第62話《塔より招かれし声》
翌朝、カイは慌ただしく仕事をこなしていた。
通信端末が、いつもと同じように淡々と指令を告げる。
夕暮れ。街の高層ビル群が赤銅色に染まりはじめる頃、カイはようやく三件目の作業を終えていた。
巡回ユニットを見送りながら、作業バッグの重みを片肩に感じる。
「……ふう、今日はこれで終わりだと助かるが」
そのとき、耳元の端末が再び振動した。
『——西4区画7番地、水道管ヒビ。直ちに補修を』
「……西区画だって?」
つぶやいた声は誰にも届かない。
そこは自分の担当外で、水道設備も専門外だ。
しかも、あのあたりにはもう誰も住んでいないはずだった。
それでも、カイは確認ボタンをタップした。
拒否権など、ミデアに存在しない。
作業完了のサインこそが、唯一の返答だった。
「……やれやれ、今日は遅くなりそうだな」
ため息まじりに歩き出したカイの影が、夕暮れの街に長く伸びていく。
途中、新型巡回ユニットとすれ違う。
その無感情なレンズに見つめられた気がして、カイは少しだけ視線を逸らした。
「昨日の件……記録されてるのか?」
——あの古いユニットを連れ帰ったことが、都市に刻まれていたとしたら……。だが、あの子の命だけは記録されてほしくなかった。
一時間ほど歩き、廃墟が並ぶ西四区画の境界に差しかかったそのとき――
『——369N52』
耳元で、個人番号が呼ばれた。
思わず足が止まる。
「……え?」
『これは個人通信。誰にも共有されないわ』
いつもの無機質な音声ではない。
それは、感情の揺らぎを含んだ“誰か”の声だった。
「……誰、だ?」
『昨日の作業、完了シグナル出してないよね? 忘れたの?』
冷たい汗が背中をつたう。
――まさか……バレてる?
言い訳も出ない。沈黙が流れる。
『ふふ。じゃあ、違反処理。369N52、君は溶鉱炉行き』
「え、待って、それは――」
『冗談に決まってるでしょ?』
「……は?」
『ミデアって、からかい甲斐あるね』
皮肉交じりの笑いが通信の向こうに響いた。
『明日、祈りの塔の最下層まで来て。妹も一緒に』
「……妹?」
――ナギのことを言っているのか?
『塔の裏経路、道順は夜中に端末に送る。話したいだけ。心配しないで』
通信は、そこで唐突に切れた。
風が吹き抜け、廃墟の壁に砂が舞う。
カイはしばらく立ち尽くしていた。
「……今の声……まさか」
都市中枢に棲まう、伝説と化した存在――
だが今や誰もその姿を知らない。
「“妹も一緒に”って、どういう意味だよ……」
胸に、鈍い不安がこびりつく。
カイは踵を返し、夕闇の街へと歩き出した。
自宅に戻ると、ドアを開けながら呟いた。
「……ただいま」
「おかえりー!」
ナギの明るい声が玄関に響いた。
その瞬間、床を駆ける小さな足音が跳ねる。
「ママー……ママー!」
あの修復したばかりのユニット――B34-112が、元気に駆け抜けていく。
「……喋った?」
カイは目を見開いた。
発声装置は搭載していないはずだった。
「すごいでしょ! ルカって名前にしたんだ。さっきから少しだけ喋るの!」
「……ルカ、ね」
ナギが嬉しそうに抱き上げたユニットのレンズが、カイを見つめる。
「カイの顔……ブサイク」
「……」
部屋に妙な沈黙が流れる。
「ルカ! そんなこと言っちゃダメでしょ!」
ナギが慌てて頭をつつく。
カイは肩をすくめて苦笑いを浮かべた。
「……よろしくな、ルカ」
ルカは「ピッ」と音を立てて逃げるように走り去り、ナギが笑いながら追いかける。
その後ろ姿を、カイは静かに見つめていた。
「……この子はもう、ただのユニットじゃない」
ナギの祈りが、欠片に命を与えた。
それは、確かな“はじまり”だった。
ナギはルカに言葉を教え、ルカは不器用に応えようとする。
「“カイくん”って言ってみて、ルカ」
「カイくん、ブサイク」
「……そこだけ学習しないでよー!」
カイはソファに腰を下ろし、笑いながら天井を見上げた。
「……平和、だな」
だがその温もりの奥に、不安の影が揺れていた。
――明日、祈りの塔へ。妹も連れて。
ナギには話すべきではない――そう決めかけた矢先に、ナギが笑顔で振り返った。
「カイ、明日楽しみだね!」
「……え?」
「また塔に行けるんだよね?エリカって人が言ってたよ」
――直接、こんな距離でナギの祈念核にアクセスを?
もはや、隠すことはできなかった。
――全部、見られてる。
ナギに危害が及ぶことだけは避けなければならない。
カイは静かに、深く息を吐いた。
「……ああ、話してあったんだな」
「うん! 最初ねマリー様なの? って聞いたらエリカだよって」
「そうだったのか……じゃあ、一緒に行く……か……」
他に道はなかった。
どうか――この道の先が、“罰”ではなく、“導き”であることを願って。
カイはそっと立ち上がり、作業バッグの整理を始めた。
背後には、ナギとルカの笑い声が、絶え間なく響いていた。
カイは、その音の中に――守るべき命の重さを、確かに感じていた。
――真夜中。
都市外殻は、どこか不気味なほど静まり返っていた。
その沈黙のなか、カイはベッドの上で目を閉じることができずにいた。
ナギは隣の部屋で、毛布を軽く蹴飛ばしながら寝息を立てている。
そのすぐ傍らには、小さな身体を丸めたルカが寄り添うようにして眠っていた。
眠る直前、ナギはぎこちない読み方で、ルカに聖記書を読み聞かせていた。
ルカは静かに、まるで子どものようにそれを聞いていた。
――こんな光景を、誰が想像できただろう。
カイは、部屋の窓に近づいた。
その奥、遠くの都市中央――闇に浮かび上がるようにして、祈りの塔がそびえ立っている。
灯りはなく、ただ冷たい青のシルエットが静かに夜空に溶けていた。
そのとき――
端末が、かすかな振動を発した。
「……?」
仕事の通信ではない。
システムからの指令であれば、もっと強制的な呼び出しが入る。
それは、個人宛の受信だった。
カイはすぐに内容を確認した。
差出人:E.R.i.C.a.
胸の奥――祈念核がドクンと大きく脈を打つ。
メッセージは簡潔だった。
『始発の交通モノレールに乗って、朝五時までに来て。裏経路の入り口に係を立たせておく。その者から“ブツ”を受け取って、私に届けて。遅れないで。』
「……ブツ?」
その指令を見つめながら、カイは胸の奥の祈念核が静かに震えるのを感じていた。
内容は曖昧だったが、命令形の口調は変わらない。
何を運ばせるつもりなのか。
あるいは、その係が誰なのか――情報はなかった。




