ナギがもう少し大きくなったら……きっと、わかるよ」
ふたりの祈念核が、静かに共鳴する。
それは言葉にならない温もりとなって、やがて柔らかな笑顔へと変わった。
「これは、マリアスの」
ナギは花束を差し出し、くるりと振り返る。
「カイとオルガにも作るから、待ってて!」
「もちろん」
丘を駆けていくナギの背を、マリアスは静かに見守っていた。
その姿はまるで、母のようだった。
そして同時に、何かをずっと待ち続けていた者のようでもあった。
この時間が、永遠に続けばいいと。
そう願ってしまうほどに、穏やかな光がそこにあった。




