第71話《銀河は見ている》
静かな風が宮殿のベランダを撫で、遠くで街の灯りがゆらめいている。
カイは空を見上げ、小さく息を吐いた。
「すごい……。ユナガーデンじゃ、こんな夜空は見られない。都市の光が強すぎて、星が見えないんだ」
マリアスも同じ空を見上げ、ゆっくりと頷いた。
「そうだね。ここからは銀河が見える。私たちは祈りを抱えて銀河から来た。そしていつか、その祈りを銀河へと還す……。けれど、生まれたときに還すべき祈りを、私たちは忘れてしまうんだ」
カイは広がる銀河を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「マリアスは本当に、歩く聖記書みたいだね。正直、信仰とか、第七区の暴動とか、エリカのこととか……まだよく理解できていないんだ」
そう言って、カイはゆっくりとマリアスに向き直った。
「でも、マリアスの言うことを聞いていれば間違いない気がする。アネシアも起動して、エリカも救えて……みんな幸せになるんだよね?」
その言葉を聞いた瞬間、マリアスの口元がわずかに強張った。
だがすぐに表情を整え、静かに答える。
「そうなればいいね。私にも未来はわからない」
少しだけ視線を落とし、そして再び夜空を見上げた。
「でも私は、特定の魂の系譜を感じ取ることができる。幼い頃、エリカに会ってから、少しずつ感じるようになった」
星々の光が、マリアスの瞳に映る。
「ナギが銀河から、この地へ降りてくることも……見えていた」
カイは息を呑んだ。
マリアスは静かに続ける。
「カイはナギと引き合う。そしてカイがナギを救う。やがてエリカとも引き合う……。私にわかっていたのは、それだけだ」
わずかに間を置く。
「――けれど、それを私が君に示すことはできなかった」
マリアスはゆっくりとカイを見た。
「カイ。君自身の運命として、それを辿る必要があったんだ」
「……運命」
「そう。預言のようにすべてを伝えてしまうことは、この地の理に反する。なぜかはわからない……けれど、それは掟のように、私の心に強く刻まれている」
カイは少しだけ俯き、呟いた。
「それじゃあ……オレがユナガーデンにいた理由って……」
マリアスは優しく問い返す。
「君自身、わかったのだろう? エリカに会って」
カイはゆっくりと顔を上げた。
「……ナギを守る。命にかえてでも」
マリアスは静かに頷く。
「そう。カイをユナガーデンへ行かせたのは、ナギを守り、エリカに会い……その使命に、君自身が気づくことが必要だったからだ」
カイは、ふと過去を思い返した。
三年前――都市の影で衰弱していた、小さなナギを見つけた日のことを。
食糧配給の列にすら辿り着けず、路地の片隅で崩れ落ちていたナギ。
カイは何の疑問も抱かず、その小さな体を抱き上げ、家へと連れ帰った。
あのときから、すでに感じていたのかもしれない。
この子を守るという、自分の使命を。
そしてエリカに会い、それは確信へと変わった。
カイは静かに言った。
「守るよ。ナギを」
マリアスはゆっくりと頷いた。
「頼む。私もナギとは強い縁で結ばれている。そしてカイ……君ともだ」
その言葉を聞いた瞬間、カイの胸が熱くなった。
まるで、自分が何かに選ばれたかのようだった。
「そして、兄さんもだよね?」
マリアスはわずかに視線を逸らす。
「……オルガか。アイツは少し違う」
「え?」
カイは思わず声を上げた。
「アイツは、エリカを追いかけてこの地に降りた」
カイは吹き出した。
「じゃあ……兄さんのエリカをお嫁さんにする使命って……」
マリアスは小さく笑った。
「あながち間違いではないな。だが使命とは少し違う。……けれど、志は同じだ。大切な仲間だよ」
そして、少しだけ表情を曇らせた。
「ただ……オルガは焦っている。早くエリカを救い出したいのだろう。だが都市の状況も、以前とは変わってきている」
カイも静かに頷く。
「都市が信仰を捨て、エリカの祈念を必要としなくなったとき……。今のノエルが、エリカに何をするか……私にはわからない。あの男は、すでにエリカが祈念種の亡命に手を貸していることにも気づいているはずだ」
わずかな沈黙。
「最悪……エリカを――」
マリアスは、そこで言葉を止めた。
その先を口にすることを、自ら拒むように。
夜風が、二人の間を静かにすり抜けていく。
やがてマリアスは、ゆっくりと顔を上げた。
「私は、ユナガーデンを壊したいわけではない」
その言葉には、迷いはなかった。
「だが今の都市は……エリカという、たった一人の犠牲の上に成り立っている」
カイは、言葉を失った。
マリアスの視線が、まっすぐに向けられる。
「カイ。それを、君はどう思う?」
問いは静かだった。
だが、その重さは逃げ場を与えなかった。
カイは息を詰まらせる。
「そんな……ダメだよ、そんなの……」
視線が揺れる。
「なんか……悲しいな」
その言葉は、あまりにも率直だった。
けれど、カイは続ける。
「でも……もし今、都市がエリカを失えば……都市機能は停止する。きっと、多くの人が犠牲になる」
マリアスは、しばらくカイを見つめていた。
その瞳には、迷いはなかった。
「……そうだね。どちらも正しい」
静かに、だがはっきりと言う。
「エリカを救えば、都市は揺らぐ。救わなければ、ひとりの犠牲の上に、この繁栄は続く。ただ、もう私は――決めている」
空気がわずかに張り詰める。
「エリカを救う。たとえ、その代償がどれほど大きくても」
カイの目が見開かれる。
マリアスはまっすぐ前を見据えたまま、続けた。
「これは女王としてではない。ひとりの祈念種としての選択だ」
そして、ゆっくりとカイへ視線を向ける。
「だが、君にそれを強いるつもりはない。カイ、君には君の使命がある。ナギを守ること――それは、何より優先されるべきものだ」
その声は、優しくも厳しかった。
わずかに微笑む。
「だから君は、君で選べばいい」
一歩だけ距離を詰める。
「それでも、もし同じ道を選ぶのなら――私の隣で戦ってくれ」
その言葉は、静かに重く落ちた。
カイは力強く頷いた。
「もちろん。オレはマリアスと強い縁で結ばれているんでしょ? なら、マリアスの隣で戦うよ。……でも、どうすればいい?」
マリアスは静かに答える。
「その先は、アネシアに委ねよう」
夜空を見上げながら、続けた。
「アネシアは二千年もの間、この都市を見続けてきた存在だ。――この星で、最も神に近い」
カイは息を呑む。
「旧都市管理AI……。だから、アネシアを起動させるのか」
「……そうだ」
マリアスの声は、わずかに重みを帯びた。
「アネシアは、この星の理を知っている。聖記書を残したのも、アネシアだ。エリカは……停止させられたアネシアの代わりに、塔へと縛られた。二十年ものあいだ……ネオスによって」
その言葉に滲んだ感情に、カイはわずかに息を詰まらせた。
マリアスの横顔は、険しかった。
やがて彼女は、ふっと表情を緩める。
「……カイ。風が冷たいね。そろそろ休もう」
そう言って背を向けると、小さく呟いた。
「……銀河は、私たちを見ている。忘れるな、カイ」
夜空の銀河が、二人の上で静かに輝いていた。




