第115話《無へと還す》
アウロラ地区の空が、住人たちの恐怖に呼応するように厚い雲に覆われていく。
雲の下を這うように雷光が走り、激しい雷鳴が街へ響き渡った。
エレナは空を見上げ、僅かに後ずさる。
「四体なんて……なんでこんなことに」
エレナの背筋を冷たいものが走る。
一体ですらノアの祈念を枯渇させるほどの強敵だ。
四体同時など、記録にもない。
稀にエイドスへ邪龍が紛れ込むことはある。
だが現れても一体だった。
エレナに迷っている時間はなかった。
「それでも……アウロラの守護者として!」
エレナは祈念を集中させる。
白と桃色の光が身体を包み込み、その輝きに呼応するように空へ霧が立ち込めた。
「行くよ! ノア!」
次の瞬間だった。
雲海の中から巨大な腕が現れる。
それはエレナを傷つけぬよう、そっと掌を差し出した。
続いて肩。
胸部。
そして閉じられた瞳。
霧の中から、白き機神アウローラ・ノアがその全貌を現した。
エレナはノアの腕を駆け上り左肩に立った。
雷雲の下、旋回する四体の邪龍。
咆哮がアウロラに響き渡り、ノアを警戒するように距離を取る。
地上ではマリーがオルドの手を引き建物の隅へ身を隠す。
「オルド、あの邪龍たちはあなたを見ていた。目的は何? 彼らも何かの役目のために来たの?」
「奪うためだ」
「奪うって何を?」
「オレの……大切なもの」
上空では、エレナがノアの肩で祈念を集中させていた。
「ノア……いくよ」
ノアの瞳がゆっくりと開き、周囲の空気が震える。
胸部の核が桃色に輝き始め、光は全身へと巡り、巨大な両腕が一体の邪龍へ向けられた。
「一体ずつ片付けるしかない……」
旋回する邪龍の渦へ、ノアはさらに上昇する。
次の瞬間、巨体からは想像もできない速度で一体の邪龍の目の前に現れ、その手で邪龍の胴体を鷲掴みにした。
「ノア! 握り潰すよ!」
祈念が増幅されノアの圧力が強まる。
邪龍はノアの手を抜けようと必死に激しく暴れる。
そのとき、エレナの脳裏に声が響いた。
――痛い……怖い……助けて。
「……え?」
ノアの握力が緩んだ。
その瞬間を邪龍は見逃さず、手をすり抜けノアの胸部に強烈な体当たりをした。
金属を揺さぶる激しい音と、振動がノアを揺らす。
「――きゃぁー!」
体勢を立て直そうとエレナが目を開けたその瞬間には、すでにもう一体の邪龍が目の前へと飛んできていた。
「ちょっと……間に合わない! ノア、衝撃に備えて!」
ノアは腕を胸の前に交差させ防御体勢に入る。
「……ぶつかる」
エレナが身構えた瞬間だった。
下から青白い砲弾が邪龍のこめかみを掠めた。
その衝撃が邪龍の軌道をずらし、激しい咆哮を放ち再び上空へと飛ぶ。
「――エレナ! もっと高度を下げろ! 高すぎて照準が定まらない!」
そこには塔の頂上からライフルを構えるルナが見えた。
「ルナ!」
ノアはルナの位置まで高度を下げる。
「エレナ、どういうこと? 四体も……」
「わからない……。でもルナ、あの邪龍が、助けてって!」
「はぁ? いつものことじゃない! 惑わせられないで!」
――いつものこと?
しかしエレナにそれを考えている時間はなかった。
ノアを追って上空から、四体の邪龍が一直線に向かってくる。
「エレナ! 私が一体仕留める! エレナはノアの両手で2体掴め! 残り一体は……その後考える!」
「わかった、やってみる!」
四体はノアへ向かって一斉に飛び込んできた。
「ノア! まず二体掴むよ!」
ノアの両手が巨体を思わせぬ素早い動きで邪龍二体の胴体を掴んだ。
邪龍は激しく暴れノアの両腕が軋む。
「くっ……二体は押さえきれない……」
その隙に一体がエレナ目掛けて飛んでくる。
ルナは照準を合わせるが、その指が震える。
「外せばエレナが死ぬ。掠めてもノアに当たる。……でも、撃たなきゃもっと最悪だ!」
ルナは引金を引いた。
弾は、ノアの右腕すれすれを抜け、邪龍の頭を撃ち抜いた。
「――よし!」
邪龍は身体が分解されるように散り散りになり、アウロラの空へと溶けていく。
だがそれに気づいた残りの一体がルナへと標的を変え、ルナに向かってくる。
「エレナ! そのまま、もう一体、その腕で叩き落としてくれ!」
「――やってみる!」
邪龍を掴んだままの右腕を振り下ろすが、掴んだ邪龍が暴れ制御が効かない。
残っていた最後の一体は、ノアの拳を掠めるように避け、ルナへ向かって急降下した。
「うそ……ルナ! ごめん、失敗した!」
ルナは向かってくる邪龍に照準を定めるも、引金を引けない。
「ダメだ……祈念の補填が間に合わない……」
「ルナー!」
エレナの声が響く。
ルナは歯を食いしばった。
だがまだ撃てない。
邪龍の牙が目の前まで迫る。
次の瞬間、白桃色の閃光が視界を貫いた。
凄まじい衝撃と共に邪龍の巨体が横へ弾き飛ばされる。
「――何?」
ルナが遠ざかる音の方向へ視線を向けると、邪龍は空へと軌道を変え舞い上がろうとしていた。
だが次の瞬間、それは黒い散りとなって崩れ始める。
邪龍は断末魔すら上げることなく、分解されるようにアウロラの空へ溶けていった。
そしてルナの横には、片翼を広げ、美しい祈念を纏ったマリーが浮いていた。
――この女!?
ルナは反射的にライフルを向けた。
一度死を覚悟したルナの呼吸は荒い。
しかし、マリーはそれを気にすることもなくルナに問うた。
「ねぇ。ここで邪龍を倒したらその魂はどこへ行くの? また墓場に堕ちていくの?」
ルナはマリーに照準を合わせたままその問いに答える。
「どこへも行かない」
ルナは即答した。
「そのまま無になる。ここでは魂が具現化している。肉体と魂を離すこととは別物だ」
「……そう」
マリーは空を見上げた。
消えた邪龍の欠片はもうどこにも残っていない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
その光景が、なぜか胸の奥を痛ませた。




