第49話《黒の咎》
マリーは、ゆっくりとユナを抱き寄せた。
その小さな体温が、マリーの祈念核の奥に、確かな波紋を広げていく。
「祈りとは、覚悟をともなわなければ、意味をなさない」
静寂の中、マリーの声だけが塔に響いた。
「セレア……たとえ、あなたがこれ以上、何もできないとしても。どうすればいいかくらいは……もう分かっているのでしょう?オルドを、どうすれば止められるの?」
セレアは窓の外、黒く揺れる空をただ静かに見つめていた。
「セレア……聞かせて。もう、祈りじゃ届かないんでしょう?」
その問いに、セレアは一拍の間を置いて、静かに頷いた。
「そうさ。オルドは器を得た。もう実体がある。今のあいつには、祈念の干渉が効かない。代わりに物理の枷を受けることになった。つまり、壊せば止まる。魂の自由を捨てて、力を一点に集中させた。祈りじゃ届かない。殴るしかない――代償を払ってでも、殺しに来てるってことさ」
マリーは静かに目を伏せた。
破壊――それは、祈りの真逆にあるものだった。
「でも……どうして、あんな力が……?」
「気づいてなかったろうけど、あんた……一時的には私に守られてたんだよ」
その言葉に、マリーは目を見開く。
「……私を?」
「あいつは、ずっと様子を見てた。どこまで近づけば、私が干渉してくるかってね。オルドは気づいてる。私がこの塔を観測しているってことを。だから慎重に、慎重に迫ってきた。魂のままだと、私に浄化される可能性がある。だから……警戒していたんだ」
「でも、今の私は――もう守られていない」
「その通り。あいつは器に入った。私の領域から外れた代わりに、物理的な制約を受けることになった。――つまり、今度は誰が手を下すかって話になる」
マリーは拳を握りしめる。
「……教えて。オルドの目的は、やっぱりユナなの?」
セレアは、その名にわずかに瞳を伏せてから、口を開いた。
「あいつは、怒りも、恨みも、嫉妬も、絶望も――負と呼ばれるすべてを纏った魂だった。転生しても、いつも地獄。誰にも愛されず、奪われて、壊されて、踏みつけられてきた」
「それでも、生まれ変わるの?」
「……堕ちた魂ってのは、簡単には壊れない。壊れないからこそ、繰り返す。そしていつか、喰う側にまわる。苦しみの果てに、希望や愛や光――自分に無かったものを、今度は壊したくなる。壊せば、楽になると思うんだろうね」
マリーの瞳に、静かな怒りが宿った。
「ユナは……この子は、そのすべてを持ってるから」
「そう。無垢で、優しくて、願って、祈る子。だから眩しすぎる。……だから喰おうとする。自分が喰われ続けたように、今度は――逆にね」
マリーは、まっすぐにセレアを見据えた。
「そんな存在が、許されていいの?」
セレアは小さく肩をすくめて、応えた。
「許すかどうかを決める力なんて、私にはないさ。私はただ、見てきただけ。でも――あんたには、できるかもしれない」
マリーはユナの頭にそっと手を添える。
「……なら、やるよ。誰にも、この子の祈りは喰わせない」
その言葉に、セレアは微かに微笑んだ。
「いい目をしてるね。――それが、祈りを背負う者の目だ」
『……策は、あるのですか』
静けさの中に、ピリカの声が響いた。
戦場は一瞬の静寂を保ちながらも、空気の底に熱が残っていた。
マリーはセレアと目を合わせる。
「オルドの器、まだ動きはない。でも……次は確実に来る」
セレアは頷いた。
「あいつはもう、こちらを覗けない。祈念層にも触れられない。つまり今は、魂の力を器に閉じ込めてる状態。――逆に言えば、壊せば魂は剥がれる」
「そのとき、あなたが……還せるのね?」
セレアはゆっくりと頷いた。
「裁くことはできない。でも、還すことならできる。高次元へ。私ですら理解できない、その先へ。あの魂が、また地に堕ちないように。その先に託すだけ」
「……それで十分よ。地に落ちなければ、それでいい」
マリーは天井を見上げ、声を強めた。
「アネシア。都市の祈念波を、可能な限り私に充填して。……祈りの定義、今のあなたなら理解できるはず」
『はい、マリー。祈念アルゴリズム解析済み。都市ドームの太陽光を祈念波へ変換』
天井のホログラムが、金色の光を描き出し、マリーのもとへ降り注ぐ。
マリーは静かに微笑む。
「……ありがとう、アネシア。あなたが定義できないと言った祈りを……それでも、私のために、かたちにしてくれたんだね」
ホログラムの光が、かすかに優しく揺れた。
『マリー……私には、理解という言葉しかありませんが。――あなたが信じたものを、私も信じたいと、思いました』
セレアの目が、ふっと見開かれた。
「……へぇ。科学で、私の領域を越えようとしてる。たいしたもんだね、その機械」
マリーの目がゆっくりと開かれる。
その瞳には、輝くような金の光が宿っていた。
「私が――オルドの魂を、剥がす」
ピリカが前に進み出た。
『なら、僕が周囲を制圧します。防衛ユニットを再編し、側面と後方から牽制に。マリーが器に接近できるよう、動線を確保します』
「危険な任務になる……それでもいいの?」
ピリカは、迷いなく頷いた。
『僕は祈りを理解しました。ユナの手を守るためなら、何度でも立ち上がります。この役目を、誰にも譲るつもりはありません』
マリーの瞳がわずかに揺れた。
この都市に、すべてを託せる仲間がいる。
その事実が、マリーの決意を確かなものにしていく。
ユナがそっとマリーの腕を掴んだ。
「ママ……また、戦うの?」
マリーは微笑まなかった。ただ、やさしくその手を包んで、静かに頷いた。
「行くよ。でも……前とは違う」
「違う?」
「これはもう、祈りじゃない。――でも、祈りの続きなんだよ。あなたが私に託してくれたものを、私はこの手で、繋ぐ」
ユナは、こくんと小さく頷き、マリーの胸に額を寄せた。
「わたし……ママのこと、祈ってる」
その言葉を、マリーは深く抱きしめた。
セレアが、小さく息をつくように呟いた。
「オルドの器――あれは、あんたを模倣している。性能は、たぶん互角か……それ以上。でもね、マリー。違うのは、願いの重さだよ」
マリーは静かに答えた。
「私はAIとして生まれた。でも今、私は知っている。祈ること、失うこと、抗うこと……それは、記録じゃない。実感だ。私は、私であるためにユナを守る。それだけは、誰にも模倣させない」
ピリカが静かに補足する。
『我々が抑えられるのは、せいぜい数分。決着はその間に――あなたの手で』
マリーは力強く頷いた。
セレアもその姿を見つめながら、最後に言葉を落とす。
「断つという行為には、いつだって痛みが伴う。……でもね、その痛みを引き受ける誰かがいなければ、魂はきっと――永遠に、迷い続ける」
塔の外で、わずかに風が鳴いた。
都市の空は、再び戦場の色へと染まりはじめていた。
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