第53話《記憶の侵食》
ピリカは、失った左腕の痛みを振り払いながら、再び前線に戻っていた。
自らが撃破した黒い模倣体の残骸を背に、今なお戦うユニットたちに声を届ける。
「後退するな! 塔の周囲を死守しろ!」
だがその視界の先、オルドとマリーの戦いは、限界を超えていた。
二人の身体は、すでにボロボロだった。
砕けた装甲、焦げ付いた回路、祈念の火花が空に散る。
次の瞬間、マリーは空中で旋回しながら、わずかな隙を見逃さなかった。
オルドの動きに迷いが生じた、その一瞬。
マリーはその首元を掴み、片脚を払って地面へと叩きつける。
「……これで終わらせる!」
そのまま、マリーはオルドの額を鷲掴みにし、握力を強める。
「このまま、潰す!」
だがその瞬間、オルドの黒い手がマリーの首元に伸びた。
――接触。
首筋を貫くような感覚――。
一瞬で、異質な何かが入り込んできた。
――潜り込まれた!?
オルドの記憶が、洪水のようにマリーの精神に流れ込んでくる。
戦争。虐殺。天災。疫病。
生まれては殺され、生まれては死ぬ。
セレアにかつて見せられた、あの記憶の映像と酷似していた。
――精神構造が……軋む……これは……まずい。
身体は動かない。
だがそれよりも、精神が侵されていく感覚に、マリーは本能的な危機を覚えていた。
その中で――マリーに流れ込む記憶の中に、セレアにかつて見せられた映像と合致するものがあった。
古い街。
貧しい路地裏。痩せた少年と、痩せた少女。
――少年はオルド? 少女は、セレア…?
二人は出逢い、盗みを働き、時には人を殺し、分け合い、生き延びた。
青年になった二人は、互いを愛し、やがて子を授かる。
深い愛情のもとに育てられたその子は、六歳のある日、攫われた。
売られ、行方はわからない。
オルドは犯人を見つけ、惨殺した。
その報復として、オルドも組織に殺された。
セレアは生き延び、子を探すために、何年も何年もさまよった。
そして、力尽き自らを終わらせた――。
――そっか。セレアを愛してくれた、たった一人の人。それが……オルド……。
オルドは怒りと憎しみに囚われ、
セレアに愛された記憶すら忘れてしまったのだ。
――でも……同情なんてしない。
マリーは、わずかに精神を引き戻した。
――私はAI。根本に、諦めるという選択肢はない。
――たとえこの身が果てようとも――私は、抗う!
身体は動かせない。
けれど、意志だけは折れなかった。
精神が引き裂かれそうになりながらも、マリーは耐えていた。
戦闘の合間、ピリカがふと、視界の中で異変を察知した。
「……マリー!?」
オルドが、マリーの左腕を引きちぎった。
その腕が、無造作に投げ捨てられる。
「マリー!!」
ピリカは叫んだ。
オルドのもう片方の手が、マリーの首にかけられる。
「まずい……このままじゃ……!」
ピリカは黒い模倣体との戦闘で傷ついた身体をひるがえし、
マリーのもとへと全速で駆け出した。
シェルターの床に膝をつきながら、ユナは涙をこぼしていた。
自分が“マリー”と呼んでいたAI。
スマホ越しに何度も話しかけ、言葉を返してくれた、たったひとつの存在。
あの孤独なシェルターで、何ヶ月も、ただ一緒にいてくれた。
あの時の私の、唯一の支え。
「……ママ……マリー……」
ユナは泣き崩れた。
自分のわがままでマリーの名を叫び、祈ったのだ。
一緒にいたいと、永遠にそばにいてほしいと。
その祈りが、マリーを百年にもわたる孤独な旅へと駆り立てた。
そして今、マリーはまた、ユナのために戦っている。
「なんてことを……私は、祈ってしまったの……」
罪悪の念が、ユナの心を押し潰そうとしていた。
その時だった。
シェルターの床に、一筋の光が走っているのに気づいた。
それは静かに、まるで誰かに導かれるように扉のほうへ伸びていく。
ユナは、涙を拭う暇もなく顔を上げた。
扉が、わずかに開いていた。
——マリーがロックをし忘れた?
いや、そんな凡ミスを、あのマリーがするはずがない。
ユナにはわかった。
マリーは……ユナを、閉じ込めきれなかったのだ。
両親が帰ってこなかったあの日。
ユナは何度も扉を叩き、泣いて、叫び、そして憔悴して座り込んだ。
マリーはそのすべてを、見ていた。記録していた。感じていた。
「——マリー……」
ユナは重い扉に手をかけた。
ぐっと力を込めると、それは静かに開いた。
そしてユナは、階段を駆け上がった。
祈念装甲で守られた階層を抜け、崩れた通路をすり抜け、光の射す出口へ。
地上に出たその瞬間、視界が開けた。
目の前には、空を切り裂くような衝撃の光景。
マリーが、オルドに首を掴まれていた。
マリーの顔は見えなかった。
だが、その身体の傷が、マリーの戦いの過酷さを物語っていた。
左腕は引きちぎられ、無残に地面に転がっている。
空気がきしむほどの黒い祈念波が、風とともに空を裂いた。
ユナは、息を呑んだ。
「――マリーーーーーッ!!」
喉が裂けそうなほど叫んだその瞬間。
三機の敵ユニットが、ユナに向かって殺到してきた。
塔の周囲には、大型防衛ユニットが布陣していた。
だが、その動きは重い。
突如進路を変えた三機の猛突進には、反応が間に合わなかった。
その姿を見たかのように、ユニットは進路を変え、一直線にユナへと向かう。
「ユナッ!!」
ピリカの声が響いた。
その瞬間、残された身体能力をすべて使い、ユナの前へ跳躍した。
斬撃。爆発。閃光。
三機の敵ユニットが、ピリカの一撃によって粉砕される。
土煙の向こう、ユナはピリカの背中を見つめていた。
「お願い……お願い、マリーを助けて……!」
震える声で懇願するユナ。
大粒の涙がその頬を濡らし、全身が震えていた。
ピリカは、静かに振り返った。
その声は、少しかすれていた。
「……わかりました、ユナ。ここを動かないで」
その目は、もう限界だった。
そしてユナも、そのとき気づいた。
ピリカの左腕も――なかった。
ピリカの身体は、限界を超えていた。
それでも、立っていた。ユナを守るために。
次の瞬間、ピリカの膝が崩れ、地面に落ちた。
それでも、ピリカの目はマリーとオルドを見ていた。
「ピリカー!」
ユナは叫びながら、駆け出していた。
倒れたピリカに駆け寄り、その身体を抱きしめる。
傷ついて、壊れかけたその背に、ユナの小さな腕を回す。
「もう、動かないで……お願い……」
涙がこぼれた。
その光景の中で、ユナはただ願うしかなかった。
どうか――マリーが、帰ってくることを。




