第32話 水瀬葵は、二百四十年前から待っていた
静寂だった。
北の塔。さっきまで空を覆っていた巨大な金色の瞳は消え、青い渦もほどけている。重力の圧も、もうない。
風が戻る。森が揺れる。鳥が鳴く。世界が、ようやく呼吸を再開した。
……だが、誰も動けなかった。いや、正確には違う。全員、理解が追いついていなかった。
八十九日の是正猶予。世界番号AR-13。転移管理局。古代アストラの規約違反。神は、創造主ではなく管理者かもしれない。そして水瀬葵は、地球で世界間移動を研究していた失踪者で、二百四十年前から記録を残していた——普通なら、頭が処理を諦める情報量だ。
完全に冴えていたのは、俺だけだった。
「……とんでもないな」
俺が呟くと、ミラさんが疲れた顔でこちらを見た。
「ユーマさん。少し、嬉しそうに見えます」
「否定はしません」
「世界が、あと八十九日で初期化されるかもしれないんですよ」
「そうですね。ですが、是正条件がある。無条件の消滅ではありません。……それに」
俺は北の塔を見上げた。
「二百四十年、誰にも解けなかった謎が、昨日から一気に繋がっている。怖い。でも、面白い。両方、本当です」
ミラさんは、小さく息を吐いた。呆れと、少しの安堵が混じった息だった。
ガルドさんが頭を抱えている。「……俺は、半分も飲み込めてねえ」
ドルガンも唸った。「儂もだ。世界に番号がある、というだけで、頭が痛い」
レグナ卿は座り込んでいた。「魔導院が積み上げた宇宙観が……根こそぎだ」
マティアス司祭に至っては、青紐の箱を抱えたまま、青ざめていた。「神が……創造主でないかもしれぬ、など……」
彼の世界は、昨日の空の瞳を見た時から、少しずつ崩れている。数十年信じ続けた信仰体系。その根が、揺れている。
だが、リア殿下だけは違った。彼女は、ずっと俺を見ていた。
「……ユーマさん」
「はい」
「昨日、あなたにだけ聞こえた声。水瀬葵さんの声です」
「はい」
「彼女は、最後に何と」
「アーカーシャで会おう、と。そこに全部ある、と」
リア殿下は頷いた。昨日、その言葉は既に共有していた。だが、彼女はもう一度、口に出して確かめたのだ。観測者として、記録を固めるように。
「アーカーシャ」彼女は繰り返した。「地下図書館の禁書庫。最深部に、一冊だけ、その名を記した本がありました」
「……何て書いてあったんです」
彼女は、慎重に答えた。「“世界の外側にある、記録の海”と」
記録の海。その言葉を聞いた瞬間、俺の中で、昨日からの断片が一本の線になった。
記録。世界番号。転移管理局。失踪者。多元世界。そして、門。
全部が、同じ方向を指している。
「……そうか」俺は立ち上がった。「少し、整理させてください」
全員が、こちらを見た。俺は、昨日までに分かったことを、ゆっくり並べた。
「この世界は、閉じた一つの異世界じゃない。多元世界のひとつで、AR-13という番号を持っている。管理する仕組みがある。転移管理局。そして、この世界の神は——たぶん、創造主じゃない。管理局から運営を任された、管理者だ」
「……はい」とリア殿下。ここまでは、昨日の話の確認だ。
「そのうえで、一つ、引っかかっていることがあります。水瀬葵さんです」
「……」
「彼女は、地球で世界間移動を研究していた。その途中で、このAR-13へ落ちた。だから管理局は、彼女を“召喚された者”ではなく、“失踪者・第七号”と記録している」
「……そうですね」
俺は、青紐を見つめた。
「聖教国は、彼女を聖女として召喚したと信じてきた。でも、順序が逆だった。彼女は呼ばれたんじゃない。自分の研究の果てに、ここへ落ちた。そして——帰れなくなった」
沈黙。全員が、その意味を噛みしめている。
「彼女は、帰りたかった。青の道標に、はっきり書いていた。お母さんに会いたい、と。研究者であることと、帰りたかったことは、矛盾しません。むしろ、世界の外側を知っていた人だからこそ、帰れないことの意味を、正確に理解していた」
リア殿下の声が、静かに落ちた。「……それでも、彼女は記録を残し続けた」
「はい。二百四十年間。次に、同じ場所へ来る誰かのために」
「……誰のために、ではなく」彼女は言い直した。「あなたのために、ですね」
俺は、すぐには答えられなかった。
その時だった。青紐が、光った。
全員が振り向く。マティアス司祭の腕の中、箱の隙間から、青い光が漏れている。司祭が、そっと箱を開けた。床ではなく、彼の膝の上で、青紐の中央に小さな光が浮かび始める。
青い、立体の像。ホログラムのようで、しかし魔法ではなかった。魔力反応がない。昨日の球体と同じ、この世界の技術ではないもの。
やがて、光が形を持つ。一人の女性。白衣。黒髪。二十代の後半。理知的な、強い目。
水瀬葵。今度は、全員に見えていた。
彼女は、少し疲れた顔で、それでも優しく微笑んだ。
「……やっと、ちゃんと起動した」
全員が、息を呑む。
「まず、これを見ている君へ」彼女の視線が、まっすぐ俺を捉えた。「神崎悠真くん。ここまで来てくれて、ありがとう」
「……俺の名を」俺は思わず言った。「昨日も、あなたは俺の名を知っていた。何故ですか」
彼女は、ふっと笑った。「同じ大学だからだよ。東京理科大学、理学部物理学科。私は、ずっと昔の卒業生。……君の書いた論文、こっちに来る前に読んだ。多元宇宙接続理論。荒削りだったけど、方向は、正しかった」
俺の思考が、一瞬止まった。
前世で。同じ大学で。先輩で。その人が、二百四十年前からこの世界にいて、俺の論文を知っていた。
偶然にしては、出来すぎている。いや——偶然じゃないのかもしれない。同じ問いに取り憑かれた人間は、同じ場所へ引き寄せられる。世界の外側という、同じ崖の縁へ。
映像の葵さんは、ふいに顔を引き締めた。
「時間がないから、要点だけ言うね。この世界が八十九日後に初期化されかけているのは、本当。でも、是正すれば止められる。そして、その是正の方法は、君がずっと作ろうとしてきたものと、同じ」
「……正しい門を、作ること」
「そう」彼女は頷いた。「片側だけの召喚じゃなく、返す道のある門を。同意と、帰還と、観測を含む門を。私は、それを一人で作ろうとして、失敗した。呼ばれてもいないのに踏み込んで、記録を残す相手も、名前を呼んでくれる人も、いなかった」
彼女の視線が、俺の隣へ——リア殿下へ、そして仲間たちへと、ゆっくり流れた。
「でも、君は違う。君には、それがいる。……よかった。本当に」
映像が、揺らぎ始めた。
「続きは、アーカーシャで。そこに全部ある。私が失踪者になった理由も、この世界の正体も、門の作り方も。……待ってるよ、後輩くん」
光が、細く、消えていく。
「神崎悠真くん。君は――」
最後の一言は、途切れて、届かなかった。青紐の光が、静かに消える。
静寂。誰も、喋れなかった。
俺だけが、胸の奥で、妙に静かな熱を感じていた。
私は一人で失敗した。でも、君は一人じゃない。
……それは、警告であり、贈り物でもあった。二百四十年前に一人で崖から落ちた人が、次に同じ崖へ来る後輩に残した、たった一つの助言。
「……ユーマさん」リア殿下が、そっと言った。「また、少し笑っています」
「はい」俺は認めた。「怖い話のはずなのに、すみません」
「いえ」彼女は、静かに首を振った。「あなたが笑うと、少しだけ、大丈夫な気がします」
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研究記録 No.030
対象:水瀬葵の来歴(続報)、および彼女の遺した映像記録
観察結果:
青紐より、水瀬葵本人の立体映像が起動(魔力反応なし。管理局の球体と同系統の非魔術技術と推定)。今回は全員に可視。
新規判明事項。一、水瀬葵は、私と同じ地球の大学(東京理科大学 理学部物理学科)の卒業生であり、私より前の世代。二、地球にいた頃から多元宇宙接続を研究しており、私の論文(多元宇宙接続理論)を、この世界へ落ちる前に読んでいた。三、彼女は召喚された聖女ではなく、自らの研究の果てにAR-13へ落ちた失踪者。四、彼女は「一人で門を作ろうとして失敗した」と明言。観測者・帰還名・記録を残す相手を欠いたことが、失敗の要因。
伝達要点:八十九日の初期化は是正可能。是正条件は「正しい門の完成」であり、私の研究テーマと一致。詳細は「アーカーシャ」にある。
解釈:
水瀬葵の失敗(単独行)と、私の現状(観測者リアと契約者たちの存在)は、鮮明に対比される。彼女が欠いたものを、私は既に持っている。これは偶然の幸運ではなく、これまで積み上げてきた契約手順の帰結である。
未確定事項:アーカーシャへの到達方法。青紐の装飾線(経路情報の可能性、未判読)。管理局と神々の権限関係。
結論:
水瀬葵は、二百四十年前の「私」だった。彼女の失敗は、私が繰り返してはならない道筋を、正確に照らしている。
追記:
彼女は最後に、何かを言いかけて、途切れた。
その続きを聞くために、アーカーシャへ行く理由が、また一つ増えた。
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