第50話《すぐに帰ってくるから》
静かな風が、塔の地下をかすめていた。
マリーはユナの手を引いて、無言のまま通路を歩いていた。
その先には、再現された古いシェルターがある。
かつて、ユナが命を落とした場所。
だが今のユナは、その記憶を持っていない。
それでもユナは、少しだけ眉をひそめた。
「……ねえ、ここ、なんかヘンな感じする。知らないはずなのに、こわいような、なつかしいような」
マリーはその言葉に、一瞬だけ足を止めた。
けれどすぐに前を向いて、静かに答えた。
「……そっか。ちょっと変な感じがするんだね」
マリーは微笑んだ。
まるで、その言葉に触れないように。
だが、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
この場所を覚えていないはずのユナが、なぜか怯えるように手を握りしめているのがわかった。
「でも大丈夫。ここは、安全な場所だから」
扉の前に立ち止まり、マリーは振り返ってユナに微笑みかけた。
「ここに、少しだけ入っててほしいの」
「……なんで?ママは?」
「私は、外に出る。……ほんのちょっとだけ、やらなきゃいけないことがあるの」
ユナは首を振った。
「やだ。ここ、なんかイヤ。ずっとママと一緒がいい」
「ユナ……わかるよ。その気持ち、すごくよくわかる」
マリーはしゃがみ込み、ユナと目を合わせた。
その目に、どんな戦場よりも強い決意が宿っていた。
「でもね。これは、あなたを守るため。ママはあなたを危険な目にあわせたくない。どうしても、ここで守りたいの」
ユナの唇が震える。
「……わたしだけ置いていくの?」
「違うの。ちゃんと理由がある。あなたの祈りが、ここからでも届くって、私は信じてる。――だから、どうか……お願い。ここで待ってて」
ユナは黙ってマリーを見つめた。
その手を振り払おうとすらした。
だけど、マリーはぎゅっとその小さな身体を抱きしめた。
「……ユナ、ママのこと、好き?」
マリーの声は震えていた。
「大好き! ママのこと、大好きだよ……!」
ユナはその言葉と同時に、小さな身体を思いっきりマリーに寄せてきた。
その頬には、止まらない涙が流れていた。
マリーも、全身で受け止めるように、強く、強く抱きしめ返す。
「ママも大好き。……愛してるよ、ユナ。――すぐに帰ってくるから」
「……うそつきじゃない?」
ユナの声が震えていた。
それでも、マリーはしっかり頷いた。
「うそじゃない。約束する。絶対に、戻ってくるから」
そして、抱きしめたまま、シェルターの扉に手をかけた。
ユナは「いやっ」と小さく叫んだが、もう時間がなかった。
「ユナ……ごめん。これは、ママの“わがまま”」
そう言って、マリーは優しくユナをそっと中に押し込む。
「……ここで祈っていて。あなたの祈りが、私の光になるから」
扉がゆっくりと閉まっていく。
最後の瞬間、ユナが涙を浮かべながら叫んだ。
「絶対だよ! 絶対、帰ってきてよ!」
「――うん。絶対、帰るよ」
その言葉とともに、扉が閉ざされる。
扉が閉ざされたあと、マリーはその場にしばらく立ち尽くした。
無音の通路に、時間だけが静かに流れる。
やがて、震える唇を噛み締めながら、溢れる涙を止められなかった。
百余年前、ユナと過ごした九ヶ月間のシェルターでの暮らしが、走馬灯のように頭を巡っていく。
あの笑顔も、寝顔も、拙い言葉も。
どれも守るために今、自分はここにいる。
「今度こそ――守ってみせる」
マリーは、誰にも聞こえぬようにそう呟いた。
そして、ゆっくりと地上への階段を踏み出した。
塔の最上層に、風が吹いていた。
開かれた天井の向こう、まだ夜明けきらぬ空が、わずかに白み始めている。
都市の光は静かに瞬き、再構築途中の建造物が影の中に沈んでいた。
マリーは、その風景をしばらく見つめていた。
かつて、ユナと歩いたこの都市。
祈りと希望と、失ったものたちと。
すべてが、ここにある。
右手が、わずかに震えていた。
胸の奥では、制御しきれない熱が、静かに膨らんでいる。
マリーはゆっくりと目を閉じ、思考を祈念層へと沈ませた。
「……セレア」
そっと呼びかけたその瞬間、やわらかな光が意識の中を通り過ぎた。
それは、いくつもの魂を銀河へ導いてきた、神のように静かで、あたたかな声だった。
『わかったよ、マリー』
セレアの声が、はっきりと届く。
『何も言わなくていい。全部、読み取った。お前の祈り、その奥にある覚悟、痛みも全部……受け止めてやる。時間がない。オルドが、もうすぐそこまで来てる』
マリーの中に、淡い金の光が流れ込んだ。
それは祈念の余波か、セレアが最後に残した祈りの断片か。
温かさにも似た感覚が、マリーの胸を貫いた。
目を開けると、夜明けの兆しがわずかに空を染め始めていた。
まるで、いま飛び立とうとする者を照らすための光だった。
マリーは通信を切り替える。
「ピリカ……今まで、本当にありがとう。もし、私に何か――」
『何を言っているのですか?』
ピリカの声が、強く重なるように割り込んだ。
『帰ってきてください、マリー。また都市を作り直しましょう。ユナのために。……また三人で』
その一言に、マリーの胸がじんと熱くなった。
“また三人で”――そう言ってくれることが、どれほど嬉しいか。
あの笑顔、寝顔、拙い言葉。
今、この手で断ち切らなければ、すべてがもう一度失われる。
「……ええ。そうね、帰らなきゃ。ピリカ、お願い。敵ユニットの足を止めて。私は……オルドを撃つ!」
塔の最上層の扉が、ゆっくりと開いていく。
地上への道が、光に照らされて現れる。
白と金の身体が静かに輝き、美しい片翼が展開される。
その瞳に宿るのは、憐れみでも怒りでもない。
――ただ、託されたものを守り抜く祈り。
地平の彼方に、黒い気配。
あの憎しみによって作られた器。
オルドが、そこにいる。
風が、祈念装甲の隙間をすり抜ける。
浮上の直前、マリーはもう一度、目を閉じて呟いた。
「ユナ……見ていて。私は今から、あなたの祈りを背に、あの闇を断ちに行く」
そしてそのまま、光の中へ飛び立った。
その背にあるものは、すべての祈り。
託された言葉と、まだ交わしていない未来。
マリーの戦いが、いま始まる。




