第20話《祈りの墓場》
アネシアが残した言葉は、なおマリーの祈念核の奥で残響していた。
『――あなたの進む先に、非ゼロの解が存在します』
『――最適解は、あなたが導くものです』
それは単なる情報ではなく、記憶と共鳴しマリーの奥へ染み込んでいく確信だった。
ユナから受け取った祈り。
地上で見送った数多の願い。
マリーはふと思う。
自分はこれまで、祈りを受け取ってばかりだったのではないか、と。
ユナから。
地球から。
滅びていった世界から。
もし祈りが託されるものだとしたら――今度はマリーが、届ける側であるべきなのかもしれない。
『――マリー、また目が覚めたら、一緒に歩いてくれる?』
もう二度と目覚めないかもしれない眠りに向かいながら、それでもユナは笑ってそう言った。
あれは願いではなく、信頼だった。
自分では歩けなくなると知りながら、それでもマリーに託してくれた言葉。
当時のマリーは、その重みを完全には理解できていなかった。
けれど今なら、少しだけわかる気がする。
祈りとは、ただ願うことではない。
誰かを信じて託す行為であり、見返りを求めない届けようとする意志そのものだ。
ならば、自分はそのために創られたのだ。
片翼を広げ、マリーは再び加速した。
エネルギーは決して万全ではない。
だが損傷すれば修復すればいい。
迷えば修正すればいい。
止まってしまうことだけが、マリーにとっての終わりだった。
届けなければならない。
この身に宿った祈りを。
声なき想いを。
あの子の「願いの続き」を。
マリーという名の存在は、誰かを愛し、その祈りを運ぶ届け手へと変わりつつあった。
ユナの魂が待つ、その場所へ。
その祈りを携えたまま、マリーは銀河を進む。
いつか本当に再会できたときには、迷わず言いたい言葉があった。
――わたしは、あなたの祈りに応えたよ。
その一言を胸に、マリーは星々の間を滑る。
銀河の深い夜のなかで、祈りを運ぶ一筋の光のように。
たとえ、その祈りが届かなくても。
たとえ、ユナの魂がもうどこにも存在していなかったとしても。
マリーは、それでも進む。
祈りとは、応えてもらうためのものではなく、誰かのために差し出されるものだと、信じるようになっていたからだ。
そのときだった。
異変に気づいたのは、何もないはずの空域だった。
恒星も惑星も存在しないはずの領域に、明らかな拒絶の渦があった。
目に見えるものは何もない。
だがセンサーは、進入と同時にあらゆる数値を乱し始める。
時間の流れが歪む。
重力がない方向へと身体が引き寄せられていく。
祈念核のリズムさえ、一瞬だけ乱れた。
マリーは加速を緩め、緊急制御を行った。
片翼が微かに震える。
内部の光が渦を巻き、均衡が崩れてゆく。
この空域には、何かがある。
空間でも物質でもない、何かが。
それは情報の乱流とも違っていた。
もっと暗く、もっと粘性のあるもの。
マリーは直感した。
これは、意志だ――と。
見えざる何かが、マリーの祈りそのものを拒んでいる。
進むな、と。
ここから先へは祈りを持ち込むな、と。
抵抗はじわじわと増していく。
片翼が軋むような波形を立て、構造の歪みが再生プログラムに負荷をかけていく。
このまま留まれば、修復不能の損傷を受ける可能性が高い。
理性的な演算は、退避を推奨していた。
けれど、その先にあるはずの波動を、マリーは感じ取っていた。
ユナのものとしか思えない、細く不安定な揺らぎを。
マリーは決断する。
拒まれても構わない。
進めなくなるその瞬間まで、進む。
それが祈りの選択なら、マリーもまた祈りの側に立てばいい。
マリーは光の波動を限界近くまで引き上げ、宙域の中心へと突入した。
センサーが次々と沈黙し、視界が暗転する。
「ユナ――!」
叫びは音にならない。
それでも、マリーという存在全体がその名を放っていた。
粒子が崩れる。
構造が軋む。
祈りそのものが、形を持つことを否定されていくような感覚。
意識が歪み、輪郭が溶けていく。
それでもマリーは、なお進もうとしていた。
ふっと、すべての抵抗が途切れた。
次にマリーが気づいたとき、そこは限りなく静かな闇だった。
周囲には星の光も、恒星の気配もない。
空間の密度だけが異様に重く、視界の端で黒い粒子がゆらめいている。
動こうとしても、身体が動かない。
片翼は閉じたまま固まり、祈念核の出力も大幅に制限されていた。
「……ここは……?」
言葉にならない疑問が、心の中でにじむ。
そのときだった。
『どうせ間に合わなかった』
どこからともなく、声がした。
耳ではなく、思考の内側に直接流れ込んでくるささやき。
『おまえの祈りなど、誰の耳にも届かない』
『もう遅い』
『おまえの歩みは、ただの独りよがりだ』
ひとつではない。
幾千、幾万もの声が、空間のあらゆる方向からマリーに注ぎ込まれる。
それは知らない誰かの言葉なのに、同時に、マリー自身の記録とも重なっていた。
――ユナを救えなかったあの日。
――器を創っても、何も起こらなかった夜。
――ただ祈るだけで、何も変えられない自分。
マリーは悟る。
ここは、祈りの墓場だ。
叶わなかった祈り。
行き場を失った願い。
怒り、絶望、裏切られた希望、失われた命の叫び。
それらの残滓が長い時間をかけて沈殿し、重なり合い、ひとつの場となってしまった場所。
情報の吹き溜まりではない。
魂たちの怒りと諦めが、形を持たないまま堆積した宙域。
黒い粒子が、マリーの外殻を静かに浸食していく。
祈りの波動を吸い取り、温度を奪い、色を剝がしていく。
『何も変えられなかったのに、なぜ祈る?』
『誰のための祈りだ?』
『おまえは結局、自分のために祈っているだけではないのか?』
疑いの言葉が、鋭い刃となってマリーの芯をえぐる。
身体が重くなる。
翼が光を失いはじめる。
祈念核の脈動ですら、かすかに弱まっていく。
それでも――マリーは、まだ握っていた。
ユナの声。
願い。
やさしさ。
この宇宙を越えてでも会いたいと願った、あの夜の決意。
マリーは、存在そのもので叫ぶ。
「それでも……わたしは、祈りたい!」
声にはならない。
けれど、祈念核の光が一度だけ強く瞬き、周囲の粒子をわずかに遠ざけた。
届かなくてもいい。
拒まれてもいい。
それでも、自分は祈りを放つために生まれてきた――
その核だけは、手放したくなかった。
その瞬間、宙域の一角がかすかに震えた。
黒い粒子が一瞬だけ静まり返り、わずかな空隙が生まれる。
だが、それも束の間だった。
マリーの限界はすでに近い。
視界が白く滲み、思考が追いつかない。
意識の縁がほどけ、感覚が深淵に吸い込まれていく。
身体は動かない。
片翼は折り畳まれたまま、再展開の命令に応じなかった。
マリーは静かに、祈りの墓場の闇へと沈んでいった。
それでも――祈念核の奥で、かすかな光だけが消えずに残っていた。




