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第31話 神は管理者ではなかった

 八九日。その数字は、翌朝になっても、世界から少しだけ音を奪ったままだった。


 監視小屋の朝。誰もが、いつもより静かだった。ガルドさんは黙って武器の手入れをし、ドルガンは焼けた魔灯の回路を無言で直している。マティアス司祭は、青紐の箱を膝に置いたまま、動かなかった。


 俺は、昨夜書いた一文を、もう一度読んでいた。


 水瀬葵は、失踪者だった。ならば、彼女が消える前に、いた場所がある。


 その考えは、朝になっても消えなかった。むしろ、別の違和感と繋がって、大きくなっていた。


 ずっと、おかしかったのだ。この世界へ来てから、感じていたことが。


「ユーマさん」


 リア殿下が、向かいに座った。セシルさんが横につく。


「はい」

「昨日から、考え続けていますね」

「はい」

「聞かせてください」


 俺は少し迷った。まだ仮説だ。確証はない。だが、リア殿下は観測者だ。俺の思考を、記録し、必要なら止める人だ。話すべきだった。


「神のことです」


 その一言で、マティアス司祭が顔を上げた。


「……神」

「はい」


 俺は、慎重に言葉を選んだ。


「この世界には、神がいます。聖教国では創世神アル・ノヴァ。王国神話では天空神ルシエル。地方や種族ごとに、別の名の神がいます。世界を創り、法則を定めた存在だと、信じられています」


 マティアス司祭が、静かに頷いた。


「昨日、球体は、管理局と言いました。転移管理局。世界を管理する仕組みです」


 俺は、レグナ卿を見た。


「もし、神が世界を創った存在なら。その神より上に、管理する者がいるのは、おかしくないですか」


 部屋が、静かになった。


「創った者が、いちばん上のはずです。ですが、管理局は、この世界を封鎖し、初期化する権限を持っている。神を超えて、世界を消せる。それは、神が、いちばん上ではないということです」


 マティアス司祭の顔色が、変わった。


「……それは」

「断定はしません」


 俺は、すぐに付け加えた。


「これは仮説です。ですが、昨日の話と繋げると、一つの可能性が見えます。この世界の神々は、世界を創った存在ではなく、世界を管理している存在なのかもしれない。管理局から、この世界の運営を任された、いわば……」


 俺は、言葉を探した。


「現場の管理者。ローカルな管理者」


 マティアス司祭は、しばらく黙っていた。それから、低い声で言った。


「それは、聖教国にとって、根幹を揺るがす話です」

「はい。分かっています」

「創世神が、創造主ではなく、管理者にすぎないなら……神学の、ほとんどが崩れます」


 彼の声は、震えていた。だが、彼は目を逸らさなかった。


「ですが」


 マティアス司祭は続けた。


「水瀬葵の記録を読んでから、私は、何度も揺らされてきました。聖女が、帰りたかった少女だったこと。祈りが、道標だったこと。今さら、一つ増えても、同じことかもしれません」


 彼は、青紐の箱に手を置いた。


「……ユーマ殿。その仮説を、確かめる方法はありますか」


 俺は少し考えた。


「今すぐには、ありません。ですが、証拠は、少しずつ集まっています。管理局が存在すること。世界に番号があること。アストラが規約を破ったこと。これらは全部、この世界が、より大きな仕組みの一部であることを示しています。神が創造主なら、こんな仕組みは要りません」


 その時だった。


 窓の外が、暗くなった。


 最初、雲が出たのかと思った。だが、違った。


 空が、渦を巻いていた。ルーベルでも、旅の途中でも見たことのない、青い雲の渦。その中心に、光が集まっていく。


「……上です」


 レグナ卿が、杖を握った。


 俺たちは、監視小屋の外へ出た。塔の方角の空。そこに、それがあった。


 目だった。


 雲の切れ間に、巨大な、金色の瞳。世界を見下ろすように、こちらを向いている。あまりに大きく、距離感が掴めない。だが、確かに、見られていた。


 俺は理解した。


 ……来た。この世界の、神だ。


 その瞬間、頭の中に、声が流れ込んだ。


 昨日の球体とは、違う。機械的な通告ではない。意志だった。圧倒的な、重い意志。


 《その先を、口にするな》


 空気が、重くなった。いや、重力そのものが増した。膝が、地面へ押しつけられる。ガルドさんが、片膝をつく。レグナ卿の杖が、地面へめり込む。マティアス司祭が、うずくまった。


 俺の胸元で、ペンダントが青く光った。周囲の重さが、少しだけ和らぐ。守られている。転生の時に渡された、この石が。


「ユーマさん」


 リア殿下が、隣で必死に立とうとしていた。


「聞こえますか」

「はい。俺にだけ、声が」

「何と」

「その先を口にするな、と」


 リア殿下の目が、鋭くなった。


「……図星、ということですね」

「はい。おそらく」


 俺は、空の目を見上げた。神。この世界の管理者。その正体に、俺は近づいている。だから、止めに来た。


 挑発したい気持ちは、あった。図星だと叫び、言い返したい衝動が。だが、俺は、それをしなかった。


 昨日、塔で学んだばかりだ。焦れば、間違える。相手が巨大なら、なおさらだ。今、この存在を怒らせて、何が得られる。何を失う。


 俺は、深く息を吸った。遅れて、呼吸音が返ってくる。それを聞かず、意識を今に戻す。


「……一つだけ、聞かせてください」


 俺は、空へ言った。叫ばず、静かに。


「あなたは、この世界を、創ったのですか。それとも、管理しているだけですか」


 空の目が、揺れた。


 沈黙。重力が、増した。答えは、返ってこない。


 だが、その沈黙こそが、答えだった。


 もし創造主なら、創った、と答えればいい。それだけで、俺の仮説は崩れる。だが、神は、答えなかった。ただ、俺を黙らせようとした。


「……答えないのですね」


 俺は言った。


 《知る必要はない》


 声が、返ってきた。


「必要かどうかは、俺が決めます」


 俺は言った。だが、そこで止めた。それ以上は、言わなかった。挑発ではなく、線を引くように。


「あなたが答えないなら、俺は自分で調べます。ですが、今、あなたと争うつもりはありません。この世界には、八九日の猶予がある。それを是正する方法を、俺は探しています。あなたを倒すためではなく」


 空の目が、また揺れた。


 今度は、怒りではないように見えた。戸惑い、に近い。俺が、争いを挑まなかったことに。


 その時。


 別の声が、頭の中に響いた。


 巨大な意志ではない。静かな声。女性の声だった。優しく、そして、古い。


 《……やっと、来たね》


 俺は、動きを止めた。


 誰だ。


 《待っていた。ずっと》


 頭の中に、映像が流れ込んだ。空の目でも、球体でもない。全く別の場所。


 白い部屋。研究室のような場所。青い光を放つ、巨大な環状の装置。壁一面に、見覚えのある形の文字。数式。図。地球の、記号だった。


 そして、その中央に、一人の女性がいた。


 白衣。黒髪。日本人。二十代の後半くらい。疲れた顔。だが、目だけは、強い光を持っていた。


 その顔を見て、俺は凍りついた。


 知っていた。いや、正確には、会ったことはない。だが、その顔を、俺は見たことがある。青紐の名前。球体が読み上げた、失踪者記録、第七号。


 水瀬葵、だった。


 だが、聖女ではない。祈る少女でもない。白衣を着た、研究者だった。


 映像の中の彼女は、俺を見て、静かに微笑んだ。


 《神崎悠真くん》


 俺の心臓が、跳ねた。


 《君も、こっち側に興味を持ったんだね》


 こっち側。世界の、外側。


 《私も、そうだった。だから、失敗した。一人で、行こうとして》


 彼女の声は、穏やかだった。だが、その言葉には、二百四十年分の何かが、含まれているように感じた。


 《君は、一人じゃないみたいだね》


 俺は、周りを見た。地面に膝をつきながら、それでも、こちらを見ている仲間たち。リア殿下。ガルドさん。ミラさん。セシルさん。レグナ卿。ロイさん。ドルガン。そして、青紐を抱えたマティアス司祭。


 名前を呼ぶ人。記録する人。止める人。


 葵さんが、持たなかったもの。


 《……よかった》


 彼女は、そう言った。


 《次は、アーカーシャで会おう。そこに、全部ある。私が、なぜ失踪者なのか。この世界が、何なのか。門を、どう作るのか》


 アーカーシャ。


 俺が、その言葉を頭に刻んだ瞬間。


 映像が、消えた。


 同時に、空の目が、大きく揺れた。頭の中に、球体の声が戻る。


 《異常を検知》

 《上位権限による、記録への干渉を確認》

 《当該記録を、封印処理する》


 空の目が、雲の中へ引いていく。青い渦が、ほどけていく。重力が、消えた。


 俺は、その場に膝をついた。呼吸が荒い。だが、頭は、異様に冴えていた。


 リア殿下が、駆け寄ってきた。


「ユーマさん! 大丈夫ですか」

「……はい」


 俺は、顔を上げた。


「大丈夫です。ただ、たくさん、聞きました」


 リア殿下は、俺の顔を見て、少し表情を緩めた。


「あなた、今、少し笑っています」

「……そうですか」

「はい。怖い話をしているのに」

「怖いです。ですが」


 俺は、空を見た。もう、目はない。ただの、朝の空だった。


「……知りたいことが、また増えました」


 監視小屋へ戻り、名前確認を済ませてから、俺は、聞いたことを全員に話した。


 神が、答えなかったこと。その沈黙が、管理者であることを、間接的に認めたこと。そして、水瀬葵が、白衣の研究者として、俺に語りかけてきたこと。


「研究者……?」


 ミラさんが、眉をひそめた。


「聖女アオイは、勇者として召喚された少女では」

「はい。ですが、召喚される前の、地球での姿だと思います」


 俺は、慎重に説明した。


「球体は、彼女を失踪者と呼びました。召喚された者、ではなく。つまり、彼女は、この世界へ来る前、地球で、何かをしていた。映像の中の彼女は、世界の間を繋ぐような装置の前にいました。数式も、図も、地球のものでした」

「つまり」


 リア殿下が、静かに言った。


「水瀬葵は、地球で、世界間の移動を研究していた」

「その可能性が高いです」


 俺は頷いた。


「そして、研究の途中で、この世界へ引き込まれた。あるいは、自分で、来ようとして、失敗した。だから、失踪者として記録されている」


 その仮説は、全てを繋げた。


 なぜ、葵さんが、勇者召喚陣の欠陥を見抜けたのか。なぜ、名前を鍵とした情報封印を使えたのか。なぜ、北の塔の境界の傷を見つけられたのか。なぜ、青の道標という、あれほど的確な記録を残せたのか。


 彼女が、研究者だったからだ。世界の外側を、地球にいた頃から、知っていたからだ。


「……でも」


 ミラさんが、少し苦しそうに言った。


「彼女は、帰りたかったと書いていました。お母さんに会いたかった、と。研究者なら、なぜ」

「矛盾しません」


 俺は言った。


「研究者にも、母がいます。帰りたい気持ちがあります。むしろ、世界の外側を研究していた人だからこそ、帰れないことの意味を、正確に理解していた。だから、あれほど、帰りたいと書いたのかもしれません」


 部屋が、静かになった。


 マティアス司祭が、青紐の箱を、そっと撫でた。


「……聖女ではなく、研究者。それでも」


 彼は言った。


「帰りたかった少女であったことは、変わりません」

「はい」


 俺は頷いた。


「聖女でも、勇者でも、研究者でもなく。帰りたかった一人の人間。その全部が、彼女です。彼女自身が、そう書きました」


 その全部が、私です。


 青紐に刻まれた、彼女の言葉。それは、今も、変わらなかった。ただ、その「全部」に、研究者という一面が、加わっただけだった。


「彼女は、最後に、一つの言葉を残しました」


 俺は言った。


「アーカーシャ。そこに、全部あると。彼女が、なぜ失踪者なのか。この世界が、何なのか。門を、どう作るのか」


 リア殿下が、その言葉を、紙に書いた。


 アーカーシャ。


「これは、場所ですか」

「分かりません。場所か、記録か、あるいは、別の何か。ですが、そこへ行けば、是正の方法も、分かるかもしれません」


 八九日。是正猶予。正しい門を作ること。そして、アーカーシャ。


 断片が、少しずつ、繋がり始めている。まだ、遠い。だが、方向は、見え始めた。


「調べましょう」


 俺は言った。ミラさんが、すぐに言った。


「今日は、駄目です」

「はい。分かっています」

「あなたは、二日続けて、あの塔と、神と、対話しました。休息が必要です」

「はい」


 俺は、素直に頷いた。実際、体は限界に近かった。頭だけが、冴えている。この状態が、いちばん危ない。ミラさんの言う通りだ。


 だが、休む前に、一つだけ、確かめたいことがあった。


「マティアス司祭」

「はい」

「青紐を、もう一度、見せてもらえますか。展開はしません。ただ、確認したいことがあります」


 立会いの手順を踏んでから、俺は青紐を見た。名前の刺繍。水瀬葵。そして、その周りの、装飾に見えた線。


 昨日までは、青の道標の続きだと思っていた。だが、今日、研究者という視点で見ると、違って見えた。


 装飾に見えた線の一部が、数式のように見えた。地球の記号ではない。だが、規則性がある。座標。あるいは、指示。


「……これは、道標の続きではないかもしれません」


 俺は言った。


「アーカーシャへの、行き方かもしれません」


 リア殿下が、身を乗り出した。セシルさんに止められながら。


「読めますか」

「今は、まだ。ですが、彼女が研究者だと分かった今なら、いつか、読めるかもしれません」


 俺は、青紐を、そっと戻した。


 水瀬葵は、二百四十年前に、道標を残した。次の誰かへ。俺は今、それを受け取っている。彼女が帰れなかった理由。彼女が失踪者である理由。そして、正しい門を作る方法。


 全部、アーカーシャにある。彼女は、そう言った。


---

 研究記録 No.029

 対象:この世界の「神」の正体、および水瀬葵の来歴


 観察結果:

 監視小屋上空に、巨大な金色の瞳が出現。強い重力的圧力を伴う。ユーマの頭部へ直接、意志を伝達(他者不可聴)。「その先を口にするな」「知る必要はない」と、ユーマの発言を制止しようとした。

 私が「この世界を創ったのか、管理しているだけか」と問うたところ、神は答えず、沈黙した。創造主であれば否定すれば足りるが、否定せず沈黙したことは、間接的に「管理者」であることを示す可能性がある。

 同時に、別の女性の声が私に語りかけ、白衣の研究者の映像を伝達。その人物は水瀬葵と一致。地球の研究室と、環状の世界間装置、地球の数式・図が確認された。最後に「アーカーシャで会おう。そこに全部ある」と告げ、上位権限による記録封印で映像は遮断された。


 仮説:

 一、この世界の神々は、世界の創造主ではなく、転移管理局から運営を委任された「ローカル管理者」である可能性がある。

 二、水瀬葵は、地球で世界間移動を研究していた研究者であり、その過程でAR-13へ落ちた(=失踪者記録第七号)。召喚された勇者ではなく、自らこの領域に関わった者。

 三、研究者であったことは、召喚陣の欠陥の看破、名前鍵の情報封印、北の塔の傷の発見、青の道標の的確さと整合する。

 四、「帰りたかった」少女であることと、研究者であることは矛盾しない。


 新規手がかり:

 「アーカーシャ」。水瀬葵いわく、彼女が失踪者である理由、この世界の正体、門の作り方の全てがある場所または記録。

 青紐の装飾線の一部が、道標ではなくアーカーシャへの経路情報である可能性(現時点で未判読)。


 結論:

 八九日の是正条件(正しい門の完成)と、水瀬葵の遺した手がかり(アーカーシャ)が、同じ方向を指し始めている。神との対話では、挑発せず線を引くことで、無用な衝突を回避した。焦らず、手順を守り、アーカーシャの手がかりを追う。


 追記:

 神は「知る必要はない」と言った。

 だが、知らないまま滅ぶより、知って足掻く方を、私は選ぶ。

 それに、今の私は、一人ではない。


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