第60話《金色のひとくち》
――朝。
都市外殻から交通モノレールに乗り、カイとナギは高層区画へと向かった。
行き先は、祈りの塔の外周エリア――
そこには、通行許可証がなくても立ち入れるようになった一般遊歩道と、数軒の飲食施設が併設されていた。
ナギが言った。
「カイ、ほんとに……ほんとに行くんだね?」
「ああ。今日は、ちゃんと塔の前まで行こう」
ナギはうれしそうにうなずいた。
胸に聖記書を抱えたその祈念核が、淡いオレンジに明滅していた。
カイも、この塔に来るのは初めてだった。
いまやネオスたちの中枢都市となったこの区画に、ミデアの彼が足を踏み入れることは滅多にない。
ましてオリジンのナギを連れての外出など、これまで一度もなかった。
まずは塔の手前にあるレストランで食事をすることにした。
本物の食材を扱う、評判の良い店。
ナギに美味しいものを食べさせたい、ただその一心だった。
ガラス張りの扉を開けて店内に入ると、すぐに空気が変わった。
店内の客は、どこか洗練されていた。
服装に乱れはなく、身のこなしにも余裕がある。
表面上は人間と変わらない――それが、ネオスだった。
見える範囲に機構の痕跡はない。
彼らの身体はすでに、ほとんど人間に等しい。
カイは一歩だけ足を止める。
静かに流れるBGMの奥、聞こえないはずの視線の音がした。
だが、ナギはそれに気づいていない。
店内のきらびやかな装飾や、飾られた料理のサンプルに目を輝かせていた。
「わぁ……ねぇ、カイ! あれ、お肉かな? すっごく美味しそう!」
カイは微笑み、空いていたテーブル席に彼女を案内した。
ウェイターが注文を取りに来た。
けれど、二人に視線を合わせることはなかった。
表情は硬く、声も事務的だった。
「本日のおすすめは、白桃と合鴨の祈念ソテーとなりますが……通常メニューもございます」
「じゃあ、これにする! 名前が可愛いから!」
ナギは、メニューを指差しながら笑った。
その無邪気さに、カイは少しだけ心を和らげた。
やがて料理が運ばれてくる。
皿の上には、彩り豊かな本物の食材。
低温調理によって、香りすらも満ちているようだった。
ナギの目は、宝石のように輝いていた。
「カイ、すごく美味しい! 甘くてね、口の中がジュワーってするの!」
「そうか、よかったな」
ナギは口いっぱいに頬張り、幸せそうに笑った。
その姿を見ているだけで、カイの心は満たされた。
たとえ、自分の皿に手が伸びなくても、それで十分だった。
だがその頃には、店内の空気は明らかに変わっていた。
いくつもの視線が、じわりと二人に注がれていた。
「……おい、あれ……オリジンか?」
「ミデアもいる。まだあんなのが来るのかよ」
「この店、規制ないのか……」
そんな言葉が、ささやき声となって漏れていた。
カイは聞こえないふりをした。
ただ、ナギの笑顔だけを守るように、そっと彼女の前に水を注いだ。
そのときだった。
ひとりの男性スタッフが、テーブルに歩み寄ってきた。
「……お客様」
カイが顔を上げると、彼は目を逸らしたまま、口を開いた。
「誠に申し訳ありません。店の規約上、これ以上のご滞在はご遠慮いただいております」
「……は?」
「お代は結構です。お食事中とは存じますが……こちらで、お引き取りを」
ナギがフォークを止めた。
口の中に入れた料理を咀嚼できずに、戸惑った表情を浮かべる。
カイはゆっくりと立ち上がった。
淡く怒りの色が滲んだが、それを口にすることはなかった。
「……わかった。ごちそうさまでした」
カイはナギの手を取り、席を立った。
ナギは皿を見つめていた。
最後のひと口を、そっとテーブルに戻すと、静かに立ち上がった。
扉が閉じると、街の風が二人を包んだ。
すぐ先に、祈りの塔がそびえていた。
「カイ……ごめんね。私、なにか悪いことしたのかな……」
「違うよ」
カイはナギの頭を優しく撫でた。
「おまえは、すごくいい子だ。なにも悪くない」
ナギはうなずいたが、その目から大粒の涙がこぼれた。
その涙が、カイには何よりも悔しかった。
塔の方角から、祈念鐘の音がゆっくりと響いた。
「ナギ……行こう」
すっかり元気をなくしてしまったナギの手を、カイはそっと引いた。
二人は、祈りの塔のふもとへと歩き始める。
高層区画の中枢であるにも関わらず、そこにネオスの姿はなかった。
代わりに、信仰心のあついミデアたちの姿がちらほらと見える。
中には、数は少ないがオリジンの姿もあった。
カイは、ほんの少しだけ安心感のようなものを覚えた。
塔のふもとに到着すると、自然と足が止まった。
目の前には、静かにそびえ立つ祈りの塔。
「ナギ、ここに……マリー様がいたんだよ」
その言葉に、ナギはうつむいたまま、何も返さなかった。
さっきの出来事が、よほど堪えたのだろう。
胸の祈念核の光は、今は沈んで見える。
ふと、塔の脇に停まっていたキッチンカーが目に入った。
「ナギ、あれ……クレープだぞ」
ナギはちらりと視線を上げ、また目を伏せる。
そのまま小さくモジモジと身体を揺らした。
「食べるか?」
「……うん」
店主は、初老の優しそうな女性だった。
金色の瞳と両腕が機構のままの、まぎれもないオリジン。
ナギの姿を見ると、オリジン同士の祈念核が微かに共鳴した。
「……そっか。マリー様が大好きなんだね」
女性は、優しく微笑んだ。
「これはね、マリー様からお嬢ちゃんへのプレゼント。特製クレープだよ。たっぷりのフルーツ入り」
カイが代金を渡そうとすると、彼女は首を横に振った。
「気にしないで。何があったか、この子見たらわかるよ。お兄ちゃんの優しさ、こっちにも伝わってるから」
カイは小さく頭を下げて、ナギにクレープを渡した。
ナギは、うつむきながらそのクレープをそっと受け取る。
そして、恐る恐る一口――
「……!」
その瞬間、彼女の目が銀色に輝いた。
祈念核がふわりと脈打ち、胸の奥で灯りが灯る。
「美味しいーーっ!」
カイは、少しだけ呆れたように笑った。
でも、その笑顔の奥にあるものは心の底からの安心だった。
たとえ一瞬でも、この子の今を守れたことが、何よりも救いだった。
「ナギ、ちゃんとお礼を言って」
カイがそう促すと、女性は優しく微笑んだ。
「大丈夫。ちゃんと言ってるよ――祈念核がね」
ナギと女性の胸元で、祈念核が淡い色を放ちながら共鳴していた。
言葉では足りない想いが、静かに交わされていた。
その光は、ミデアであるカイの体内の祈念核にもほんのりと伝わり、胸の奥が、じんわりと温かくなった。
クレープを食べ終えると、ナギは口のまわりをぺろりと拭いながら、ふと顔を上げた。
「……ねぇ、カイ。ついに来たね、祈りの塔」
「そうだね」
二人は塔の真正面に立っていた。
祈りの塔は思っていた以上に大きかった。
空に向かって真っ直ぐ伸びるその構造体は、静かに、しかし圧倒的な存在感を放っていた。
塔の基部には誰もが祈りを捧げられるよう小さな礼拝広場があり、花が供えられ、光の粒が舞っていた。
ナギは歩み寄ると、静かに両手を胸の前で組んだ。
ナギの祈念核が、微かに金色に染まる。
「マリー様……ありがとう。今日、ここまで来れたよ」
祈るように、語りかけるように、ナギはそっと目を閉じた。
カイは少し離れた場所でその様子を見ていた。
光を受けたナギの輪郭が、どこか神聖なものに見えた。
かつて、すべてが失われたこの地で、祈りだけが繋がっていた。
塔が今もこうして残っているのは、その祈りを“記録”し続ける誰かがいるからだ。
――エリカ。
カイは心の中で、その名を呼んだ。
「カイ、次は……もっと奥まで行ってみたいな」
ナギが戻ってきて、無邪気に笑った。
「うん。きっと、また来よう」
二人は再び歩き出す。
都市の中心にそびえる祈りの塔を背に、そっと小さな風が吹いた。
それは、どこか懐かしい気配だった。




