第59話《あたたかな信仰》
カイは外殻での作業を終え、煤けた階段を抜けて中層へ向かう。
ひび割れた壁に沿って取り付けられた昇降リフトは、ぎしぎしと軋んだ。窓の外を流れる街並みは黒と鈍色に沈み、時折、祈りの塔の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
中央層から響く祭りのざわめきが、ここまで微かな残響となって届いてくる。
鐘の音、合唱の断片。
けれど中層帯の通路は閑散として、工場帰りの祈念種たちが肩を丸めて歩いているだけだった。
カイはすれ違うたび、わずかに向けられる視線に気づく。
それは蔑みではなく、言葉を交わさずとも通じる、同じ痛みを知る者のまなざしだった。
外殻で働く者の多くは、差別と排斥の時代を生き延びた祈念種たちだ。
誰もが疲れている。心も、身体も。
無言の共鳴は、哀しみよりも静かに、胸に残った。
第六中層帯の外れに建つ旧集合ユニット棟の最上階。
吹き抜けのベランダからは都市の夜景が明滅し、遠くには祈りの塔の影が浮かんでいる。
ドアを開けると、すぐに声が返ってきた。
「おかえり、カイ!」
駆け寄ってきたのは年端もいかない少女――ナギだった。
濃いピンクの上着には油染みがいくつもつき、左脚の機構がカチリと床を鳴らす。
「遅かったじゃん。またユニット止まってたの?」
「うん。B34-112。今日は派手に転んでた」
「もー、あの子ほんとドジだよね。でも……なんか憎めない」
頬をふくらませながらも、ナギは笑った。
その胸元――薄布の下で、祈念核が淡い光を瞬かせている。
ナギは数の少なくなった《オリジン》だった。
街を歩けば稀にすれ違うこともあるが、核の揺らぎを持つ者は少ない。
感情が高まるたびに核は色を帯びる。桃色は喜びを、蒼は不安を。
だがその揺らぎは、ネオス社会において“不要な機能”とされてきた。
カイは荷を下ろしながら、いつものようにナギを見やった。
三年前、都市の影で衰弱していた小さな体。
食糧配給ラインにすら辿り着けず、崩れ落ちていたナギを、カイは抱き上げた。
消えかけた火を守るように。
あの瞬間から、ここはナギの居場所になった。
「この家、好きなんだ」
ナギがよく口にする言葉。
そしてその言葉は、いつもほんのりと胸を光らせる。
「今日も……光ってるな」
カイがぼそりとつぶやくと、ナギは胸を張った。
核はほんのりと桃色に染まっていた。
「えへへ。嬉しいことがあったから」
「嬉しいこと?」
「……秘密!」
彼の袖をつかみ、子どものように笑う。
カイには、その光こそが生命に見えた。
夕食はいつも通り、簡素だった。
乾燥野菜と合成肉を煮込んだスープ、薄いパン。
ナギは「おいしいね」と笑ったが、カイは思う。
――いつか、本物の味を食べさせてあげたい。
けれどこの都市では、味すら供給制御の対象だった。
「今日もね、祈りの塔が光ってた気がしたの。……胸がふわっとしたの」
「……本当に?それが嬉しいこと?」
「うんっ。気のせいかな。でもね、“会いたいね”って。きっと……マリー様かも」
「えー、本当に?」
二人は目を合わせ、小さく笑い合った。
ベランダの外を見ても、遠くの塔は夜に沈んでいた。
けれどナギの声には、祈りの残響が宿っていた。
食器を片付けながら、ナギが尋ねる。
「ねぇカイ、明日も外行くの?」
「修復指令が来ればね」
「じゃあ……ついて行ってもいい?」
「……ユニットと喧嘩しないって、約束できるなら」
「しないよ!あれは事故!転んだだけ!」
駆動音を鳴らす右腕を振りながら、ナギは胸を張る。
機構の多いナギと、生体組織の多いカイ。
進化の段階は違えど、一緒にいる時間がその違いを無意味にしていた。
「……じゃあ、もし仕事がなければ、ちょっと遠くまで行ってみようか」
「ほんと?」
「うん。塔の近くまで」
ナギの祈念核が、ぱっと明るく震えた。
やがてナギは毛布にくるまり、目を輝かせて言う。
「ねぇカイ、今日も読んで」
カイは棚から古い聖記書を取り出した。
マリー。ユナ。セレア。ピリカ。
三人の女神と一柱の闘神の物語。
都市の基層に刻まれた祈りの記録だ。
ページをめくると、古い繊維の匂いが微かに漂う。
カイは声に出して読み上げた。
「マリー様は、最後の人間――ユナ様のためにその身を捧げました。
ユナ様を想い続けた祈りは、やがてセレアへと受け継がれ、魂なきユニットに命を宿したのです。
そしてピリカは、マリー様の祈りに応じるように立ち上がり、祈りの塔を護る最初の闘神となりました――」
ナギは身を寄せ、うっとりと目を細めた。
核がふわりと光を増していた。
「マリー様、大好き。優しいし、泣いてる人をほっとかないもん」
「そうか。……おれは、やっぱりピリカ様かな」
「やっぱりー!男ってみんなピリカ様が好きなんだから!」
二人は笑い合った。
その笑い声に、カイは安らぎを感じていた。
ページの先には、ユナとピリカが都市を再建し、未来に祈りを紡いだ記録が続いていた。
“祈りは波となり、やがて多くの魂を結びつける”。
ナギが夢見るように呟く。
「塔の近くまで行ったら、マリー様に祈ろうね」
「もちろん」
「……わたし、ちょっと大きくなったでしょ?だから、近くまでじゃなくて、ちゃんと塔の前まで行ってみたいの」
その言葉に、カイは返す言葉を見つけられなかった。
ナギの成長は確かだった。歩き方も、話す言葉も、そして祈りの核の光り方も、あの頃とは違っていた。
けれど――。
祈りの塔周辺では、今でも偏見のまなざしが残っている。
とくに《オリジン》に対しては根深いものがあった。
都市の再編以降、ネオス主導の人権団体によって、差別的な通行制限は徐々に緩和されつつある。
近年は散策路が整備され、一部エリアが開放されたとも聞く。
それでも完全に安全とは言いきれなかった。
「……考えておくよ」と一度は答えようとして、やめた。
三年前、崩れかけた身体を抱き上げたときの重さ。
あのときの鼓動が、いまもカイの手に残っている。
「……明日、行ってみようか」
「やった……!」
「……なにか、美味しいものも食べようか」
誰にともなくつぶやいたその言葉は、祈りに似た願いだった。
灯を落とす。
ベランダの外から、遠い鐘の音がかすかに響いてくる。
ナギの胸が、あたたかな色で明滅していた。
都市の夜は静かだった。
カイは、眠るナギの髪をそっと撫でながら、朝方まで目を閉じられずにいた。
今日は珍しく、都市ネットからの指令がなかった。
「……行けるな」
小さくつぶやいた声に応えるように、胸の奥で祈念核が、ほんのりと灯った。
荒んだ都市の中でも――確かに、“あたたかな信仰”はまだ、ここに息づいていた。




