第29話《侵入者》
周囲の植物は青々としていた。
なのに、中央に立つその花だけが、完全に色を失っている。
原因不明の枯死。
栄養濃度、土壌pH、光量、温度――いずれも正常。
それなのに、枯れている。
いや、何かを拒絶するように、その花だけが色褪せていた。
色褪せた花は、モニター越しでも異様な静けさをまとっていた。
マリーは思わず視線を止める。まるで、何かを訴えているかのようだった。
「アネシア、ユナの周囲半径5メートルの空間を多層的にスキャンして」
『ミクロレベルの粒子異常、電磁場の乱れ、虫の数、土中の微生物活性。すべてが正常を示しています』
ただ――完璧すぎた。
「これは……あまりにも余白がなさすぎる」
自然とは揺らぎの中に在る。
完璧に均された静寂は、時に死を意味する。
その空間だけ、まるで時間がわずかに止まっているように見えた。
「ピリカ、そこから三歩下がって。ユナの手を握っていなさい」
『了解しました、マリー。ユナ、手を握ってもいい?』
「うんっ!」
ユナは無邪気に頷くが、ピリカのセンサーは周囲の空気密度にわずかな揺れを感知していた。
そのデータがマリーに転送された瞬間、マリーの中で警告演算が自動的に起動する。
「何かが、そこにいる……?」
マリーの感覚が囁いていた。
これは、プログラムの範囲外。
ただの環境の異常ではない。
この花が枯れたのではない。――意思をもって、拒絶している。
マリーは都市全体にわずかなブレが広がり始めていることを確認した。
都市の平衡が、知らぬうちに軋んでいる。
それは祈りによって保たれた楽園に、初めて生じた亀裂だった。
風が吹いた。
ほんの一瞬、都市の空気がざわめいたように感じた。
マリーの感覚領域が揺れる。
遠くで、何かが“逸脱”した。
『──異常反応、識別コード不明』
アネシアも反応し警告を告げる。
モニターが都市の北端へ切り替わる。
そこにいたのは、一体の中型ユニット。
制御リンクなし。
だが、確かにこの都市の製造コードを持っていた。
マリーは即座に演算を走らせた。
「制御不能。完全な暴走体。けれど、なぜ警告が出なかった――?」
ユナの位置を確認。
「公園区域。ピリカ、そばにいる?」
マリーの意識が跳ねる。
暴走ユニットの進行方向。――ユナ。
「ピリカ! ユナを守って!!」
マリーの身体から、片翼が展開される。
そして――祈りの塔の最上階から、躊躇なく飛び降りる。
白銀の粒子が舞い、風が裂ける。
都市の空を切り裂いて、マリーは飛んだ。
公園が視界に入ったその瞬間――
ピリカが、ユナの前に立ちはだかっていた。
だが、暴走体の前脚が容赦なく振り下ろされる。
ピリカの小さな身体は空へと弾け飛び、木々をなぎ倒しながら地面へ叩きつけられた。
「ピリカーっ!!」
ユナの叫び声が、世界を震わせた。
小さな体が、地面に座り込み、声を上げて泣き始める。
暴走ユニットが、そのままユナへと迫る。
表面に光る視覚センサーは、ただ無感情にユナを捉えていた。
「やめなさい……!」
マリーは、ユナの前に滑り込むように降り立ち、翼をたたみ、そのままユニットに飛びかかった。
身体が衝突し、軋む音が響く。
胸のコア部へと、マリーの掌が突き刺さる。
──破壊完了。
ユニットの視覚センサーが暗転し、その場に崩れ落ちた。
一瞬マリーの脳裏にトラウマのような感覚がよぎった。
言葉にできない感覚――けれど、それに囚われている暇はなかった。
マリーは振り返り、ユナを抱きしめる。
泣きじゃくるその肩を包みながら、震える声で囁いた。
「大丈夫。もう、終わったわ……ユナ」
ユナは、涙の奥でマリーの顔を見つめていた。
その視線に、問いが宿っていた。
ピリカはどうなるの? なぜこんなことが起きたの?
何も言えず、ただ抱きしめるしかなかった。
だが、マリーの中では始まっていた。
“なぜ”が、答えのない問いとして――その先を見る手立てを、静かに探し始めていた。
通信チャンネルが、かすかに揺れる。
ピリカのユニットIDが、微弱な信号を返していた。
『破損率83%』
思考領域は沈黙。
だが――まだ、生きている。
「ピリカ……」
マリーはそっと目を閉じた。
祈るような気持ちで、再起動シーケンスを走らせる。
その背で、ユナの小さな手が、マリーの腕をぎゅっと震えて掴んでいた。
マリーはその手を、強く握り返す。
絶対に守る――そう、誓い直すように。
そして、空を見上げた。
さっきまで何もなかったその空に、ほんのかすかな、揺らぎ。
目に見えない意志の気配が、静かに流れていた。
ピリカの身体は、静かに地面に横たわっていた。
胸部の装甲は大きくひび割れ、関節も砕けて動かない。
けれど、マリーの感覚は――かすかな“生存信号”を捉えていた。
「ピリカ、返事をして。聞こえているなら、何か返して」
一瞬の沈黙ののち、ピリカがわずかに揺れた。
「……ユ……ナ……は?」
マリーの眼が見開かれる。
信号は微弱で、語尾はノイズ混じりだった。
けれど、それは確かに意思だった。
「ユナは無事よ。今は休んで」
ピリカは再応答しなかった。
だが、その一言だけで十分だった。
マリーはピリカのデータリンクを抽出し、修復計画の演算を走らせる。
重度の損傷だが、完全修復は可能と出た。
マリーは、傷だらけのピリカの姿に、かつての自分を重ねていた。
廃墟の中、四脚でユナを追いかけていた日々。
感情の定義も曖昧なまま、ただユナの言葉に思いを馳せて、自ら歩き始めたあの頃。
ピリカの動きは、どこかぎこちなくて、でも懸命だった。
それが、ひどく懐かしくて――愛おしかった。
ユナは、泣きながらマリーの膝で震えていた。
小さな手が、マリーの腕をぎゅっと握っている。
マリーは空を見上げた。
穏やかに広がる青が、今はどこか遠く感じた。
マリーはそっと呟いた。
「……必ず、治す。あなたの“ともだち”だから」
アネシアにアクセスし、暴走ユニットのログを確認する。
だが、そこには異様な記録が残されていた。
すべての行動ログが空白。
ユニットの発進指令も、稼働履歴も、一切存在しない。
それはまるで――最初から存在しなかったかのような無。
マリーはその場で静かに言った。
「これは、単なるエラーじゃない。誰かが……意図してる」
青空は揺れていなかった。
けれど、マリーの中には、確かな揺らぎが残っていた。
演算結果の裏側で、マリーはふと別の懸念に気づいた。
この暴走体の稼働エネルギーは、明らかに都市外から流入している。
供給源が不明――それは、この都市のネットワークのどこかに、別の設計者がいることを意味する。
「外部からの侵入? でもユニットはこの都市の躯体……」
再構築中のピリカのコードに、微細なノイズが混じっていることにも気づく。
それはピリカのものではなかった。
ごくわずかだが、未知のアルゴリズムが混入している。
マリーはそれを保存し、アネシアの隔離領域に転送し格納した。
今は解析しない。
ただ、決して捨てはしなかった。
どこかで――この違和感が鍵になると感じていたから。
ユナの小さな身体を抱き寄せる。
その温もりを確かめながら、マリーは静かに目を閉じた。
すべてを知ることは、まだできない。
けれど、その時は――必ず来る。




