表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/39

第28話 森は、返事をしない

 翌朝、宿場村ネーヴェは薄い霧に包まれていた。空気が冷たい。ルーベルの朝とは違う。鼻の奥に、少し金属のような匂いが残る。魔力の濃度が高いのか。それとも、青月の影響が強くなっているのか。


 俺は宿の前で観測板を取り出そうとして、ミラさんに見られた。


「ユーマさん」

「はい」

「朝食前です」

「空気中の魔力濃度だけ」

「朝食後です」

「はい」


 最近、ミラさんの制止は予測より速い。俺が何かを取り出す前に止められる。これは、一種の観測者能力かもしれない。いや、単に俺の行動が読まれているだけか。


 宿の食堂では、根菜粥と塩漬け肉が出た。俺は食べながら、昨夜の研究記録を思い返していた。


 片側だけの線を、門とは呼ばない。呼び声には返答経路が必要。門には帰還経路が必要。契約には拒否経路が必要。


 理屈としては整理できている。だが、北の塔に近づけば、その理屈がどれほど通用するか分からない。青月が欠けるほど、境界は薄くなる。水瀬葵が残した言葉。北の塔には、完全な門はありません。あるのは、境界の傷です。


 傷。門ではない。ならば、そこには返答路も帰還路もない可能性が高い。つまり、近づくだけで危険だ。


「ユーマさん」


 ミラさんが言った。


「はい」

「粥が止まっています」

「食べます」


 俺は粥を口へ運んだ。薄味だが温かい。温かいものを食べると、体が現実に戻る。研究が深層領域へ進むほど、こういう当たり前の身体感覚は重要になるのかもしれない。魂郭。存在輪郭。名前。記録。契約。どれも大事だ。だが、俺は腹が減れば動けない。ガルドさんの言う通りだ。


 朝食後、宿の前で出発確認を行った。ミラさんが契約書を開き、昨日と同じように名前を呼ぶ。


「ユーマ・カンザキ」

「はい」

「神崎悠真」

「はい」

「リア・エルヴァルディア」

「はい」

「セシル」

「はい」

「ミラ」

「はい」

「ガルド」

「おう」

「ドルガン」

「いる」

「レグナ・フォルマー」

「はい」

「ロイ・アルヴァン」

「はい」

「マティアス・ローヴェン」

「はい」


 全員確認。昨日と同じ点呼。だが、今日は昨日より意味が重い。北へ進むほど、名前を確認することそのものが安全手順になっている。


 ミラさんは契約書を閉じた。


「北の塔調査団、二日目出発。目的地は北部塔群外縁監視小屋。夜間の塔接近は禁止。全員、帰還条件を保持します」

「はい」


 全員が返事をした。宿場村の主人は、不思議そうに俺たちを見ていた。たぶん、旅立ち前にここまで厳格な点呼をする一行は珍しいのだろう。だが、これは必要だ。名前を呼ぶ。所在を確認する。帰る条件を思い出す。北の塔へ向かう旅は、ただの移動ではない。世界の境界に近づく行為だ。


 ネーヴェを出てしばらく進むと、街道は細くなった。道の左右には針葉樹に似た木々が増え、枝葉が空を覆い始める。森の中は薄暗い。朝なのに、夕方のような青さがある。


 青月は昼間には見えない。それでも、森全体が青月の記憶を残しているように感じた。葉の裏に微弱な光。木の根元に青い苔。霧の粒が、光を持っている。


 俺は観測板を出した。今度はミラさんに止められなかった。食後であり、歩行中ではなく、ガルドさんが休憩を宣言した後だったからだ。学習の成果である。


「空気中の魔力濃度が、ルーベル周辺より高いです」


 俺は観測板を見ながら言った。


「特に木の根元と霧に反応があります」


 リア殿下が森を見回した。


「この森は、境界に近い場所特有の記録残響を持っているかもしれません」

「記録残響?」

「古代アストラ資料に、場所が過去の魔力現象を薄く保持するという記述があります」

「場所の記憶ですか」

「近いです」


 俺はすぐにメモする。場所の記憶。記録残響。魔力現象が環境に残る。もし北の塔が長期間境界の傷を抱えていたなら、周囲の森にもその影響が染み込んでいる可能性がある。


 ドルガンが青月補正魔灯を取り出した。魔灯の光は、昨日よりも細かく揺れていた。


「外部魔力場が不安定じゃな」

「昨日の街道より強いですか」

「強い。だが、まだ危険域じゃない」


 レグナ卿も頷く。


「古代術式の自然起動反応はありません。ただし、森そのものが魔力を溜め込んでいます」


 ガルドさんが周囲を見た。


「つまり、魔物も出やすいってことだな」

「はい」

「分かりやすく言うと危ない森だ」

「はい」


 非常に分かりやすい。


 俺たちは隊列を整えて進んだ。先頭はガルドさん。その後ろにロイさん。中央にリア殿下、セシルさん、ミラさん、マティアス司祭。俺は中央少し後ろ。ドルガンとレグナ卿が後方。この配置は契約書に書かれている。俺とリア殿下が勝手に前へ出ないためだ。合理的だが、少しもどかしい。


 道中、奇妙な現象が増えた。


 まず、音が遅れた。ガルドさんが枝を踏んだ音が、少しだけ遅れて聞こえた。最初は気のせいかと思った。だが、三度続いた。


「今、音が遅れていませんか」


 俺が言うと、リア殿下も頷いた。


「聞こえました。足音が、動作より遅い」


 レグナ卿が杖を軽く振る。


「空間ではなく、情報伝達の遅延かもしれません」

「情報魔法領域?」

「可能性はあります」


 次に、影がずれた。木漏れ日の下で、俺の影がほんの一瞬、足元から離れて見えた。距離にして指一本分程度。すぐに戻った。


 ミラさんが青ざめる。


「存在輪郭の揺らぎですか?」


 リア殿下は俺を見て、首を横に振った。


「ユーマさん自身ではありません。影の方です」

「影の方」

「はい。光と影の境界がずれたように見えました」


 俺は紙に短く書く。光影境界の遅延。音響情報の遅延。境界の森。青月欠け期。情報と現象の同期ずれ。北の塔に近づくほど、世界の処理が遅れているような印象。


「世界の処理」


 リア殿下が俺のメモを見て呟く。


「はい。俺の世界の言い方です。現象が起きて、それが周囲へ伝わり、認識されるまでの流れに遅延があるように感じます」

「世界が、返事を遅らせている?」

「近いかもしれません」


 世界が返事を遅らせている。その表現は、妙にしっくりきた。呼び声。返答路。情報遅延。不完全線。この森では、何かが呼ばれても、返事が遅れる。あるいは、返事が返ってこない。


 それは危険だ。魔法において、応答の遅れは制御不全につながる。契約において、返事がないことは同意ではない。門において、返答路がないことは帰還不能につながる。


 俺は足を止めそうになった。ガルドさんが振り返る。


「止まるな。考えるなら歩幅を落とせ」

「はい」


 考えることと歩くことの両立は難しい。だが、今は歩く方が優先だ。


 昼過ぎ、俺たちは古い石橋に着いた。地図では、ここを越えると北部塔群外縁の森に入る。


 橋は小さかった。川というより、青く光る水の流れを渡すためのものだ。水は澄んでいる。ただし、流れの音が聞こえない。見た目には流れているのに、音がない。


 ガルドさんが手を上げた。


「止まれ」


 全員が足を止めた。ミラさんがすぐに契約書を確認する。


「異常地形。立会いなしの接近禁止」

「橋の上に古代文字があります」


 リア殿下が言った。橋の中央、苔に覆われた石板に、薄い刻印があった。かなり古い。アストラ文字だ。レグナ卿が顔をしかめる。


「自然起動の気配は薄い。だが、近づきすぎるな」

「読めますか」


 俺が尋ねると、リア殿下は慎重に距離を保ったまま見た。


「完全には。ですが、意味の断片は拾えます」

「お願いします」

「ただし、音読はしません」

「はい」


 リア殿下は少し目を細めた。


「これは……線、返す、片側、迷う、という意味があります」

「不完全線?」

「はい。おそらく」


 俺の心拍が上がる。この橋は、ただの橋ではない。もしかすると、北の塔へ向かう者へ向けた警告だ。リア殿下は続ける。


「片側だけの線は、森に迷う」

「森に迷う」

「いえ、森というより、戻り道を失う、かもしれません」


 戻り道を失う。水瀬葵の言葉。北の塔には完全な門はない。あるのは境界の傷。橋の刻印は、同じことを言っているのかもしれない。片側だけの線は、戻り道を失う。


「この橋を渡るのは危険ですか」


 ミラさんが尋ねる。レグナ卿は杖を橋へ向けた。


「橋そのものに転移反応はありません。ただ、水音がないのは異常です」


 ドルガンの魔灯が細かく揺れた。


「水の流れに音が吸われとる」

「音が吸われる?」

「分からん。だが、魔灯の揺れ方が昨日の魔狼と似とる。情報の出口がない感じじゃ」


 俺は川を見る。水は流れている。だが音がない。流れという現象はある。音という返答がない。これも片側だけの線だ。


「石を投げてもいいですか」


 俺が言うと、ミラさんがすぐに確認した。


「魔力を込めない普通の石ですね」

「はい」

「橋の刻印には当てない」

「はい」

「一つだけ」

「はい」


 許可が出た。俺は小石を拾い、川へ投げた。小石は水面に落ちた。波紋が広がる。だが、音がしない。水しぶきも見える。波も見える。なのに、音がない。


 数秒後。遠くから、小さく「ぽちゃん」と聞こえた。


 遅い。遅すぎる。


「音の返答が遅延しています」


 俺は言った。


「川が音を保持して、後から返している?」


 リア殿下が言う。


「はい。あるいは、音情報が通常の空間経路ではなく、別の経路を通って戻ってきている」


 ロイさんが記録する。


「北部外縁石橋。水音遅延。小石投入後、音発生まで数秒。視覚現象と聴覚情報の同期ずれ」


 マティアス司祭が静かに言った。


「祈りの返事が遅れる場所、という伝承があります」

「この辺りに?」

「北部の古い村では、青月の森で呼びかけても返事が遅れて戻ると言われます。だから、夜に名前を呼ぶな、と」

「名前を?」

「はい。返事が遅れて戻ると、誰の名を呼んだのか分からなくなる、と」


 リア殿下の顔が少し険しくなった。


「名前の遅延は危険です」

「はい」


 俺も同じことを考えていた。名前は存在を固定する杭。なら、その名前の呼び声が遅れたり、歪んだり、別のタイミングで戻ったりすれば、存在固定に影響が出る可能性がある。特に俺のような異世界由来の魂には危険だ。


「橋を渡る前に、名前確認を行いましょう」


 ミラさんが言った。


「賛成です」


 俺は即答した。


 橋の手前で、全員が一列に並んだ。ミラさんが契約書を開く。名前を呼ぶ。全員が返事をする。そして、今度はもう一つ手順を追加した。返事が返ったことを、ロイさんが記録する。呼び声。返答。記録。これで、少なくとも調査団内部に返答路を作る。


「ユーマ・カンザキ」

「はい」

「神崎悠真」

「はい」


 俺の返事は、遅れずに聞こえた。少し安心する。


「リア・エルヴァルディア」

「はい」

「セシル」

「はい」

「ミラ」

「はい」

「ガルド」

「おう」

「ドルガン」

「いる」

「レグナ・フォルマー」

「はい」

「ロイ・アルヴァン」

「はい」

「マティアス・ローヴェン」

「はい」


 全員、返答あり。ロイさんが記録する。


「名前確認完了。返答遅延なし」


 橋の向こうは、森がさらに濃くなっている。俺たちは慎重に橋を渡った。歩く音がしない。靴底が石を踏む感覚はある。だが、音がない。世界が息を止めているようだった。


 橋の中央を過ぎた時、突然、背後から声が聞こえた。


「ユーマ・カンザキ」


 俺は足を止めそうになった。声はミラさんのものだった。だが、ミラさんは今、前を見て歩いている。数秒前の点呼が、遅れて戻ってきたのだ。


 ガルドさんが低く言う。


「止まるな。渡りきれ」

「はい」


 続いて、声が戻ってくる。


「神崎悠真」


 俺の背筋が冷えた。自分の名前が、遅れて橋の上に響く。その瞬間、胸元のペンダントが冷たくなった。


 リア殿下がこちらを見る。


「ユーマさん、存在輪郭が少し揺れました」

「はい。自覚あります」

「私が呼び直します」

「お願いします」


 リア殿下は、橋の向こう側を見据えたまま、はっきりと言った。


「神崎悠真。ユーマ・カンザキ。現在、北部外縁石橋を通過中。帰還条件、保持。私、リア・エルヴァルディアが観測しています」


 胸元の冷たさが、少し和らいだ。ペンダントの周囲が静かになる。


 俺は歩く。止まらない。振り返らない。橋の上に残った遅れた名前へ、返事をしない。これは、重要だ。過去の呼び声に返事をしてはいけない。現在の観測者の声に従う。


 俺たちは橋を渡りきった。全員が向こう側に着いた瞬間、音が戻った。森のざわめき。水の流れ。靴音。息遣い。世界が再び動き出したようだった。


 ミラさんがすぐに点呼を行う。


「全員確認します。ユーマ・カンザキ」

「はい」

「神崎悠真」

「はい」

「リア・エルヴァルディア」

「はい」


 全員の名前を確認する。返答遅延なし。ロイさんが記録した。ガルドさんが深く息を吐く。


「嫌な橋だな」

「はい」


 俺は答えた。


「ですが、非常に重要な橋でした」

「そういうと思った」

「名前の遅延が存在輪郭へ影響しました」

「危ないってことだろ」

「はい」

「そこだけ覚えとけ」


 覚えておく。非常に危ない。そして非常に重要。片側だけの線。返答路のない呼び声。遅れて戻る名前。橋は、北の塔の縮小模型のようだった。おそらく、塔ではこれより強い現象が起きる。だからこそ、契約と観測者が必要なのだ。


 夕方前、俺たちは北部塔群外縁の監視小屋へ到着した。


 監視小屋といっても、半分は崩れかけていた。古い石造りの土台に、後から木材を足した建物。王国の旗が一応立っている。だが、布は古く、端が破れていた。常駐の兵士はいない。今はほとんど使われていない施設らしい。


 その理由は、遠くを見てすぐに分かった。


 森の向こう。夕暮れの青い影の中に、塔が見えた。細く、高い。上部は崩れている。だが、まだ立っている。


 北の塔。


 水瀬葵が見た場所。第七勇者が追ったかもしれない場所。古代アストラの境界の傷。完全な門ではない。だが、門になり得るもの。


 俺は、しばらく声を出せなかった。塔の周囲だけ、空の色が少し違って見えた。夕焼けでもない。青月の光でもない。薄く、世界の布が擦り切れているような色。


 リア殿下が隣に立った。


「見えますか」

「はい」

「塔の上の空が、少し裂けています」

「やはり」

「はい。まだ裂け目ではありません。けれど、普通の空ではありません」


 胸が高鳴る。同時に、怖さもある。あれが境界の傷。葵さんが見つけたもの。彼女が通れなかった場所。俺たちはそこへ、明日行く。ただし、通るためではない。調べるため。戻るための条件を保持したまま。


 ミラさんが静かに言った。


「今日はここまでです」

「はい」


 俺は素直に答えた。さすがに、今から塔へ行こうとは思わない。青月が昇る前に、監視小屋の安全確認、結界確認、休息、記録整理が必要だ。俺も成長している。たぶん。


 ガルドさんが監視小屋の周囲を確認する。ドルガンが魔灯を設置する。レグナ卿が簡易結界を張る。ミラさんとセシルさんが寝床と食事を整える。ロイさんが到着記録を書く。


 マティアス司祭は、青紐の箱を塔の方へ向けて静かに頭を下げた。


「水瀬葵」


 彼は小さく言った。


「あなたの道標の場所へ、来ました」


 その言葉は、祈りというより報告だった。俺も、塔を見たまま小さく呟いた。


「水瀬葵さん。来ました」


 風が吹いた。森がざわめく。返事はない。だが、それでいい。返事を勝手に作ってはいけない。記録を残すだけだ。


---

 研究記録 No.026

 対象:北部外縁の森および音響・名前遅延現象

 観察場所:ネーヴェ北方森。北部外縁石橋。北部塔群外縁監視小屋。


 観察結果:

 森全体に青月由来と思われる魔力残響あり。古代アストラ資料の「記録残響」「場所の記憶」に近い可能性。

 道中、音の遅延、影のずれ、光影境界の同期ずれを確認。

 北部外縁石橋では、水流の視覚現象と音響情報が同期していなかった。小石を投入後、視覚的波紋から数秒遅れて水音が発生。

 橋上では、点呼時の名前が遅れて反響。「ユーマ・カンザキ」「神崎悠真」の遅延呼び声により、私の存在輪郭が一時的に揺らいだ。リア殿下が現在時点の名前、位置、帰還条件、観測者宣言を行い、揺らぎは安定。


 重要知見:

 名前は存在固定に関わるため、遅延した名前、過去の呼び声、返答路を失った名の反響は危険。境界領域では、過去の呼び声に返事をしてはいけない。現在の観測者による記録が優先されるべき。


 仮説:

 北部外縁石橋は、北の塔の境界現象の縮小または漏出現象。視覚、音、名前、存在輪郭の同期ずれが発生する。塔本体では、より強い同期ずれ、名前遅延、存在輪郭の揺らぎが予想される。


 対策:

 一、塔接近前後の名前確認。

 二、現在位置の記録。

 三、帰還条件の読み合わせ。

 四、遅延した呼び声に返事をしない。

 五、リア殿下による現在時点の観測者宣言。


 結論:

 森は返事をしないのではない。遅れて返す。だから危険。返事が遅れた時、それが現在の返答なのか、過去の残響なのかを区別できなければ、名前は存在を固定する杭ではなく、迷わせる鎖になる。


 追記:

 北の塔を視認。塔上空に通常とは異なる境界色を確認。

 明日、塔へ向かう。目的は通過ではなく調査。帰る条件は保持する。

---


 夜、監視小屋の窓から北の塔が見えた。


 青月は、さらに欠けている。その光が塔の上部に触れるたび、空の色がわずかに揺れた。世界の布が、薄く擦れている。そんな表現が頭に浮かぶ。


 俺は契約書の写しを開き、全員の名前を確認した。次に、水瀬葵の名前を見る。最後に、自分の名前を書く。


 神崎悠真。ユーマ・カンザキ。


 今日は、橋の上で遅れて戻ってきた自分の名前に反応しかけた。あれは危険だった。過去の呼び声。遅れた名前。返答路のない声。それに返事をしていたら、どうなっていたのか。分からない。分からないから怖い。


 けれど、リア殿下の声は現在にあった。現在の俺を呼んだ。現在の位置を記録した。帰還条件を保持した。それで戻れた。観測者の役割が、少しずつ実感を持ってきている。


 俺は研究記録の最後に、一文を書いた。


 ――過去の名に返事をするな。現在の名を記録せよ。


 窓の外で、北の塔が青く沈黙している。返事はない。だが、明日、俺たちはその沈黙の中へ入る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ