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銀河に還る祈り 統合版 〜魂を宿したAIが紡ぐ、終末世界からの文明再建と新創世記の百年旅〜  作者: ユノ・サカリス
第一章《星の丘に残された声》

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第3話《風の中の記憶》

扉を開けた瞬間、風がユナの髪を優しく揺らした。

それは、シェルターの中では一度も感じたことのない風だった。

冷たくて、でもどこか懐かしい匂いがした。

胸の奥にひっそり眠っていた記憶が、その風に触れた瞬間だけ目を覚ますようだった。


「マリー、外に出るよ」


『承知しました。現在、呼吸環境はギリギリ許容範囲内です。体調に変化があれば、すぐ戻ってください』


「うん、わかった」


ユナは小さなリュックを背負い、ゆっくりと階段を上がっていく。

手すりの金属は薄く錆びていて、触れた指先にざらりとした感触が残った。

その冷たさと粗さが、もうずっと触れていなかった現実の手触りを教えてくれる。


シェルターの中の空気は、いつも乾いていて無臭だった。

だからこそ、頬をかすめる風に含まれた土と草の匂いが、ユナには胸を突かれるほど鮮烈だった。

階段の途中で、一瞬だけ足を止める。

この匂いは、もう思い出の中にしかなかったはずの匂いだった。


一段ずつ、慎重に。

それは、九ヶ月ぶりに踏みしめる地上だった。

最後に避難した、あの日以来の小さな上陸。


扉の先に広がっていたのは、静かな夜だった。

厚い雲の向こうに淡い月明かりが滲み、荒れ果てた地面の輪郭をぼんやりと照らしていた。

風は弱く吹き、乾いた草を揺らしてささやくような音を立てていた。


「……こんなだったっけ?」


ユナの声は、誰に届けるでもなく、宙にほどけていった。

あたりには、かつて“街”と呼ばれていた場所の名残が、静かに横たわっていた。

崩れたビル、傾いた電柱、赤茶けたガードレール。

アスファルトには大きな亀裂が走り、乾いた草がその隙間を埋めるように生えていた。


それは、知っているはずの風景だった。

けれど、どこかが違っていた。

記憶の中の景色と、今の目の前にあるそれが、重ならずにすれ違っていくような、そんな静かな喪失感があった。

 

「あのコンビニ……アイス買ったんだ、パパと」


ユナはぽつりと呟く。

風に押されるように、一歩ずつ歩き出す。

目の前の風景と、記憶の中の映像が、少しずつ重なっていく。


ひび割れた歩道を見たとき、不意に母の手の温もりが蘇った。

小さな自分の歩幅に合わせて、ゆっくり歩いてくれたあの日のこと。

いまは瓦礫に埋もれた道の上に、その面影だけが残っていた。


「あっちが、ママと手をつないで歩いた道で……たしか夏だったのに、風が冷たくて」


道端に転がる自転車、ひび割れた歩道、欠けた標識。

それらすべてが、遠い日の“記憶のかけら”と重なって見えた。

色も匂いも、時間の感覚さえも曖昧なはずなのに、不思議と胸の奥が疼いた。


涙は出なかった。

けれど、胸の奥がじんわりと熱くなる。

何かがそこに、確かに残っていた。

いや、残っていたことを、思い出したのかもしれない。


「マリー、なんか……変な感じ。すっごく怖いのに、懐かしいって思っちゃう」


『それは、記憶と現実が重なるときに生じる感情反応です。ユナの中にある過去が、今の風景と繋がったのかもしれません』


「そっか……じゃあ、ユナの中には、ちゃんと残ってるんだね」


『はい。それは、ユナが生きてきた証です』


その言葉に、ユナはそっと目を閉じた。

風が、頬にそっと触れていった。

そのぬくもりは、再び母の手を思い出させる。


ふと視線を落とすと、瓦礫のすき間に、小さな花が咲いていた。

色褪せてはいたが、確かにそこに根を張り、風に揺れていた。

まるで、誰かがそっと置いた祈りのように。


ユナは、かつて通っていた保育園の前を通りかかった。

崩れかけた壁に貼られたままの看板に、かろうじて文字が残っている。


《ほしのこども園》


かすれたその文字を、ユナはじっと見つめた。

ほし――それは、あの夜空に輝いていたもの。

あの頃の自分も、あの中の一人だったのだと思うと、胸がちくりと痛んだ。


「マリー、丘……こっちだったよね?」


『はい。座標を確認しました。推定で、あと八百メートルです』


「じゃあ、行ってみるね」


ユナはまた歩き出した。

足取りはおぼつかず、何度も立ち止まりそうになりながらも、それでも確かに前を向いていた。


息が上がり、胸が苦しくなる。

それでも足を止めたくなかった。

一歩進むたびに、心臓がまだ生きていることを確かめるように鼓動した。


丘の上にたどり着いたとき、ユナは小さく息をのんだ。

そこは、変わり果てていた。

けれど確かに、あの場所だった。


「ここ……だよね、マリー」


『位置情報を照合しました。ここが、ユナのご家族と訪れた場所です』


かつて芝生が広がっていた丘は、いまでは枯れ草に覆われていた。

地面にはひびが走り、空気は乾いていた。

それでも、遠くまで空が開けた景色には、懐かしさが宿っていた。


ユナはそっとしゃがみ込み、指先で土をなぞった。

乾いた土の感触が、ひんやりと指に沁みた。


「パパの肩の上から、ここで星を見たの……すごく綺麗で、キラキラしてて……宝石みたいだった」


『記録には残っていませんが、その記憶は確かにユナの中にあります。それが、いちばん大切なことです』


「うん……そうだね」


ユナは空を見上げた。

けれど、そこに星の姿はなかった。

空は曇っていて、厚い雲が空一面を覆っていた。


「……でも、もう一度だけでいいから。ユナ、生きてるうちに……あの星を、また見たいな」


その声は、かすれていた。

けれど、胸の奥から、確かな願いが宿っていた。

それは、誰かに届くことを願ったものではない。

けれど、間違いなく——祈りだった。


『ユナの祈りは、聖母マリア様に届くと、私は信じています』


「祈り……か」


ユナは目を伏せ、その言葉を静かに繰り返した。

その響きが、胸の奥に落ちていく。


ユナはシェルターに来たばかりの頃、よく泣いていた。

夜になると、不安に潰されそうになりながら、眠れぬ時間を過ごしていた。


そんなある日、マリーはおとぎ話のように語った。

聖母マリア――人々の祈りを受け止める、やさしくて、美しい存在。


それを聞いたユナは、目を伏せて小さく呟いた。


「そういうの、信じてもいいかな」


そして数日後、ユナはその名をマリーにつけた。

マリアという名前を、やわらかく、あたたかく言い換えたような響きだった。


マリーという存在が何であれ、その名には確かに祈りのようなものが宿っていた。


風が吹いた。

枯れ草がさわさわと揺れ、夜の丘に小さな音が満ちていく。


ユナはその音に耳を傾けながら、曇った空を、じっと見上げていた。

雲の向こうに、まだ星があると、信じるように。

 

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