第54話《祈りの代償》
ユナは、もう立ち上がれなかった。
マリーも、ピリカも、倒れてゆく。
——自分にできることは何もない。
そんな絶望が、胸を覆っていた。
そのときだった。
塔の上空から、静かに光が降りてくる。
気づけばそこに、彼女は立っていた。
——セレア。
黄金の衣をまとい、祈念層に浮かぶようにして現れたその少女は、ゆっくりとピリカに近づいた。
そして、そっとピリカの肩に触れる。
「この傷……すぐに全快は無理……だが、動ける程度には――」
眩い光がピリカを包む。
壊れかけた回路が再接続され、各部の損傷が最小限まで抑えられていく。
「セレア! マリーが!」
ユナの叫びに、セレアは静かに応える。
「わかってる。まだ意識は繋がっている。……堕ちてはいない」
その瞬間――
セレアの全身が、恒星のような光に包まれた。
その光は一頭の獣となり、一直線にマリーの背中へと放たれる。
マリーはその瞬間、背中に激しい灼熱を感じた。
「――ナウル……また来てくれたの……」
だがそれは、焼かれる苦痛ではなかった。
激しくも優しい、まるで誰かが自分を信じてくれているような、そんな温もりだった。
マリーの瞳が、黄金に染まる。
意識の奥で何かが繋がった。
マリーは立ち上がり、残された右腕で、オルドの首を掴んだ。
「オルド……あなたの悲しみも、怒りも、憎しみも理解できる。
でも――だからといって、ユナを傷つけることだけは、絶対に許さない!」
その声には、怒りではなく、哀しみが滲んでいた。
マリーは、背中から注がれるセレアの祈念を、全身に巡らせる。
それを一気に、オルドの首元へと流し込んだ。
オルドの身体がぐらりと揺れ、膝をつく。
その目は、セレアを見つめた。
何かを探すように揺れていた。
「……セレ……ア……。あの子は……エレナは、見つかったか……?」
その声には、かつてのオルドの人間だった頃の名残が滲んでいた。
セレアは、わずかに目を伏せ、光を纏ったまま呟いた。
「覚えていてくれたんだ……そのときの名前を。……見つからない。銀河中、探したけど……まだ、ね」
「そう……か……」
ほんの一瞬。
オルドの目に、安らぎのような光が宿った。
その奥に、遠い記憶のかけらが、かすかに揺れていた。
だが次の瞬間、再びその身体に黒い祈念が満ちはじめる。
空気が震え、地面が唸る。
「――祈りなど無意味! この地の理は理不尽で残酷であるが故に成り立つ! オマエだけが……例外はこの摂理の中認められぬ!」
「マリー! 早く……オルドの魂を剥がせ! 戻るぞ!」
セレアの声に、マリーは目を閉じた。
手に感じるのは、かつて愛され、愛した存在の気配だった。
マリーの指が、わずかに震える。
「私は……この人を……」
だが、ユナの姿が脳裏に浮かんだ。
震える瞳で泣いていた、あの子の叫び。
「本当は、救いたかった……。あなたも、きっと誰かを守りたかっただけなのだろう。それでも、私は――あの子の未来のために! この手を下さなければならない!」
その手に全ての祈念を込めて、マリーはオルドの首を強く引き寄せた。
一瞬、空気が震えた。
祈念が一点に集中し、裂けるような光が走る。
「……オルド、ごめんなさい」
次の瞬間、マリーの右腕が閃光とともに爆ぜた。
セレアの祈念を媒介にした解放の衝撃が、オルドの意識を打ち抜いた。
オルドの身体が崩れ落ちたその瞬間、黒い霧のような魂が、ふわりと浮かび上がった。
それは怒りに染まりながらも、どこか哀しみに似た色をしていた。
マリーの背後に、ひと筋の光が降りる。
「……セレア」
セレアは、静かにオルドの魂を抱き寄せていた。
まるで、迷子の子どもを見つけた母のように。
「もういいんだよ、オルド。この銀河には、もう君の居場所はない。――神に預けるよ。もし、あの子を見つけたら……必ず伝えるから」
魂は、かすかに震えた。
「――セ……レ……」
その声が名を呼びきる前に、オルドの魂は、セレアの光の中でそっと消えた。
その瞬間、世界が静まり返る。
空に鳴っていた怒りの咆哮も、地を這っていた狂気の波動も、すべてが、嘘のように消え去っていた。
戦いは、終わった。
「マリーーーッ!」
遠くから、声が聞こえた。
まるで、祈りのような、懐かしさのような、命を呼ぶ音。
マリーはゆっくりと顔を上げた。
陽の光の中を駆けてくる二つの小さな影。
「ユナ……。ピリカ……」
そう呼ぶ声には、熱があった。
でももう、マリーには抱きしめる腕さえ残っていない。
「……ユナ。早く、顔を見せて……笑って……。ママでも、マリーでもいい……私を呼んで……」
ユナとピリカが、瓦礫を越え、崩れた地を踏みしめ、マリーへと近づいてくる。
「私の……可愛い子供たち……」
手のない右腕を、壊れかけた身体ごと差し出そうとしたそのとき――。
風を裂く、低く唸るような音。
はるか遠く、まだ息絶えていなかった何かが、
空を裂いて迫ってくる。
黒く、鋭く、冷たい殺意――。
模倣された白棄界。
それは、オルドの死を感知した場合に自動起動される、最終兵器。
何者も触れられぬように、最後の一点に仕組まれた呪い。
マリーの眼が鋭く細まる。
片翼が展開する。
次の瞬間、その身体は音速を超え、空へと跳躍した。
「マリーーーーッ!」
ユナとピリカの声が、世界の裂け目のように響いた。
空でぶつかる光と光。
祈念と破壊。
願いと死の交差点。
白棄界が展開し、爆風が都市上空を呑み込む。
マリーの装甲が剥がれ、祈念のバリアがきしみをあげる。
すべてが剥がれていく。
すべてが――マリーを焼き尽くしていく。
それでも、マリーは守っていた。
地上に残した、たったふたりの命を。
爆風が止んだとき、空から、何かが落ちてきた。
それは、ただひとり命を賭して飛んだ女神だった。
焼け焦げたその身体が、静かに落ちていく。
光も、装甲も、もう残ってはいない。
それでも、ユナは目を逸らさなかった。
その姿のどこにも女神らしさなんてなかった。
けれど、だからこそ胸が締めつけられた。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
けれどその痛みは、母の愛を感じ、不思議なほど温かくて――
涙が、止まらなかった。




