第63話《塔の最下層へ》
朝の五時までに……。
まだ夜が明ける前の時間だ。
ナギを連れていく約束はしていたが、これは何かの始まりなのだろうか。
カイは、メールを読み返すたび、胸の内側がざわついてくるのを感じた。
眠気はとうにどこかへ消えていた。
カイはそのまま静かに立ち上がり、工具バッグを開け始めた。
午前三時四十五分。
空はまだ暗く、街の輪郭はかすかな蒼に沈んでいた。
カイはそっとナギの肩に手を添えた。
「ナギ、起きて。……エリカが呼んでる」
ナギは目を擦りながら身を起こし、眠気が残る表情のままゆっくりと毛布をたたみ始めた。
「……こんなに早く?」
「ああ。……またマリー様に、お祈りしたいんだろ?」
カイはできるだけ軽い口調で言ったが、その心は重かった。
――もしエリカが、ナギの祈念核に直接接触してきたのだとしたら。
もはやナギを残していくことに意味はない。危険を避ける術もない。
身支度を終えたナギの手を取り、玄関へと向かおうとしたそのとき――背後から、小さな音が聞こえた。
「……ママー!」
振り返ると、ルカが小さな足音を響かせながら駆け寄ってきた。
ナギの足にしがみつくようにして、ルカのレンズが潤んだように光っている。
「ルカモ、行ク……! ママト、一緒!」
カイは迷った。
今回の呼び出しの真意は不明だが、ルカに関係している可能性は高い。
であれば、いっそ――
「……連れていこう」
ルカがいて何かが動くのなら、それもまた答えのひとつだ。
ナギはうれしそうにうなずくと、小さなリュックを取り出し、中に柔らかい布を敷いた。
その中へ、ルカと聖記書を丁寧に抱えて入れると、背負うようにしてリュックを背中に固定した。
「……よし」
カイはナギの手を取り、夜明け前の静かな街へと歩き出した。
空はまだ青黒く、モノレールの高架が影のように浮かんでいる。
都市は眠りの中。
けれど、その静寂の先には何かが待っている。
今日という日が、運命を変える一日になるかもしれない――。
始発のモノレール。
その車両には、わずかな乗客しかいなかった。
窓の外には、まだ眠ったままの都市外殻が広がり、ビル群の隙間から薄明かりがゆっくりと差し始めていた。
ナギは座席の隣で目を輝かせながら、流れる景色をじっと見つめていた。
「カイ、見て……きれいだね」
「……そうだな」
カイは頷いたものの、その目の奥にはどこか曇りがあった。
そして、少し間を置いて、意を決したように口を開いた。
「なあ、ナギ。……その、エリカって人、他に何か言ってたか?」
ナギは窓から振り返り、にこっと笑った。
「うん。“会えるの楽しみにしてる”って言ってたよ」
「……そうか」
その言葉を最後に、カイは黙り込んだ。
――楽しみにしてる……? それは歓迎か、それとも処罰の皮肉か。
胸の奥で、祈念核がわずかに疼くような感覚があった。
得体の知れない恐怖――ナギと引き離されるかもしれない。
ルカが奪われるかもしれない。
あるいは、自分が罰を受けるのかもしれない。
そんな思考が、渦を巻くようにカイの思考を押し潰そうとしていた。
――このまま逃げてしまおうか。
一瞬、そう考えた。
けれど――その時、車内アナウンスが静かに鳴った。
「……次は、祈りの塔前駅」
カイは顔を上げた。
扉が開くと同時に、ナギが小さなリュックを抱え、ぴょんと先に飛び降りる。
「カイー! はやく、はやく!」
ナギが笑顔で手を振っている。
その背には、ルカの頭部がひょこっと覗いていた。
カイはわずかに苦笑しながら、あとに続く。
ホームに降り立つと、通信端末が振動した。
画面には、受信していた裏経路へのルート情報が表示されていた。
――かなり入り組んでるな。ネオスの監視網を避けるためか。
画面を確認しながら、カイはナギの手を取り、塔の裏手へと静かに進んでいった。
薄暗い通路、無人の整備道。
道順どおりに歩き、いくつかの分岐点を越えた先――
その路地の奥、祈りの塔の裏側に、ひとつの人影が現れた。
カイは思わず、足を止める。
それは……人なのか、何かなのか。
静かに、彼らを待っているようだった。
「……こっちだよ」
物陰から、かすかな声とともに手招きする影があった。
カイはナギの手をそっと握り直し、慎重に足を進める。
暗がりの中、ゆっくりと姿を現したその人物に、カイは目を見開いた。
「……あなたは」
あの時の塔のふもとのクレープ屋の女性だった。
「えっと……」
戸惑うカイに、女性は何も言わず、手提げ袋を差し出した。
「これを、エリカ様のところへ。あの子が好きそうな味にしておいたよ」
「え……?」
カイが袋を受け取ると、ふわりと甘い香りが立ちのぼる。
「クレープの匂い!」
ナギがパッと笑顔になり、袋に顔を近づけて鼻をくんくんと動かす。
女性はナギの頭をやさしく撫でた。
「道なりに裏手を下っていくと、小さな昇降機があるよ。古いけれど、今でもちゃんと動く。それに乗れば――塔の最下層まで、まっすぐ降りられる」
「……ありがとうございます。でも、どうして……?」
思わず聞きかけたその瞬間、女性はくるりと背を向けた。
「最近はね、右足の機構が調子悪くて……膝のあたりがね。坂道がちょっときつくてさ。歳だよ、ほんとに」
そう言って、軽く手を振りながら物陰の奥へと消えていった。
カイは言葉を失ったまま、その背中を見送った。
――いったい、あの人は何者なんだ? クレープ屋なんて、仮の姿なのか?
だが、その疑問に答える声は、どこからも返ってこなかった。
ナギが袋を抱えたままカイを見上げる。
「行こう、カイ」
「ああ……」
二人は言われた通り、塔の裏道を進み始める。
薄暗い、誰もいない下り坂。
足音と、ルカが背のリュックで小さく鳴らす「カツ、カツ」という音だけが、静かに響いていた。
やがて、道の終点にぽつんと佇む、古びた鉄製の昇降機が現れた。
その扉は、時の流れに取り残されたように黙って三人を待っていた。
まるで、ずっと前から彼らを待っていたかのように。




