表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/39

第26話 北の塔調査契約

 翌朝、王都から返書が届いた。封書は三つ。一つは王国魔導院。一つは王都監察局。一つは聖教国経由の正式照会。それらを持ってきたロイさんの顔は、いつも通り無表情だった。ただし、ペンを持つ指がいつもより少しだけ強く紙を押さえていた。つまり、面倒な内容なのだろう。


 ギルド二階の会議室には、いつもの面々が揃っていた。リア殿下。セシルさん。レグナ卿。ロイさん。ミラさん。ガルドさん。マティアス司祭。ドルガン。そして俺。


 机の中央には、昨日の青紐の記録が置かれている。水瀬葵。その名前が、もう見慣れない文字ではなくなっていることに気づいた。数日前まで、彼女はアオイ・ミナセという音だけの存在だった。聖女アオイ。第三勇者。帰れなかった人。だが今は違う。水瀬葵。彼女は名前を取り戻した。その名前が、俺たちを次の場所へ向かわせようとしている。


 ロイさんが封書を開いた。


「まず、王国魔導院からです」


 レグナ卿の表情が少し険しくなる。ロイさんは淡々と読み上げた。


「古代アストラ北部塔群に関する追加調査を、限定的に許可。ただし、調査目的は古代遺跡の現状確認、および勇者召喚陣との関連資料探索に限る」

「限定的」


 俺は繰り返した。


「はい」

「世界境界の観測は?」

「明記されていません」

「つまり、許可されていない?」

「明記されていないだけです」


 ロイさんは表情を変えずに言った。


「そこは解釈の余地があります」


 レグナ卿が小さく咳払いした。


「監察官が解釈の余地と言うのは珍しいですな」

「現場で必要な範囲の判断は認められています」

「なるほど」


 つまり、北の塔へ行く許可は出た。ただし、門を開くな、境界に触るな、と明言はされていない。だが、好きにしていいとも書かれていない。いつものことだが、政治的な文章は魔法陣より読みづらい。


 ロイさんは次の封書を開いた。


「王都監察局からです」


 紙を一枚めくる。


「ユーマ・カンザキを引き続き監察対象とする。北部塔群調査への同行は、監察官ロイ・アルヴァンの直接監視下に限り認める。無許可の転移、召喚、古代術式起動、世界境界接触、ならびに大規模魔力実験を禁ずる」


 ミラさんとセシルさんが同時に頷いた。


「妥当です」

「非常に妥当です」

「俺はそんなに信用がありませんか」


 俺が尋ねると、ガルドさんが笑った。


「あると思ってたのか?」

「少しは」

「少しだな」


 否定されなかっただけ良しとする。ロイさんは続けた。


「また、リア・エルヴァルディア殿下の同行については、王家内で意見が分かれているとのことです」


 会議室の空気が変わった。セシルさんがわずかに身を固くする。リア殿下は表情を変えなかった。


「意見が分かれている、とは」


 レグナ卿が尋ねる。


「第三王女殿下を危険な遺跡へ同行させるべきではない、という意見。一方で、古代アストラ文字読解者として同行が不可欠である、という意見です」

「王家としては?」

「正式決定は保留。ただし、現場責任者であるレグナ卿、および監察官である私の判断に委ねる、とあります」


 レグナ卿が目を閉じた。


「責任をこちらに投げましたな」

「はい」

「実に王都らしい」


 リア殿下は静かに口を開いた。


「私は同行します」


 セシルさんがすぐに言った。


「リア様」

「必要です」

「危険です」

「はい」

「分かっているのですね」

「分かっています」


 リア殿下は、机の上の青紐記録を見る。


「北の塔には、水瀬葵さんの記録があります。古代アストラ文字がある可能性も高い。そして、ユーマさんの存在輪郭が揺らぐ可能性があります」

「だからこそ危険なのです」

「だからこそ、私が必要です」


 会議室が静かになった。リア殿下の声は強くない。だが、動かない。彼女は王女としてではなく、読解者として、観測者としてそこに座っていた。


「私は、ユーマさんを通すために行くのではありません」


 リア殿下は続けた。


「通してはいけない時に、止めるためにも行きます」


 その言葉に、俺は少し驚いた。止めるため。そうか。リア殿下は、俺の探究をただ進める人ではない。俺が越えてはいけない境界へ踏み出そうとした時、名前を呼び、記録し、そして止める人でもある。観測者とは、そういう役割なのかもしれない。境界に立つ者。通過を見届ける者。同時に、危険な通過を止める者。


 俺はリア殿下に頭を下げた。


「ありがとうございます」

「まだ感謝される段階ではありません」

「でも、必要なことを言ってくれました」

「はい」


 セシルさんは、しばらくリア殿下を見ていた。そして、小さく息を吐いた。


「分かりました。同行されるなら、条件があります」

「はい」

「私も同行します」

「もちろんです」

「リア様は単独行動禁止」

「はい」

「古代文字の音読禁止」

「はい」

「遺跡内で壁に近づきすぎない」

「努力します」

「守ってください」

「守ります」

「ユーマさんと二人だけで行動しない」

「……はい」


 少し間があった。俺も頷いた。


「守ります」


 セシルさんは俺を見る。


「本当にお願いします」

「はい」


 信頼が少しずつ増えているとは思う。ただ、遺跡と古代文字と世界境界が絡むと、俺とリア殿下はたぶん止まらない。そこは自覚している。だから止め役が必要だ。


 ミラさんが静かに手を上げた。


「私も同行します」

「ミラさんも?」


 俺が聞くと、彼女は当然のように頷いた。


「ギルド管理対象者であるユーマさんが北部塔群へ向かう以上、ギルド側の立会人が必要です」

「なるほど」

「それに、誰かが食事と休憩時間を管理しないといけません」

「重要ですね」

「かなり重要です」


 ガルドさんが笑う。


「じゃあ俺も行く。護衛が必要だろ」

「ガルドさんは最初から行くと思っていました」

「俺もそう思ってた」


 ドルガンが鼻を鳴らした。


「儂も行くぞ」


 ミラさんが即座に言った。


「ドルガンさんまで?」

「北の塔が古代アストラの施設なら、魔道具回路が残っとる可能性がある。素人だけで触らせるわけにはいかん」

「誰が素人ですか」


 俺が尋ねると、ドルガンは俺を見た。


「お前じゃ」

「俺ですか」

「理論は変に鋭いが、道具の扱いは雑じゃ。勝手に分解する前に儂が止める」

「勝手には分解しません」

「信用ならん」


 否定しきれない過去がある。レグナ卿も重く頷いた。


「私も同行します。魔導院責任者として、そして古代術式の危険判断役として」


 ロイさんは言うまでもなく同行する。マティアス司祭は、少し迷った後に口を開いた。


「私も同行を希望します」

「司祭まで?」


 ガルドさんが眉を上げる。マティアス司祭は、机の上の青紐記録を見た。


「水瀬葵は、聖教国にとって聖女です。ですが、彼女自身は聖女だけで終わらせないでほしいと残した。なら、その記録が向かう先を、私も見届ける責任があります」


 その言葉は、昨日までの彼とは違っていた。彼は制度側の人間だ。聖教国の司祭だ。けれど今は、水瀬葵の言葉を聞いた一人の人間として、北の塔へ行こうとしている。


 ロイさんが記録する。


「北部塔群調査団、現時点の同行予定者。ユーマ・カンザキ、リア・エルヴァルディア殿下、セシル、ミラ、ガルド、ドルガン、レグナ卿、ロイ・アルヴァン、マティアス司祭」

「かなり多いですね」


 俺が言うと、ミラさんが答えた。


「あなたとリア殿下を安全に遺跡へ連れていくには、これくらい必要です」

「そこまでですか」

「そこまでです」


 全員が否定しなかった。少し悲しい。だが、合理的ではある。


 その後、ロイさんは三つ目の封書を開いた。聖教国からの照会だった。マティアス司祭の顔がわずかに硬くなる。


「内容は?」

「聖女アオイの遺品、青紐について、中央聖堂への移送を求める。ただし、現地調査に必要な場合は、司祭マティアスの責任において一時保管を認める」


 マティアス司祭は小さく息を吐いた。


「想定内です」

「中央に送るのですか」


 俺が尋ねると、彼は首を横に振った。


「今は送りません。北の塔調査に必要です」

「聖教国から問題にされませんか」

「されるでしょう」

「大丈夫ですか」

「大丈夫ではありません」


 また、最近よく聞く答えだった。


「ですが、青紐は聖遺物である前に、水瀬葵本人の個人記録です。本人の記録が向かうべき場所へ、一度は連れていくべきだと思います」


 連れていく。物に対する言い方ではない。けれど、誰も訂正しなかった。青紐はただの布ではない。水瀬葵が名前と言葉を残したものだ。北の塔へ向かうなら、彼女の記録も一緒にあるべきだ。


「では、青紐の扱いも契約に含めましょう」


 俺が言うと、リア殿下がすぐに頷いた。


「必要です」

「契約?」


 ガルドさんが言う。


「また始まったか」

「今回は非常に実務的です」


 俺は紙を取り出した。


「北の塔調査では、何をするか、何をしないかを明確にしておく必要があります」


 ミラさんが頷く。


「それは賛成です」

「特に、今回は世界境界、古代アストラ、青月、水瀬葵の記録が関わります。曖昧にすると危険です」

「では、調査契約ですね」


 リア殿下が言った。


「はい。北の塔調査契約」


 俺は表題を書いた。北の塔調査契約。目的。調査範囲。参加者。禁止事項。中止条件。帰還条件。記録保管先。青紐の扱い。観測者の権限。


 書くべき項目は多い。だが、多い方がいい。曖昧な契約は歪む。リア殿下が言った通りだ。今回はペンではない。北の塔だ。境界の傷があるかもしれない場所だ。曖昧なまま行けば、誰かが帰れなくなる。それだけは避けなければならない。


「まず目的」


 俺は言った。


「水瀬葵の青の道標および青紐記録に基づき、北部塔群に残る古代アストラ境界痕跡を調査する」

「世界門起動ではない」


 ミラさんがすぐに言った。


「はい。目的は調査であり、起動ではありません」

「明記してください」

「書きます」


 俺は書いた。本調査は、世界門、召喚陣、境界門の起動を目的としない。


 次に禁止事項。無許可の古代術式起動。魔力接触。音読。単独行動。青月下での境界接近。ペンダントを外すこと。青紐の無断展開。壁面刻印の無断転写。転移魔法の試行。


「壁面刻印の無断転写も禁止ですか」


 俺が少し残念そうに言うと、ミラさんが即答した。


「禁止です」

「見るだけなら?」

「見るだけなら、立会人つきです」

「記録は?」

「許可後です」

「分かりました」


 かなり厳しい。だが、北の塔に何があるか分からない以上、妥当ではある。


 中止条件も書いた。


 一、参加者の生命に危険が生じた場合。

 二、ユーマ・カンザキの存在輪郭に揺らぎが発生した場合。

 三、リア殿下、またはレグナ卿が古代術式起動の危険を認めた場合。

 四、ミラさん、セシルさん、ガルドさんのいずれかが撤退を宣言した場合。

 五、青紐に自律的な強い魔力反応が発生した場合。

 六、青月による境界揺らぎが予想を超えた場合。


 ミラさんが三番目と四番目を見て頷いた。


「止め役が複数いるのは良いです」


 ガルドさんが言う。


「俺も止める側か」

「はい」

「殴ってでも止めていいか?」

「できれば殴らないでください」

「場合によるな」


 場合によるらしい。


 その後、参加者名を書いた。ここで、俺は少し手を止めた。昨日の水瀬葵の言葉が頭に残っている。名前を呼ばれたのではない。役割を呼ばれた。北の塔調査契約に、役割だけを書くべきではない。名前を書くべきだ。本人の名前を。


「参加者は、役職名ではなく名前を主に書きます」


 俺が言うと、リア殿下が静かに頷いた。


「必要です」


 俺は書いた。


 ユーマ・カンザキ。神崎悠真。異世界転生者。調査解析担当。

 リア・エルヴァルディア。古代文字読解者。観測者。

 セシル。リア・エルヴァルディア護衛兼行動管理。

 ミラ。ルーベル冒険者ギルド職員。調査記録補佐兼安全管理。

 ガルド。冒険者。護衛。

 ドルガン。魔道具職人。魔道具・古代回路確認。

 レグナ・フォルマー。王国魔導院魔導士。古代術式危険判断。

 ロイ・アルヴァン。王都行政監察官。監察記録。

 マティアス・ローヴェン。聖教国司祭。水瀬葵記録管理。


 書き終えた時、紙の上に微弱な魔力が走った。ペン貸与契約の時よりは弱い。だが、確かに反応した。レグナ卿が目を細める。


「契約反応あり」


 ドルガンが仮設観測具を覗き込む。


「名前が多い分、線が複雑じゃな」

「危険ですか」

「今のところは違う。縛るというより、全員の位置を紙の上に置いた感じじゃ」

「参照点の集合」


 俺は呟いた。参加者全員の名前が、調査契約上に並ぶ。これは単なる名簿ではない。目的、権限、中止条件、帰還条件を持つ、調査団の参照点。北の塔へ向かう者たちの、最初の固定記録。


 リア殿下が静かに言った。


「旅の名前ですね」

「旅の名前?」

「はい。誰が、何のために、どこへ向かうのか。それを記録することで、旅そのものに輪郭ができます」


 旅そのものに輪郭。良い表現だ。俺はすぐにメモした。


「それも古代アストラの表現ですか」

「いえ、今思いました」

「とても良いと思います」

「ありがとうございます」


 セシルさんが二人を見て、小さくため息をついた。


「こういう時は本当に息が合いますね」


 ミラさんも頷いた。


「良いことなのか、心配なことなのか、判断に迷います」


 両方だと思う。


 契約文の最後に、帰還条件を書いた。


 本調査に参加する者は、調査終了後、原則として全員ルーベルへ帰還する。境界接触、転移、召喚、世界門起動、その他帰還不能の恐れがある行為を行わない。やむを得ず撤退する場合、参加者名を確認し、全員の所在を記録する。

 観測者リア・エルヴァルディアは、ユーマ・カンザキの存在輪郭に異常を認めた場合、調査中止を宣言できる。ユーマ・カンザキは、その宣言に従う。


 俺は最後の一文を書いた後、リア殿下を見た。


「この権限で問題ありませんか」

「はい」

「俺を止める権限です」

「必要です」

「分かりました」


 俺は署名した。ユーマ・カンザキ。その下に、日本語で神崎悠真。リア殿下も署名する。続いて、全員が署名した。ガルドさんは少し雑な字。ミラさんはきれいで実務的な字。ドルガンは力強い字。レグナ卿は古い書式。ロイさんは無駄のない字。マティアス司祭は聖教国式の優雅な署名。セシルさんは小さく整った字。


 全員の名前が並ぶ。その紙を見て、俺は少し不思議な気持ちになった。


 最初、俺は一人だった。王城から逃げ、森に落ち、角兎に殺されかけた。魔法もまともに使えない。文字も読めない。研究記録は安い紙束。鞄も普通。頼れるものは、ペンダントと好奇心だけだった。それが今、北の塔へ向かう契約書には、これだけの名前が並んでいる。俺一人ではない。


 水瀬葵には、名前を呼ぶ人がいなかった。記録する人がいなかった。だから、彼女は次の誰かへ残した。俺には、名前を呼ぶ人たちがいる。記録する人たちがいる。なら、その責任を忘れてはいけない。


「ユーマさん」


 リア殿下が言った。


「はい」

「北の塔では、あなたを勇者とは呼びません」

「はい」

「危険人物とも呼びません」

「それはありがたいです」

「神崎悠真。ユーマ・カンザキ。必要なら、両方の名を呼びます」


 胸の奥が、静かに揺れた。


「お願いします」

「はい」


 ガルドさんが少し照れたように頭を掻いた。


「俺はユーマでいいか?」

「はい」

「神崎悠真は発音しづれえ」

「ユーマで大丈夫です」


 ミラさんが微笑んだ。


「私は必要な時には、ユーマさんと呼びます」

「ありがとうございます」


 マティアス司祭は静かに言った。


「水瀬葵の名前も、北の塔で呼びましょう」

「はい」


 俺は頷いた。


「彼女が残した場所へ行くなら、聖女アオイではなく、水瀬葵として」


 マティアス司祭は深く頷いた。


「そのように」


 契約書は三部作られた。一部はルーベルギルドで封印保管。一部はロイさんが監察記録として保管。一部は俺とリア殿下の共同調査記録に綴じる。


 青紐は、マティアス司祭が管理する。ただし、展開時には俺、リア殿下、レグナ卿、ロイさんの立会いを必要とする。完全に厳重管理だ。それでいい。水瀬葵の記録は、もう誰か一人のものではない。消されないために。歪められないために。そして、北の塔へ届くために。


 出発準備は、思ったよりも現実的だった。


 ガルドさんは、保存食、ロープ、火打ち石、予備の水袋、毛布、短剣、薬草を確認した。


「研究だろうが遺跡だろうが、腹が減れば動けねえ。足をくじけば進めねえ。寒けりゃ死ぬ」

「非常に正しいです」

「分かってるなら荷物を軽くしろ」


 俺の鞄には、紙束、炭筆、インク、古式刻印写し、魔石片、観測板、契約書写し、青月観測記録、葵さんの翻訳写しが入っていた。ガルドさんは中身を見て、眉をひそめる。


「石が多い」

「魔石片は必要です」

「紙も多い」

「記録は必要です」

「飯より多い」

「それは問題ですか」

「問題だ」


 結果、保存食を増やされ、魔石片を二つ減らされた。少し悲しい。だが、餓死しては研究できない。


 ドルガンは、青月補正魔灯の試作品を二つ用意した。余剰魔力逃がし経路を強化し、外部魔力場の揺らぎを拾うと光が揺れる仕組みらしい。


「境界が近けりゃ、こいつが先に反応するかもしれん」

「ありがとうございます」

「壊すなよ」

「善処します」

「善処じゃなく守れ」

「守ります」


 ミラさんはギルドの調査許可証を準備した。セシルさんはリア殿下の衣類や薬、護身具、替えの靴まで揃えている。ロイさんは記録用紙を束で用意した。レグナ卿は古代術式遮断用の符を持ってきた。マティアス司祭は青紐の箱を布で包み、胸に抱えた。


 それぞれが、自分の役割で準備している。俺はその光景を見て、北の塔調査契約の意味を少し実感した。名前を書いただけではない。役割を書いただけでもない。それぞれの意思が、行動として準備になっている。契約は紙だけで完結しない。紙に書いたことを、現実の行動へ接続する必要がある。それも記録しておくべきだ。


---

 研究記録 No.024

 対象:北の塔調査契約および調査団編成


 観察結果:

 王都より北部塔群調査の限定許可が下りた。目的は古代アストラ北部塔群の現状確認、および勇者召喚陣との関連資料探索。世界門、召喚陣、境界門の起動は目的に含めない。


 調査団参加者:

 ユーマ・カンザキ/神崎悠真。

 リア・エルヴァルディア。

 セシル。

 ミラ。

 ガルド。

 ドルガン。

 レグナ・フォルマー。

 ロイ・アルヴァン。

 マティアス・ローヴェン。


 青紐は、マティアス司祭管理のもと同行。ただし、聖遺物としてではなく、水瀬葵本人の個人記録として扱う。


 北の塔調査契約の主要項目:

 一、調査目的の明確化。

 二、世界門起動を目的としないこと。

 三、古代術式音読、魔力接触、単独行動を禁ずること。

 四、参加者全員の名前と役割を記録すること。

 五、危険時中止条件。

 六、帰還条件。

 七、観測者リア殿下の調査中止宣言権。

 八、ユーマ・カンザキはその宣言に従うこと。


 仮説:

 旅にも輪郭がある。誰が、何のために、どこへ向かい、どの条件で戻るのかを記録することで、旅そのものが世界内に参照点を持つ。北の塔調査契約は、世界門契約の前段階として重要。


 結論:

 危険な場所へ向かうなら、目的だけでなく、戻る条件を先に書くべきである。


 追記:

 水瀬葵には、名前を呼ぶ人がいなかった。

 私には、名前を呼ぶ人たちがいる。

 それを忘れてはいけない。

---


 その夜、俺は安宿の机で荷物を確認していた。


 紙束。炭筆。インク。観測板。魔石片。契約書写し。青月観測記録。水瀬葵の青紐記録写し。WORLD GATE完成設計書 初版。どれも必要だ。ただし、ガルドさんに減らされた魔石片だけは少し惜しい。


 俺は鞄の底に契約書写しを入れた。北の塔調査契約。そこには、全員の名前がある。俺一人の研究ではない。もう、そうなっている。


 最初は、世界の外側を見たいだけだった。今も、それは変わらない。だが、俺が向かう道には、水瀬葵の名前がある。第七勇者の痕跡がある。リア殿下の観測がある。ガルドさんの護衛がある。ミラさんの管理がある。セシルさんの制止がある。レグナ卿の知識がある。ロイさんの記録がある。マティアス司祭の祈りがある。ドルガンの道具がある。


 名前が増えるほど、旅の輪郭ははっきりする。


 俺はペンダントに触れた。青い石は静かだった。窓の外には、欠けていく青月。水瀬葵さんが見た月。境界を薄くする月。北の塔へ俺たちを導く月。


 明日、俺たちはルーベルを出る。目指すのは、古代アストラ北部塔群。水瀬葵が見つけた、境界の傷。完全な門ではない。だが、門になり得るもの。


 俺は研究記録の最後に、一文を書いた。


 ――北へ向かう。だが、帰る条件はもう書いた。


 炭筆を置き、しばらく青月を見上げた。その光は静かだった。だが、今夜の静けさは、出発前の静けさだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ