第30話 世界の外側から来るもの
翌朝、俺たちは契約の手順を、いつもより丁寧に踏んだ。
名前確認。全員、返答遅延なし。帰還条件の読み合わせ。中止権限の確認。観測者リア殿下の宣言。ロイさんが到着前の記録を取る。ミラさんが砂時計ではなく、日時計代わりの棒を地面に立てた。塔の前では時間感覚が狂う。だから、影の長さで滞在時間を測る。ミラさんの発案だった。
「塔内部の滞在は、この棒の影がここまで動くまでです」
ミラさんは地面に線を引いた。
「それを超えたら、内容に関係なく撤退します」
「はい」
俺は頷いた。異論はない。境界の薄い場所で、時間の感覚に頼るのは危険だ。外側の基準が要る。影は、世界がまだ手放していない数少ない基準だった。
塔の入口は、崩れた石の隙間だった。人ひとりが通れる幅。中は暗い。だが、奥から薄い青い光が漏れている。
ガルドさんが先に入り、安全を確認した。レグナ卿が結界の符を入口に貼る。俺、リア殿下、セシルさん、ミラさん、ロイさん、ドルガン、マティアス司祭の順で続く。青紐の箱は、マティアス司祭が胸に抱えている。
中は、思っていたより広かった。
円形の空間。天井は崩れ、上部が空へ開いている。壁は外と同じ、揺らぐ白い素材。床の中央に、大きな円環の跡があった。かつて何かが刻まれていた台座。今は摩耗して、模様がほとんど残っていない。
だが、それが何であるかは、すぐに分かった。
「……召喚陣に似ています」
俺は言った。
「ただし、王都のものより、はるかに大きい。そして、外周が違う」
リア殿下が円環の縁を見た。近づきすぎないよう、セシルさんに腕を支えられながら。
「外周に、返答路のような線があります」
「返答路?」
「はい。王都の召喚陣にはなかったものです。呼び声だけでなく、返す線を作ろうとした痕がある」
俺の心拍が上がった。
王都の召喚陣は、片側だけの線だった。呼ぶだけで、返さない。だから檻になった。だが、この塔の円環には、返す線がある。作ろうとした跡がある。
「……ここは、正しい門を作ろうとした場所だ」
俺は呟いた。
「片側の召喚陣ではなく、返答路のある門を。同意と、帰還と、観測を含む門を」
リア殿下が静かに頷いた。
「そして、失敗した」
「はい」
円環の中央に立つと、青い光が強くなった。俺は立ち止まった。ここから先は、契約で禁じられている。境界接触禁止。中央には立たない。
だが、その瞬間だった。
胸元のペンダントが、熱を持った。
今までとは違う。警告の冷たさではない。熱い。何かに、反応している。
「ユーマさん」
リア殿下がすぐに気づいた。
「ペンダントが光っています」
「はい。自覚あります」
「下がってください」
「はい」
俺は一歩下がった。だが、遅かった。
円環が、青く光り始めた。俺が触れたわけではない。中央に立ってすらいない。それでも、反応した。ペンダントと、円環が。まるで、同じ署名を持つ者同士が、呼び合うように。
「撤退します」
ミラさんが即座に言った。
「全員、入口へ」
その判断は正しかった。俺も従おうとした。だが、頭上から、音が降ってきた。
いや、音ではない。まだ音は届いていない。世界の応答が遅れている。数拍遅れて、鈍い響きが空間全体を満たした。
塔の上部。崩れて空へ開いていた部分。そこが、青く裂け始めていた。
「上だ」
ガルドさんが叫んだ。全員が動く。セシルさんがリア殿下を庇い、入口へ押す。レグナ卿が防御の術式を展開しようとして、それが数拍遅れて発動する。透明な壁ができるが、輪郭が揺れている。安定しない。
「魔力が、世界へ接続できん」
レグナ卿が呻いた。
俺は入口へ向かいながら、上を見た。裂け目が広がっている。青い空間。だが、その向こうに空はなかった。星も、雲もない。何もない。色という概念すら存在しない、完全な空白。
そして、その空白の中で、何かが動いた。
最初、それは光の点に見えた。小さく、青白い。
だが、近づくにつれて、形を持った。球体。直径二歩分ほど。表面はガラスのように透明で、内部の構造は理解できない。金属ではない。生物でもない。魔力反応もない。なのに、確かに存在している。この世界に属していない何かが、そこにあった。
球体は、裂け目からゆっくりと降りてきた。地面には触れない。浮いている。音もなく。魔力もなく。存在だけが、そこにある。
「……何だ、あれは」
ロイさんが、初めて動揺した声を出した。
レグナ卿は青ざめている。
「魔導院の、どの記録にもない」
マティアス司祭が、胸元で聖印を結んだ。
「神よ……」
その時、球体がこちらを向いた。目はない。顔もない。それでも、全員が理解した。今、見られた、と。
そして、俺の頭の中に、声が響いた。
声ではない。直接、流れ込んできた。そして、日本語だった。完全な、日本語。
《観測対象を確認》
俺は凍りついた。
《個体を識別》
《外部起源魂を確認》
《世界番号 AR-13 内に、未登録の外部起源魂を検出》
AR-13。世界番号。外部起源魂。俺のことか。
「ユーマさん」
リア殿下が俺の腕を掴んだ。彼女は入口の手前で立ち止まっている。撤退の途中で、俺が動いていないことに気づいたのだ。
「何が起きています」
「頭の中に、声が」
「声?」
「日本語です。この世界の言葉ではありません」
リア殿下の表情が変わった。彼女には聞こえていない。俺だけに届いている。
《照合を開始》
《対象データを検索》
《一致率、九八・七パーセント》
《識別完了。個体名、神崎悠真》
全身の血が止まった。
……なぜ。
なぜ、俺の日本名を知っている。この世界で、俺の本当の名を知る者は、限られている。リア殿下。ミラさん。契約書に署名した仲間たち。それだけだ。なのに、空から降ってきたこの球体は、それを知っている。しかも、照合という言葉を使って。まるで、どこかに俺の記録が、最初からあるかのように。
《記録を照合。転移管理局、失踪者記録と一致》
転移管理局。失踪者記録。
意味が、追いつかない。
その時、マティアス司祭が青紐の箱を取り落とした。緊張で手が滑ったのだろう。箱が開き、青い紐が床へ落ちた。
その瞬間、球体が反応した。
《追加照合》
《個体名、水瀬葵》
《登録を確認》
《転移管理局、失踪者記録、第七号》
俺は青紐を見た。球体を見た。頭の中で、言葉が繋がらない。
水瀬葵。失踪者記録。第七号。
……失踪者。
召喚された、ではない。転移した、でもない。失踪した、だ。
管理局から見れば、葵さんは、勇者として招かれた者ではない。どこかから、消えた者として記録されている。
「……ユーマさん」
リア殿下の声で、我に返った。彼女はまだ俺の腕を掴んでいる。だが、その手が震えていた。彼女には声は聞こえない。それでも、球体が青紐に反応したこと、俺の顔が変わったことは、見えている。
「撤退の途中です。動いてください」
「……はい」
俺は足を動かそうとした。だが、球体の声が、もう一度響いた。
《当該世界に、違法な転移の痕跡を多数検出》
《古代文明アストラによる、多元世界間接続規約への違反を確認》
規約。違反。多元世界間接続。
その言葉が、全部を繋げた。
この世界は、閉じた一つの異世界ではない。もっと大きな仕組みの、一部だ。世界は一つではなく、複数ある。それを管理する者がいる。世界と世界の間を移動するには、規約がある。そして、古代アストラ文明は、その規約を破っていた。
「……だから、滅んだのか」
俺は思わず呟いた。
その瞬間、球体が反応した。
《正答》
全員の顔色が変わった。俺の呟きは声に出ていた。日本語ではなく、この世界の言葉で。そして、球体はそれに答えた。俺の言葉を、理解している。
球体は、最後に告げた。
《世界番号 AR-13 を、封鎖対象に指定》
空気が、凍った。リア殿下が、震える声で言った。
「……封鎖……?」
声は聞こえていないはずだ。だが、俺の顔から、何か決定的なことが起きたと察したのだろう。
球体は続けた。
《理由。古代文明アストラによる、多元世界間の不正接続》
《世界法則の汚染率、四三パーセント》
《是正猶予期間、八九日》
《期間内に汚染源の是正が確認されない場合、当該世界を初期化する》
俺は、その最後の言葉を、頭の中で反芻した。
是正猶予期間。八九日。汚染源の是正。
初期化。
球体は、それだけ告げると、光を弱めた。まるで、通達を終えた機械のように。裂け目が、ゆっくりと閉じ始める。球体は、その裂け目へ、静かに戻っていった。
最後に、一言だけ。
《記録を残す。次の観測まで》
裂け目が閉じた。塔の上部は、また崩れた空へ戻った。青い光が消える。円環の光も、静かに引いていった。
世界の圧力が、消えた。
誰も、動けなかった。
最初に口を開いたのは、ミラさんだった。彼女は地面に立てた棒の影を見た。声が、少し震えていた。
「……影が、まだ、線に届いていません」
「はい」
「予定の滞在時間内です。撤退します。全員、入口へ」
その一言で、全員が動けた。ミラさんは、こんな時でも、契約を基準にした。時間内だから、撤退する。それ以上でも、それ以下でもない。取り乱さないための、基準。
俺たちは塔を出た。森を抜け、監視小屋へ戻る。誰も喋らなかった。俺の頭の中では、球体の声が、まだ反響していた。
八九日。初期化。是正。
監視小屋に戻ると、ミラさんは全員に水を配り、座らせた。それから、静かに言った。
「まず、名前確認をします」
こんな時に、と誰かが思ったかもしれない。だが、俺は分かった。今こそ必要だ。世界が終わると告げられた直後こそ、俺たちが、まだここにいることを、確認しなければならない。
「ユーマ・カンザキ」
「はい」
「神崎悠真」
「はい」
「リア・エルヴァルディア」
「はい」
一人ずつ、名前を呼ぶ。一人ずつ、返事をする。ロイさんが記録する。全員、ここにいる。遅延なし。
その手順が終わると、少しだけ、部屋の空気が戻った。
「……説明してくれ」
ガルドさんが言った。
「お前にだけ、何か聞こえてたな。何を言われた」
俺は、球体の言葉を、できるだけ正確に伝えた。世界番号。外部起源魂。転移管理局。失踪者記録。水瀬葵が第七号であること。古代アストラの規約違反。世界法則の汚染。そして、八九日という猶予。是正されなければ、世界が初期化されること。
話すうちに、部屋の空気が重くなっていった。
だが、俺は最後に、一つだけ、はっきりと言った。
「初期化まで、ではありません」
全員が俺を見た。
「是正猶予期間、と言いました。是正されなければ初期化する、と。つまり、条件があります。汚染源を是正すれば、初期化されない」
「汚染源」
レグナ卿が繰り返した。
「はい。古代アストラの不正接続。規約を破った、片側だけの世界間移動。勇者召喚陣。返答路のない門。帰還経路を閉じた術式。それらが、世界法則を汚染している」
俺は、円環の跡を思い出していた。返答路を作ろうとして、失敗した門。
「是正するというのは、たぶん、壊せということではありません。正すこと。片側だけの線を、両側の線にすること。呼ぶだけの召喚を、返す門にすること」
リア殿下が、静かに顔を上げた。
「……正しい門を、作ること」
「はい」
俺は頷いた。
「俺がずっと作ろうとしてきたものです。帰る道を奪わない門。魂をほどかない門。同意と、帰還と、観測を含む門。それが、たぶん、是正です」
部屋が、静かになった。
八九日は、外から降ってきた災厄ではなかった。少なくとも、それだけではなかった。俺がこの世界へ来てから、ずっと追いかけてきたもの。契約。観測者。帰還名。片側だけの線を、両側にすること。それが、そのまま、世界を救う手段になり得る。
「……ずいぶん、都合のいい解釈だな」
ガルドさんが言った。だが、その声は、責めてはいなかった。
「はい。都合のいい解釈です」
俺は認めた。
「本当にそうかは、まだ分かりません。八九日で本当に世界が消えるのかも、是正条件が本当に正しい門なのかも、確証はありません。ですが、確かめる価値はあります。少なくとも、何もせず終わるよりは」
ミラさんが、深く息を吐いた。
「まず、確認すべきことが多すぎます」
「はい」
「八九日という数字が本当か。汚染率とは何か。是正の条件は何か。今日の話だけでは、何も確定していません」
「その通りです」
俺は頷いた。ミラさんの言う通りだ。今日分かったのは、断片だけだ。世界が複数あること。管理する者がいること。アストラが規約を破ったこと。だが、その先は、まだ何も分からない。
「一つずつ、確かめます」
俺は言った。
「焦れば、塔で間違えます。今日、俺は円環に反応しかけました。ペンダントが呼ばれた。あそこで契約を破っていたら、どうなっていたか分かりません」
リア殿下が、こちらを見た。
「あなたは、動きませんでした」
「ミラさんが撤退を宣言したからです。あなたが腕を掴んだからです」
「……はい」
「一人だったら、たぶん、円環へ踏み込んでいました」
自分で言って、少し怖くなった。あの時、俺は確かに、円環に惹かれていた。ペンダントの熱に、呼ばれていた。もし観測者も、止め役も、契約もなかったら。俺は、水瀬葵と同じ場所へ、一人で踏み込んでいたかもしれない。
そして、彼女と同じように、通れずに、ほどけていたかもしれない。
「契約が、俺を止めました」
俺は言った。
「八九日で世界を是正するにしても、焦って契約を破れば、その前に俺が消えます。だから、これまで以上に、手順を守ります」
誰も、反論しなかった。
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研究記録 No.028
対象:北の塔内部の円環、および外部からの接触存在
観察結果:
塔内部中央に、大型の円環痕を確認。王都召喚陣に類似するが規模が大きく、外周に「返答路」と思われる線が存在する。王都召喚陣が持たなかった、返す側の線を作ろうとした痕跡。
ユーマのペンダントが円環に反応し発熱。円環が発光。塔上部の空間が裂け、外部から球体状の存在が出現。魔力反応・生命反応なし。ユーマの頭部へ直接、日本語の情報を伝達(他者には不可聴)。
伝達内容(要約):
一、この世界は「AR-13」という番号を持つ、多元世界の一つである。
二、管理主体として「転移管理局」が存在する。
三、水瀬葵は「失踪者記録・第七号」として登録されている(召喚ではなく失踪として管理)。
四、古代アストラ文明が多元世界間接続規約に違反した。
五、世界法則の汚染率四三パーセント。
六、是正猶予期間は八九日。期間内に汚染源が是正されなければ、世界を初期化する。
重要な解釈:
「是正されなければ初期化」であり、無条件の消滅通告ではない。汚染源=アストラの不正接続(片側だけの世界間移動、返答路・帰還経路を欠いた召喚術式)を是正すれば、初期化は回避される可能性がある。
是正とは破壊ではなく、片側の線を両側の線に変えること、すなわち「正しい門の完成」と推定される。これは私が構想してきた世界門の要件(同意・帰還・観測)と一致する。
未確定事項:
八九日の起点・厳密な定義。汚染率の意味。是正完了の判定主体と条件。管理局と、この世界の「神々」の関係。水瀬葵が「失踪者」とされる理由。
結論:
八九日は外部から与えられた期限だが、解除条件が存在する可能性が高い。是正の内容は、私の研究テーマと重なる。焦って契約を破れば、是正の前に通過者自身が失われる。手順を守ることが、これまで以上に重要になる。
追記:
円環に反応しかけた時、私を止めたのは契約と観測者だった。
水瀬葵には、それがなかった。
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その夜、俺は眠れなかった。
八九日。世界が終わるかもしれない。あるいは、俺たちの手で、終わらせずに済むかもしれない。
だが、それ以上に、頭から離れない言葉があった。
水瀬葵。失踪者記録、第七号。
召喚された、ではない。転移した、でもない。失踪した、だ。
管理局は、彼女を、消えた者として記録している。どこかに、彼女が消える前の場所がある。彼女が、失踪する前に、いた場所が。
彼女は、地球から召喚された勇者だと思っていた。だが、もしかすると、順序が逆かもしれない。彼女は、どこかで、世界の間に関わることをしていて、その結果、この世界へ落ちた。失踪した。
それは、ただの被害者ではない。
俺はペンダントに触れた。青い石は、今は静かだった。だが、塔では確かに、円環と呼び合った。同じ署名を持つ者のように。
管理者から渡された、存在の署名。
もし、葵さんも、同じようなものを持っていたなら。もし、彼女が、この世界の外側の仕組みを、俺よりずっと前から知っていたなら。
青の道標。名前を鍵とした情報封印。返答路のない召喚陣を見抜いた洞察。北の塔の境界の傷を見つけたこと。
全部、ただ帰りたかった少女には、少し過ぎている。
彼女は、帰りたかった。それは本当だ。お母さんに会いたかった。それも本当だ。だが、それと同時に、彼女は、この世界の外側を知る者だったのかもしれない。
俺は研究記録の最後に、一文を書いた。
――水瀬葵は、失踪者だった。ならば、彼女が消える前に、いた場所がある。
窓の外の青月は、また少し欠けていた。その光が、今夜は、いつもより遠く感じた。




