表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
27/39

第27話 名前を持つ調査団

 翌朝、ルーベル北門の前には、いつもより多くの人が集まっていた。行商人。冒険者。門番。ギルド職員。そして、北の塔調査団。


 俺は自分の鞄を背負い直した。中身は昨夜何度も確認した。紙束。炭筆。インク。観測板。魔石片。契約書写し。青月観測記録。水瀬葵の青紐記録写し。WORLD GATE完成設計書 初版。保存食。水袋。毛布。薬草。ガルドさんに減らされた魔石片のことは、まだ少しだけ惜しい。だが、そのぶん保存食が増えた。合理的ではある。


 北門の横で、ガルドさんが全員の荷物を確認していた。


「ユーマ」

「はい」

「紙が多い」

「必要です」

「昨日より増えてるぞ」

「夜に整理しました」

「増やすな」

「減らしますか?」

「今さら減らすと、お前が道中ずっと未練がましい顔をしそうだからいい」

「ありがとうございます」

「褒めてねえ」


 ガルドさんは俺の鞄を軽く叩いた。


「重くなったら言え。倒れる前に言え。倒れてから言うな」

「はい」

「研究中は自分の体力を見落とすからな、お前」

「否定できません」


 近くでは、ミラさんが調査許可証と旅程表を確認している。今日の予定は、ルーベルから北へ半日進み、旧街道沿いの宿場村ネーヴェで一泊。その後、森を抜け、二日目の夕方に北部塔群外縁の監視小屋へ到着予定。北の塔本体に入るのは三日目。青月がさらに欠ける時期に合わせた日程だ。


 無理をしない。夜間移動は避ける。青月下での境界接近は禁止。契約書にもそう書いた。つまり、かなり安全寄りの計画である。俺にしては。


「ユーマさん」


 ミラさんが言った。


「はい」

「今、かなり安全寄りの計画だと思いましたね」

「なぜ分かるのですか」

「顔です」

「そんなに分かりやすいですか」

「はい」


 ミラさんは旅程表を丸めた。


「安全寄りではありますが、安全ではありません。そこは忘れないでください」

「はい」


 少し離れた場所では、リア殿下がセシルさんに外套の留め具を直されていた。王女らしい華美な服ではない。旅装だ。淡い灰色の外套。動きやすい靴。腰には小さな護身用の短剣。背には記録用の革鞄。いつもの地下図書館の姫君ではなく、古代遺跡へ向かう読解者の姿だった。ただし、セシルさんの警戒はかなり強い。


「リア様、外套の紐は必ず結んでください」

「はい」

「歩く時は足元を見てください」

「はい」

「古い石碑を見つけても、突然走らないでください」

「……はい」

「今の間は何ですか」

「努力を」

「守ってください」

「守ります」


 俺は少しだけ視線をそらした。気持ちは分かる。古い石碑があれば、走りたくなる。だが、北の塔調査契約では単独行動禁止だ。守るべきだ。


 ドルガンは小型の木箱を背負っていた。中には青月補正魔灯、仮設観測具、予備の魔石板、簡易工具が入っているらしい。彼は朝から機嫌が悪そうに見えるが、たぶん平常運転だ。


「ドルガンさん、その箱は重くないですか」

「職人の道具箱じゃ。重いに決まっとる」

「持ちましょうか」

「触るな」

「はい」


 拒否が速い。


 レグナ卿は旅用の杖を持っていた。老魔導士だが、足取りはしっかりしている。ロイさんは軽装だが、書類用の防水筒を三本も持っている。監察官はどこへ行っても記録するらしい。マティアス司祭は、青紐の木箱を胸元に固定していた。白い法衣ではなく、旅用の簡素な司祭服。その表情は静かだった。だが、青紐の箱に触れる手つきだけは慎重だった。まるで、水瀬葵の言葉をこぼさないようにしているかのように。


 出発前、ミラさんが契約書の写しを取り出した。


「出発確認を行います」

「ここで?」


 ガルドさんが聞く。


「はい。契約に書いてありますから」

「真面目だな」

「真面目にやらないと、誰かが境界の傷に近づきます」


 ミラさんの視線が俺とリア殿下に向いた。俺は黙って頷いた。リア殿下も頷いた。反論はない。


 ミラさんは契約書を開き、参加者名を読み上げた。


「ユーマ・カンザキ」

「はい」

「神崎悠真」

「はい」


 二つの名前を呼ばれる。少し不思議な感覚があった。北門の前。この世界の空の下。日本語の名前を呼ばれる。俺は、ここにいる。


「リア・エルヴァルディア」

「はい」

「セシル」

「はい」

「ミラ」

「はい」


 ミラさんは自分の名前にも返事をした。


「ガルド」

「おう」

「ドルガン」

「いるわい」

「レグナ・フォルマー」

「はい」

「ロイ・アルヴァン」

「はい」

「マティアス・ローヴェン」

「はい」


 全員の名前が呼ばれた。ただの点呼だ。だが、今の俺にはそれ以上に感じられた。名前を呼ぶ。所在を確認する。旅の始まりに、全員がここにいると記録する。それは、北の塔へ向かうための最初の固定だった。


 ミラさんは最後に言った。


「北の塔調査団、全員確認。これよりルーベル北門を出発します。目的は調査。世界門起動ではありません。危険時は契約に基づき撤退します」

「はい」


 俺たちはそれぞれ返事をした。門番が北門を開く。木と鉄でできた大きな門が、低い音を立てて動いた。外には、北へ続く街道が伸びている。朝の光。薄い霧。遠くに見える森。さらにその先に、まだ見えない北の塔。


 俺は一歩を踏み出した。ルーベルの外へ。


 王城から逃げて森へ落ちた時とは違う。今回は、落ちたのではない。逃げたのでもない。契約を結び、名前を確認し、帰る条件を書いてから、自分の足で出る。それが、思った以上に大きな違いだった。


 街道は、思っていたより整っていた。石畳ではない。固く踏み固められた土の道だ。左右には低い草地が広がり、その向こうに林が見える。風は少し冷たい。北へ向かっているからか、ルーベル周辺より空気が乾いている気がした。


 俺は歩きながら、道端の草を観察した。葉の縁に微弱な魔力反応。朝露が青く光る。水属性というより、青月光を蓄えた微弱な夜間魔力かもしれない。


「ユーマ」


 ガルドさんが言った。


「はい」

「歩きながら道草を見るな。転ぶ」

「はい」


 俺は視線を前へ戻した。危ない。研究対象は足元にもあるが、転べば調査前に負傷する。非常に非効率だ。


 リア殿下も道端の草を見ていた。セシルさんがすぐに言う。


「リア様」

「はい。転びません」

「見るなら止まってからです」

「分かりました」


 俺とリア殿下は、ほぼ同時に少しだけ残念な顔をしたらしい。ミラさんがため息をついた。


「本当に似ていますね」

「そうでしょうか」

「はい」

「光栄です」


 リア殿下が言うと、セシルさんが複雑そうな顔をした。


「リア様、それは光栄でいいのでしょうか」

「ユーマさんは興味深い方です」

「その評価も少し危険です」


 ガルドさんが笑った。


 旅は、思ったより賑やかだった。ガルドさんは周囲を警戒しながら、時折俺に足場や荷重のかけ方を教えてくれた。ミラさんは旅程と休憩時間を管理している。セシルさんはリア殿下の様子を見ながら、さりげなく歩く位置を調整している。ドルガンは歩きながら魔灯の調整をして、ミラさんに怒られていた。


「歩きながら工具を出さないでください」

「手が空いとる」

「足元は空いていません」

「器用だから平気じゃ」

「駄目です」


 レグナ卿は、時折街道脇の古い石柱を確認していた。ロイさんは歩きながら記録を取るという器用なことをしている。マティアス司祭は、青紐の箱に手を添えながら静かに歩いていた。


 俺は、その全員の姿を見て思う。これは、ただの護送ではない。ただの調査でもない。それぞれが、それぞれの理由で北へ向かっている。


 俺は世界の外側を知りたい。リア殿下は記録を読み、観測するため。ミラさんは管理と安全のため。ガルドさんは護衛として、たぶん俺を放っておけないから。ドルガンは古代魔道具回路を見たいから。レグナ卿は魔導院の責任と、魔導士としての知りたい気持ち。ロイさんは監察官として。マティアス司祭は、水瀬葵の記録が向かう先を見届けるため。


 目的は完全には一致していない。だが、契約によって同じ旅の上に乗っている。契約は、関係性を定義する記録。その意味を、歩きながら少し実感した。


 昼前、最初の休憩を取った。街道脇の大きな木の下。ガルドさんが周囲を確認し、ミラさんが水分補給を指示する。


 俺は水を飲みながら、空を見上げた。昼の空には白月も青月も見えない。だが、青月は確実に欠け続けている。その変化は、夜だけではなく、世界の魔力層に影響しているのかもしれない。


 俺は観測板を取り出そうとした。


「休憩中です」


 ミラさんが言った。


「休憩しながら観測を」

「休憩中です」

「はい」


 俺は観測板を戻した。学習している。少しは。リア殿下も記録帳を出しかけ、セシルさんに見られてそっと戻した。俺と目が合った。何となく、二人で小さく頷いた。休憩は重要だ。たぶん。


 その時、ガルドさんが急に立ち上がった。


「静かに」


 空気が変わった。全員が動きを止める。ガルドさんは林の方を見ていた。俺も耳を澄ます。草が揺れる音。小さな足音。一つではない。複数。


「魔物ですか」


 俺が小声で聞くと、ガルドさんは頷いた。


「たぶん角兎。数は三か四」

「角兎」


 少し懐かしい。俺がこの世界で最初に殺されかけた魔物だ。初心者向け。ただし、俺にとっては当時かなり危険だった。今も油断すれば危険だ。


 林の影から、角のある兎が姿を見せた。三体。いや、奥にもう一体。合計四体。普通の角兎より、少し毛が青みがかっている。額の角にも、微弱な青い光。


「青月の影響?」


 俺は思わず呟いた。ガルドさんが低く言う。


「観察は後だ」

「はい」


 角兎たちは、こちらを警戒している。通常なら人の集団には近づかないはずだ。だが、妙に落ち着かない動きをしている。青月が欠ける時期、魔物が落ち着かなくなる。図書館資料にあった記述を思い出す。迷信ではなかった可能性。


 角兎の一体が飛び出した。速い。俺の反応は遅れた。だが、ガルドさんはすでに動いていた。剣の鞘で角兎の突進を弾き、地面へ叩き落とす。殺してはいない。動きを止めただけだ。続く二体目は、ガルドさんの足払いで転がった。三体目はセシルさんが短剣を抜く前に、レグナ卿が小さな魔力の壁で進路を逸らした。四体目は逃げた。いや、逃げかけて、急に戻ってきた。


 おかしい。普通の魔物の動きではない。


「待ってください」


 俺は言った。


「何かに追われている?」


 ガルドさんが林の奥を見る。奥から、低い唸り声が聞こえた。角兎たちは、こちらを襲っているというより、逃げ場を失っている。


 林の影が揺れる。現れたのは、狼型の魔物だった。ただし、普通の魔狼ではない。体毛の一部が青く光っている。目が少し濁っている。喉元の魔石反応が、脈打つように明滅している。


「魔狼か」


 ガルドさんの声が低くなる。


「一体なら問題ない。だが、様子がおかしい」

「青月による魔石過敏化?」


 俺は呟く。


「喉元の魔石が明滅しています。遠吠えや群れ連携の器官だと仮定すると、外部魔力場に乱されている可能性があります」

「つまり?」

「混乱しているかもしれません」

「危険ってことだな」

「はい」


 魔狼が唸った。ガルドさんが前に出る。ミラさんが俺とリア殿下を後ろへ下げた。セシルさんもリア殿下の前に立つ。レグナ卿が杖を構え、ロイさんは記録をやめて剣に手をかけた。マティアス司祭は青紐の箱を守るように抱えた。ドルガンは魔灯を取り出していた。


「ユーマ」


 ガルドさんが言った。


「観察はしていい。ただし前に出るな」

「はい」

「魔法も使うな」

「はい」

「本当に使うな」

「分かっています」


 魔狼が飛びかかる。速い。俺の目では追いきれない。だが、ガルドさんは剣を抜き、真正面から受け流した。レグナ卿の風のような魔力が、魔狼の足元を乱す。魔狼の体勢が崩れた瞬間、ガルドさんの剣の柄が喉元に入った。


 魔狼が地面を転がる。殺していない。だが、動きが止まらない。喉元の魔石が青く脈打つ。魔狼は苦しそうに首を振っている。


「魔石が暴走気味です」


 俺は言った。


「外部魔力を拾いすぎている。たぶん、群れ連携器官がノイズを受けている」

「止められるか」


 ガルドさんが聞く。


「殺せば止まります」

「それ以外は?」

「余剰魔力を逃がせれば」


 俺はドルガンを見る。ドルガンも同じことを考えていたらしい。


「青月補正魔灯の逃がし経路を使えるかもしれん」

「魔狼の魔石に直接接続するのは危険です」

「直接はやらん。近くに置いて、外部魔力を吸わせる」

「避雷針のように?」

「何じゃそれは」

「後で説明します」

「今説明するな」


 ドルガンは青月補正魔灯を地面に置いた。魔灯の余剰経路が、周囲の青い魔力を拾い始める。光が揺れる。魔狼の喉元の明滅が、ほんの少し弱まった。


「効いています」


 俺は言った。


「ただ、足りません」


 リア殿下が静かに魔狼を見た。


「魔力の揺れが、名前のない叫びのように見えます」

「名前のない?」

「はい。群れを呼ぼうとしているのに、届いていない」


 その表現で、俺は理解した。魔狼の喉元の魔石は、群れとの通信器官。青月の魔力場がその通信を乱している。群れへ届かない信号が、魔石内部で反響し、暴走している。情報魔法の初歩に近い。信号が出口を失っている。


「出口を作ればいい」


 俺は言った。


「魔力ではなく、信号の出口」

「どうやって?」


 ミラさんが聞く。


「低い音です。魔狼の遠吠えに近い音で、信号を外へ誘導できるかもしれません」

「誰がやる?」


 全員が一瞬黙った。ガルドさんが俺を見る。


「お前、遠吠えできるか?」

「できません」

「だろうな」


 レグナ卿が杖を構えた。


「音波魔法に近いものなら、簡易的に出せます」

「お願いします。ただし、攻撃ではなく、低周波の出口として」

「注文が細かいですな」

「すみません」

「だが、面白い」


 レグナ卿が短く詠唱する。空気が低く震えた。音というより、胸に響く振動。魔狼の耳が動く。喉元の魔石が一瞬強く光り、それから明滅が整い始めた。


 青月補正魔灯が余剰魔力を吸い、レグナ卿の低音魔法が信号の出口を作る。数秒後、魔狼は大きく息を吐き、その場に伏せた。まだ警戒している。だが、さっきのような暴走状態ではない。角兎たちは、いつの間にか林の奥へ逃げていた。


 ガルドさんが剣を下ろす。


「殺さずに済んだな」

「はい」


 ミラさんが俺を見る。


「ユーマさん、今のは魔法を使っていませんね」

「使っていません」

「前にも出ていません」

「はい」

「よし」


 なぜか少し褒められた。ガルドさんも笑う。


「今回はちゃんと後ろで考えてたな」

「成長しました」

「少しな」


 ドルガンは魔灯を拾い上げ、唸った。


「外部魔力吸いすぎじゃ。回路が焼けかけとる」

「ですが、機能しました」

「したな。改良が必要じゃ」

「北の塔で役立つかもしれません」

「だから改良する」


 レグナ卿は魔狼を見ていた。


「青月の影響が、すでに街道沿いの魔物に出ている。北へ行くほど強くなる可能性がありますな」

「はい」


 俺は記録帳を出した。ミラさんが言う。


「今は短く」

「はい」


 短く記録する。街道沿い魔狼。喉元魔石明滅。青月魔力場による情報器官ノイズの可能性。余剰魔力逃がし経路と低音振動により鎮静。殺傷せず対処可能。情報魔法と魔物生態の接点。


 リア殿下は、魔狼を見ながら言った。


「名前のない叫び、ではなく、届かない呼び声でした」

「その表現、重要です」

「記録します」


 水瀬葵の言葉が、また頭をよぎる。名前を呼ばれたのではない。役割を呼ばれた。魔狼の通信器官の乱れと、勇者召喚を同列に扱うべきではない。だが、情報が届かないこと。出口を失った信号。呼び声が対象に届かず、内部で反響すること。それは、どこか似ている。


 情報魔法。深層領域の一つ。今までは抽象的だったその言葉が、目の前の魔狼で少し現実味を持った。


 俺たちは、魔狼が立ち去るまで待った。魔狼はしばらくこちらを見ていた。そして、低く一度だけ鳴くと、林の奥へ消えていった。


 ガルドさんが息を吐いた。


「初日からこれか」

「貴重な観測でした」

「お前にとってはな」

「はい」


 ミラさんが旅程表を確認する。


「予定より少し遅れました。休憩を切り上げて進みます」

「記録は?」

「歩きながらは駄目です」

「はい」


 俺は記録帳を閉じた。北の塔へ着く前から、青月の影響は始まっている。魔灯。水魔法。俺の存在輪郭。そして、魔物の情報器官。世界は、すでに揺れ始めている。


 午後、俺たちは宿場村ネーヴェへ到着した。


 小さな村だった。木造の家が十数軒。馬小屋。井戸。簡易な柵。旅人向けの宿が一軒。北へ向かう商人や狩人が使う中継地らしい。村の入口には、青月避けの小さな飾りが吊るされていた。青い石と乾燥草を束ねたもの。


 ミラさんが宿の主人に挨拶をし、部屋を確保する。リア殿下は身分を隠すため、調査団の古代文字協力者という扱いになっている。もっとも、気品が隠しきれていないので、宿の主人はやや緊張していた。


 夕食は、根菜の煮込みと黒パンだった。俺は食べながら、昼の魔狼について考えていた。


 青月が欠けることで、魔物の魔石器官にノイズが入る。特に、情報伝達系の魔石は影響を受けやすい。水魔法の表面膜も不安定化した。俺の存在輪郭も揺れた。共通点は、境界だ。水球と空気の境界。魔狼と群れの情報境界。魂と世界の存在境界。青月は、境界を薄くする。葵さんの言葉は、やはり正しかった。


「ユーマさん」


 ミラさんが言った。


「はい」

「食事中です」

「はい」

「考えていますね」

「境界について」

「食後にしてください」

「はい」


 俺は煮込みを口へ運んだ。少し塩気が強い。だが、歩いた後なのでうまい。


 食後、宿の小さな広間で短い報告会を行った。長時間は禁止。ミラさんが砂時計を置いた。


「三十分です」

「短いですね」

「今日は移動日です。休息優先です」

「はい」


 俺は昼の魔狼について、簡潔に整理した。青月欠け期の外部魔力場が、魔石器官に影響を与える可能性。魔狼の喉元魔石は遠吠え、群れ連携、情報伝達器官と推定。青月補正魔灯による余剰魔力吸収と、レグナ卿の低音魔法による信号出口形成で鎮静。そして、リア殿下の表現。届かない呼び声。これが重要だった。


「届かない呼び声」


 マティアス司祭が呟いた。


「聖女アオイの召喚にも、似たものを感じます」

「呼ばれたけれど、返事をする場所がなかった」


 リア殿下が言う。


「はい」


 俺は頷く。


「勇者召喚陣は、呼ぶ側の信号だけが強すぎた。召喚対象の返答経路がなかった」

「だから同意欄がない」

「はい」

「そして帰還経路もない」

「はい」


 魔狼の魔石器官は、届かない呼び声で暴走した。勇者召喚陣は、返答できない呼び声で人を引き寄せた。別の現象だ。だが、構造的には学べるものがある。


 情報は、片方向だと危険になる。呼ぶなら、返事の経路が必要。接続するなら、戻る経路が必要。契約するなら、拒否の経路が必要。


 俺は紙に書いた。


 呼び声には、返答経路が必要。

 門には、帰還経路が必要。

 契約には、拒否経路が必要。


 リア殿下がそれを見て、静かに頷いた。


「対になる経路ですね」

「はい」

「古代アストラでは、片側だけの線を不完全線と呼ぶ記述があります」

「不完全線」

「はい。必ず反転路、返答路、解除路を持つべきだと」

「それは契約理論にも使えます」

「はい」


 ミラさんが砂時計を見た。


「残り五分です」

「重要なところですが」

「五分です」

「はい」


 俺たちは急いで要点だけ記録した。旅初日から、重要な知見が出た。北の塔に着く前にこれなら、塔では何が待っているのか。楽しみだ。いや、危険だ。両方だ。


---

 研究記録 No.025

 対象:北の塔調査初日、青月欠け期の魔物異常行動

 観察場所:ルーベル北方街道。

 対象:青みを帯びた角兎四体。魔狼一体。


 観察結果:

 角兎は通常より落ち着きなく、魔狼から逃げる形で調査団付近へ接近。魔狼は喉元魔石が青く明滅し、行動に混乱が見られた。以前の魔狼解体観察より、喉元魔石は遠吠え、群れ連携、情報伝達に関わる可能性あり。青月欠け期の外部魔力場により、魔狼の情報伝達器官がノイズを受け、届かない呼び声が内部反響していた可能性。


 対処:

 ドルガン製青月補正魔灯により、周囲の余剰魔力を吸収。レグナ卿の低音魔法により、遠吠えに近い振動経路を形成。結果、魔狼の喉元魔石の明滅が安定し、殺傷せず鎮静。


 仮説:

 青月セレの欠け始めは、物理的な光だけでなく、境界や情報伝達に関わる魔力場を揺らす。

 影響を受けやすいもの:

 一、水球表面のような物質境界。

 二、魔狼の群れ連携のような情報境界。

 三、異世界由来魂の存在輪郭のような存在境界。


 重要概念:

 届かない呼び声。返答経路のない呼び声は、対象または発信側を乱す。勇者召喚陣も、召喚対象の返答経路を持たない一方的呼び声であった可能性。


 結論:

 呼び声には返答経路が必要。門には帰還経路が必要。契約には拒否経路が必要。片側だけの線は危険。古代アストラ表現では、不完全線に近い可能性。


 追記:

 北の塔へ着く前から、世界は揺れ始めている。

---


 その夜、宿場村ネーヴェの小さな部屋で、俺は窓の外を見ていた。


 青月が見える。昨日よりも、また少し欠けている。その光は、ルーベルで見た時よりも鋭く感じた。北へ来たからなのか。単に気のせいなのか。それとも、北の塔に近づいているからなのか。分からない。だが、昼の魔狼の様子を思い出すと、ただの気のせいとは言い切れなかった。


 届かない呼び声。その言葉が、頭の中に残っている。


 水瀬葵は、王都の陣に呼ばれた。だが、返事をする場所がなかった。同意も、拒否も、帰還もない。それは、片側だけの線だ。不完全線。


 WORLD GATEは、そうであってはならない。呼ぶなら、返事を待つ。つなぐなら、戻れるようにする。契約するなら、拒否できるようにする。当たり前のことだ。だが、当たり前を魔法陣に刻まなければ、魔法は当たり前を無視する。


 俺はペンダントに触れた。青い石は静かだった。


 明日、さらに北へ進む。森を越えれば、北部塔群の外縁だ。水瀬葵が見た境界の傷。第七勇者が追ったかもしれない痕跡。古代アストラの禁忌。そこへ、俺たちは近づいている。


 俺は契約書の写しを開き、全員の名前をもう一度確認した。ユーマ・カンザキ。神崎悠真。リア・エルヴァルディア。セシル。ミラ。ガルド。ドルガン。レグナ・フォルマー。ロイ・アルヴァン。マティアス・ローヴェン。そして、別の紙に書かれた名前。水瀬葵。


 名前がある。呼ぶ人がいる。記録する人がいる。帰る条件も書いた。だから、進める。


 俺は研究記録の最後に、一文を書いた。


 ――片側だけの線を、門とは呼ばない。


 青月の光が、その文字を淡く照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ