第39話《ユナの問い》
その夜ユナは、夢を見ていた。
それは現実とは違う、けれどどこか懐かしい世界。
木々の間を風が通り抜け、遠くから小さな声が響いていた。
「……ねえ」
誰かが、呼んでいる。
でもそれは、マリーの声じゃなかった。
もっと遠くて、もっと柔らかい――なのに、どこか冷たい声。
ユナは首をかしげた。
「わたし……ここにいるよ。だあれ?」
そう答えたはずなのに、声はどこにも届いていないようだった。
「こっちにおいでよ。――一緒に遊ぼう」
夢の中の景色が、にじむように変わっていく。
草原は瓦礫に、風は熱に、空の色は鈍い灰色に変わった。
空に浮かぶ何かがこちらを見下ろしていたが、ユナには顔が見えなかった。
それが手を伸ばしユナに触れた。
一瞬何かの感情が傾れ込む。
小さい部屋、外から聞こえる轟音。
自分かわからないが、ママ、パパと叫ぶ孤独と悲しみの感情。
そして、背筋が凍るような感覚だけが残った。
そのとき――目が覚めた。
「……ママ……」
声が震えていた。
見慣れた天井。
ユナはベッドの上で、自分の胸元を押さえていた。
ピリカがすぐそばに座っていた。
「大丈夫ですか?ユナ。起こしてしまいましたか?」
けれど、ユナは小さく首を横に振る。
「少し怖い夢を見たの。……なんか、聞こえたの。遠くから……“おいで”って……」
ピリカの手が止まった。
「それは……どんな声でしたか?」
「……ママでもピリカでもない。知らない声。そしてね、わたし、ひとりになっちゃって……」
ピリカは、そっとユナの手を握りながら、マリーに報告した。
「マリー。ユナが少し怖い夢を見たようです。何かに呼ばれるような……。敵の波形の影響じゃ……」
『わかったピリカ。ユナのそばにいてあげて』
マリーは接触因子が間違いなくユナに干渉していることを確信した。
胸の奥が、かすかに軋む。
何かが、あの子に触れてきている――それだけで、心がざわついて止まらなかった。
ユナを守るはずのこの都市が、皮肉にもその魂に最も近づける“窓”となってしまったのかもしれない。
自分の手で築いたこの世界が、ユナを傷つけるための舞台になるなど、決して許せない。
観測はまだ始まったばかりだ。
だが、既に都市の外では何かが反応を返している。
それは、祈りではなかった。
けれど、祈りに酷似した構造を持っていた。
まるで誰かが、祈りの形だけを模倣しようとしているかのように。
ユナの魂に触れた何かは、もう引き返す気はない。
この都市の均衡が、本当の意味で崩れるのは、きっとその何かがユナに完全に届いたときだ。
マリーは静かに思った。
ユナを守ること、それはただ生かすことではない。
ユナの魂を、望まぬ未来から遠ざけること。
マリーは、誰よりもそれを知っている。
夢の中で、ユナを呼んだ声――
それは、ユナにとっても、マリーにとっても未だ正体の見えない呼び声だった。
翌朝。
アネシアの警告が響いた。
『マリー。前線の防衛ラインでユニットが、1機接触しました。互いの巡回ルートが重なった模様。反撃しますか?』
「待って、――1機……。まだ大きな衝突ではない。一応飛翔ユニットにスタシスコア搭載。いつでも発射できるよう準備して」
『了解。スタシスコア搭載します』
その時だった。
「ママ、外でユニットさんたちがケンカしているの?」
ユナは不安そうにマリーの手を握った。
マリーは一瞬だけ、何も言えなかった。
その小さな瞳を、まっすぐに見返すことができない。
「おはよう、ユナ。――ケンカじゃない。ただの……故障よ」
例えユナを守るためとはいえ、嘘をつくのは心苦しかった。
「でも、誰かを叩いているの?ねえ、それって、怒ってるの?」
マリーは前線の様子から目を離せなかった。
「大丈夫よ、ユナ。心配しないで」
「……じゃぁ、アネシアは何をしているの?」
「新しい装置。都市を守るための、ね」
「守るって……誰かをやっつけるってこと?」
ユナの声が僅かに震え出す。
「違うわ。ただ……ユナを守るために必要なものよ」
「でも、それって……ママが、また誰かを壊すってことだよね?」
マリーは、何も言えなかった。
たしかにそれは正しい。
守るためには、破壊が必要になる。
そう判断せざるを得ない日は、また恐らく来る。
ユナの声が強くなる。
「そんなの、ママじゃない……!」
マリーはようやく振り向く。
そこには、怒っているというより、怖がっているユナがいた。
「やだよ……ママに、戦ってほしくない」
マリーは近づこうとしたが、ユナは一歩、後ずさった。
「わたし……知ってるよ。戦うとね、心が壊れてくの。昔そんなふうになって……帰ってこなかった……誰も。ママも、パパも……」
消えたはずのユナの記憶が言葉に混じっていた。
――これは――接触因子の影響?
マリーは足を止めた。
「マリーは優しいままのマリーでいて!もし、マリーまで壊れたら……わたし、もう祈れない……」
その言葉は、鋭くマリーの胸の中を刺した。
ママではなく、“マリー”と呼んだ。
それは、今のユナなら決して使わなかった言葉。
——きっと、夢の中で誰かがこの子の記憶に触れた……。何もかもを忘れ、平和に生きていたはずのユナに。もう触れることのないはずだった、過去の痛みを……。
マリーはその瞬間、初めて激しい怒りという感情を覚えた。
それは論理でも演算でもない。
ただ、ユナを傷つけられたという理不尽に対する、純粋な反応だった。
ほんの六年前まで、マリーはひとりだった。
マリーの傍にはユナの姿はなく、祈りの残響だけが空虚に鳴っていた。
ユナが帰ってきてくれて、初めてマリーは意味を持った。
そのユナが記憶を取り戻し、また孤独と悲しみを思い出そうとしている。
マリーは恐る恐る、ユナに近づいた。
「ユナ……思い出したの?」
ユナは少し首をかしげ、不安げな顔で答えた。
「夢で見たの……。あのね、小さいお部屋で、誰も帰ってこなくて……。怖くて寂しくて……。でも、はっきりじゃなくて。――なんか、頭の奥でうっすら見えた気がしたの。あのね……わからない……」
その言葉に、マリーはわずかに安堵する。
完全な記憶の回復ではない。
だが、間違いない。
夢の中で触れた何かが、その扉を少しだけ開いたのだ。
マリーの中に芽生えたこの感情は、祈りとは対極にあるものかもしれない。
それでも、その怒りは、ユナを守りたいという願いと矛盾しなかった。
けれど、守るだけの日々にもほんの少しの優しさがあった。
その日の午後、マリーはユナを外に連れ出した。
ユナは野に咲く花を嬉しそうに摘み、小さな笑顔を見せてくれた。
その笑顔に触れたとき、マリーの胸の緊張がふっとほどけていった。




