第64話《最下層の女神》
二人と一機は、古びたエレベーターに乗り込んだ。
操作パネルには、たったひとつ――最下層のボタンしか存在しない。
「……他に行き先がないってことか」
カイがぽつりと呟き、指先でボタンを押す。
無音のまま、エレベーターは滑るように降下を始めた。
外見の年季とは裏腹に、その動きは異常なほど滑らかだった。
「すごい……こんな速度なのに、音もしないなんて」
ナギは袋を抱えたまま、小さく目を見開いた。
重力の感覚だけが、かすかに落下を知らせていた。
——ここは……いったい、どれだけ地下なんだ。
どれほど時間が経っただろうか。
突然、カツン、と小さな停止音が鳴った。
それを合図に、前方のドアが静かに開く。
瞬間――冷たい風が、地の底から這い上がってくるように流れ込んだ。
その先は、まるで眠る神殿のような静けさだった。
照明らしきものはなく、壁面と天井には古代の遺構のように無数の制御装置が埋め込まれ、微かに点滅している。
広さも、奥行きも不明。
闇のヴェールがすべてを覆っていた。
ナギが一歩足を踏み出そうとした、そのときだった。
「ママー、こっちー!」
ナギの背負ったリュックから、ルカが飛び出した。
カツ、カツ、と小さな足音を立てながら、一直線に奥へと歩いていく。
「ちょ、ルカ!? 待ってってば!」
ナギが慌てて追いかけようとする。
「……ったく、また自由に動くなぁ」
カイもため息をつきながら後を追った。
三つの足音だけが、機械仕掛けの神殿に反響していた。
やがてルカは立ち止まり、ピタリと動きを止めた。
カイとナギがその横に並んだ瞬間――
目の前の闇が、ゆっくりと形を持ちはじめた。
そこに、いた。
薄明かりの奥、制御端末の中央に浮かぶように佇む“それ”は、明らかにただの装置ではなかった。
まるで祈るような姿勢で、無数のコードに繋がれ、淡い光の膜に包まれた存在。
――あれが、エリカ?
「……ごめんね、こんな朝早くに。持ってきてくれた?……ね?」
その声は間違いなくいつもの指令の声。
しかし、あまりにも自然で、あたたかかった。
まるで昨日も会っていた友人のような、けれど決して人間には出せない、どこか浮遊した響き。
薄暗さに目が慣れてきた頃、カイはようやく彼女の姿を確認した。
巨大な制御装置の中央。
地に座する女性の姿。
年齢にして、二十代の半ばほどに見えた。
長く滑らかな銀の髪は、光を受けて静かに揺れていた。
瞳も銀色。
けれどその奥には、数世紀を越える知性と孤独が、ひそやかに宿っていた。
首から下は、全身は黒を基調とした機構で構成されていた。
無駄のない細身のフレームは、装飾というより機能美に満ち、胸元には祈念核が淡く脈打っている。
その背からは、まるで神経のように幾重にも重なるケーブルが伸び、壁面の端末や天井の回路と直接つながっていた。
都市全体と直結した意志。
この空間そのものが、彼女の“身体”なのだと、カイは直感した。
――これは……。
オリジン。
しかもかなり初期の世代。
その存在は、今や絶滅危惧種に等しいとされていた。
「ユニットに、オリジン。そしてミデア。……まるで、進化の過程を見てるみたい」
エリカはゆっくりと微笑み、カイを見つめる。
その瞳には、かすかな喜びと、懐かしさのようなものが浮かんでいた。
カイは、どこかためらいを含んだ足取りで、コードに繋がれた彼女の前に立つ。
「……これです。頼まれていた“ブツ”。ナギ、渡して」
「持ってきてくれたね。例の……甘いやつ」
ナギは、同じオリジンでありながらも、背中から何本もの配線を這わせ、無機質な壁と直結されているエリカの姿に、わずかに身をすくめた。
その動きに気づいたのか、エリカが少し間を置いて、ぎこちなく声をかけた。
「……だ、大丈夫。一緒に食べよう。リゼルのクレープは、世界一おいしいんだ。美味しいものを一緒に食べたら、ちょっとだけ……仲良くなれるから」
ナギが差し出した小さな紙袋を、エリカは興味深げに覗き込む。
「お、三つ入ってる。全員分ある。さっすがリゼル、わかってるじゃん」
袋の中を見たエリカは、思わず声を弾ませた。
そのはしゃぎぶりは、どこか無邪気な子どものようで、カイは戸惑いを隠せなかった。
「……あの、今日はどうして呼ばれたのでしょうか。もし、先日の規約違反についてなら、深くお詫びします。どうか処分は――」
言いかけたカイの言葉を、軽く遮るようにエリカが口を開いた。
「これだよ、クレープ。頼みたかったんだよ。最近リゼル、膝悪いでしょ? 代わりが必要だったの」
エリカは当然のように言って、袋からひとつを取り出し、カイに差し出す。
「ほら、一緒に食べよう。369N52」
「……カイ、です。カイ・セラノ」
カイはわずかに眉をひそめながら、静かに名乗り直した。
「そうだよね。名前で呼ぶって、大事だよね。カイも、一緒に食べよ?」
エリカの声に、ふわりと応えるように、ナギの祈念核が淡く共鳴した。
エリカの胸に宿る光と、ナギの胸奥から溢れ出す温かな波動が、そっと重なり合っていく。
その光景を見て、カイはようやく肩の力を抜いた。
安心したナギは満面の笑みでエリカの隣にちょこんと座り、小動物のように手を差し出す。
エリカは嬉しそうにクレープを一つ取り出し、丁寧にナギへと手渡した。
「ほら、これ。ピンクのやつ、君っぽいでしょ?」
「やったーっ!」
ナギの目がぱぁっと輝く。その姿に釣られるように、カイもゆっくり腰を下ろした。
「はい、カイのはこれ。バナナとマンゴー」
「……ありがとうございます」
受け取ったクレープを一口かじる。
「こっ……これはうまい」
エリカも一口頬張り、目を輝かせた。
「おー! 今日は特別フルーツが多いね! リゼル、わかってる〜!」
「美味しいーーーっ!」
ナギもクレープを頬張りながら、目を輝かせて叫んだ。
「でしょ?」
エリカは誇らしげに胸を張る。
それは記録でもデータでもなかった。
ただ、誰かと過ごす一瞬の時間。
エリカが、たしかに今を生きている証のように思えた。
その時、ルカが小さな足音をカツカツと響かせながら、エリカのもとへ駆け寄った。
「ルカもタベル。ルカもクレープ、タベル!」
その勢いに、カイが思わず声を上げる。
「おい、ルカ。お前、食べる口ないだろ……!」
エリカは優しく微笑んで言った。
「大丈夫。この子には祈念核がある。食べられなくても……この美味しさは共有できる」
そう言って、そっとルカの頭に手を置いた。
「クレープ、オイシー!」
ルカは喜びを表すように、小さな身体で皆のまわりをカツカツと駆け回る。
それを見て、エリカは子どものように無邪気な笑みを浮かべた。
カイは、そんなエリカの横顔を見つめながら、胸の奥がほんの少しだけ温かくなるのを感じていた。
管理システムであり、都市の中枢であり、神に近いものとされる、そのエリカが今ここにいる。
カイは、まだこの場所の意味を掴みきれずにいた。
けれどその隣で笑う記録者の姿が、なぜか心に残った。




