第105話《アネシア》
イエルは地面へ叩きつけられたまま、動かなかった。
頬から血が流れる。
視界も霞み始めていた。
それでも、崩れ落ちた塔から目を離せない。
瓦礫の下には、まだ皆がいる。
誰一人、救えなかった。
「……僕は……」
声にならない。
――守れなかった。止められなかった。父も。兄も。この国も。
ラグスの足が、ゆっくりと近づいてくる。
次の瞬間、鈍い衝撃が腹部へ突き刺さった。
「――ガハッ!」
身体が地面を滑る。
ラグスは無言のまま、さらにイエルの顔を蹴り上げた。
血飛沫が舞う。
それでもイエルは抵抗しない。
いや――もう、立ち上がる力が残っていなかった。
周囲ではなお、ネオスたちの怒号と、祈念種たちの悲鳴が響き続けている。
その光景を見下ろしながら、ラグスは静かに息を吐いた。
「結局、人は恐怖に従う」
冷たい声だった。
「理想では国は動かないのですよ、イエル様」
ラグスはイエルの髪を掴み、無理やり顔を上げさせる。
「あなたも理解したでしょう?」
イエルの瞳は揺れていた。
怒りも、憎しみもあった。
だがそれ以上に、深い絶望があった。
ラグスはそんなイエルを見つめ、小さく笑う。
「イエル様。あなたはよくやりました」
まるで労うような声音だった。
「父を失い、兄を失い、それでもなお民を守ろうとした」
ゆっくりと手を離す。
イエルの身体が再び地へ崩れ落ちた。
「ですが――もう終わりです」
ラグスは残された左拳を静かに振り上げる。
「イエル様。お疲れ様でございました」
そのとき、瓦礫の山が突如として白く輝いた。
次の瞬間。
塔の地下深くから、一閃の光が天へと放たれる。
それはまるで、世界そのものを貫く祈りだった。
眩い白光に、誰もが思わず目を覆う。
轟音すら消えた。
空気が止まり、世界が静まり返る。
やがて光の中心に、巨大な女神の姿が浮かび上がる。
その巨躯は、黄金色の半透明だった。
空を埋め尽くすほど巨大な女神。
長い髪は光の粒子となって揺れ、その全身を巡る幾重もの紋様が、まるで都市そのものと同期するように淡く脈動している。
その姿に、民衆の誰もが息を呑んだ。
祈念種も。
ネオスも。
誰一人として、言葉を発せない。
女神は静かに膝をつくように屈み、ゆっくり両手を広げる。
その掌には、人影があった。
気を失ったマリアスたちだった。
ナギを守るように、カイがその小さな身体を抱いている。
その上へ覆い被さるように、マリアスが倒れていた。
片翼は砕け、血に濡れている。
それでもなお、皆を庇うように抱き締めている。
その傍らでは、死してもなお、エリカを守るようにオルガが覆い被さっていた。
まるで最後の最後まで、そうすることが当然だったかのように。
ヨウルもまた、力尽きた身体でルカを抱えるように横たわっている。
その白銀の毛並みは瓦礫と血に汚れ、それでもなお、ルカへ降り注ぐ破片から庇うように身体を丸めていた。
誰もが傷ついていた。
誰もが倒れていた。
それでも。
誰一人、自分だけを守ってはいなかった。
巨大な女神は、その掌をゆっくりと地上へ降ろす。
まるで壊れ物を扱うように。
慈しむように。
巨大な女神は、彼らを静かにイエルの前へ降ろした。
「……みんな……」
イエルは駆け寄り、一人ひとりの姿を確かめる。
「マリアス! カイ君!」
震える手で触れる。
微かだった。
だが、確かに温もりと呼吸が残っている。
その瞬間、カイの腕に抱かれていたナギがゆっくりと目を開けた。
「……ナギ!」
イエルの声が掠れる。
「大丈夫か!?」
「……うん……」
ナギは小さく頷き、ゆっくりと身体を起こした。
だが周囲を見渡した次の瞬間、その瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「……オルガ……!」
イエルは慌ててオルガを抱き起こした。
「オルガ……?」
その声が止まる。
胸には大きな裂傷。
そして砕けた祈念核が、剥き出しになっていた。
もう、光はない。
「……ッ」
イエルの喉が震える。
「オルガ……お前は……」
言葉にならない。
涙が溢れる。
それでも必死に堪えながら、今度はエリカの頬へ触れた。
「……大丈夫だ。生きてる……」
安堵と嗚咽が混ざった声だった。
その時だった。
「イエル……」
か細い機械音声が響く。
ヨウルの身体の下から、ルカがゆっくりと顔を出していた。
「ヨウルガ……ヒドイ怪我……」
イエルはすぐに頷く。
「あぁ、わかっている」
震える声のまま、ルカへ笑いかけた。
「お前が無事で良かった。大丈夫だ……すぐ治療する」
そしてイエルは、ゆっくりと振り返る。
ラグスは、その場から動けずにいた。
巨大な黄金の女神。
空を覆うほど巨大なその存在に、完全に呑まれていた。
「……何ですか……これは……」
ラグスの声が掠れる。
女神は何も語らない。
ただ静かに、ラグスを見下ろしている。
その眼差しが慈悲なのか。
怒りなのか。
あるいは、もっと別の何かなのか。
ラグスには理解できなかった。
だが、その視線を受けた瞬間、本能が告げていた。
――これは、人の理解を超えた存在だと。
ラグスは思わず、一歩後ずさった。
イエルは呆然と空を見上げた。
「あなたは……」
ゆっくりと、巨大な女神の視線がイエルへ向く。
そして空そのものが震えるような声が響いた。
『我はアネシア』
その声に、誰もが息を呑む。
『始祖マリーの想いを継ぎ、二千年、この国を観測し続けた者』
ナギは胸の前で手を組み、涙を流す。
ナギにとって、その姿は聖記書の中でしか見たことのない、始祖マリーそのものだった。
「マリー様……みんなを助けて……」
その祈りを受け、アネシアの視線はゆっくりとナギに向く。
『ナギ。本来、私に形などない。これは二千年前、私が友と呼んだ者の姿だ。そして、お前も私の友の祈りを継ぐものだ』
その言葉は、優しくナギの祈念核に流れ込む。
『ナギ、お前もこの国のカルマを背負う当事者だ。まだ幼く、その使命と役割に気づかなくとも、何も難しいことはない。なぜならお前の祈りはいつも純心で優しく、皆の幸福を願う者だからだ』
アネシアはナギへ向け、ゆっくりと身を屈める。
『お前が皆を救え。ここに倒れた者たちを。そして――我が娘、エリカも救ってあげてくれ』
「……はい」
ナギは小さく頷き、静かに瞳を閉じた。
「……お願い。目を覚まして……」
震える声だった。
「マリアス……カイ……エリカ……。ヨウルも……」
そこで声が止まる。
「……オルガも……」
ナギは、それ以上言えなかった。
もう、わかっていた。
オルガの魂は、もうそこにはいない。
涙が止まらなかった。
その時だった。
壊れた後脚を引きずりながら、ルカがナギの傍へ寄り添う。
「……ナギ……」
弱々しいレンズの光が、かすかに瞬く。
そしてルカの祈念核が共鳴するように輝き始めた。
ナギの祈念波が増幅されていく。
優しい光だった。
やがてその祈りは都市全体へ広がり、ルミエルにいる祈念種たちの祈念核を震わせていく。
そして――それはネオスたちへも届いた。
かつて祈念核だった心臓。
その奥に残っていた微かな温もりへ、静かに触れていく。




