第17話 帰れなかった勇者たち
翌朝、ギルド二階の会議室には、昨日よりも分厚い資料が置かれていた。羊皮紙の束。封蝋付きの写し。王国魔導院の印。聖教国の記録印。そして、赤い紐で綴じられた古い報告書。歴代勇者記録。その一部抜粋だった。
俺は資料の前に座り、しばらく手を伸ばせなかった。昨日までは、勇者召喚陣を術式として見ていた。魂固定。肉体構築。情報同期。境界補正。帰還不可。どれも重要だった。だが、今日は違う。この資料の中には、人がいる。かつて別の世界から呼ばれ、この世界で勇者と呼ばれた人間たちがいる。彼らは魔法陣の構造ではない。術式の結果として、この世界に連れてこられた者たちだ。
俺は息を整えた。対面には、リア殿下が座っている。その隣にセシルさん。レグナ卿は資料の横で腕を組み、ロイさんはいつものように記録用の紙を準備している。ミラさんとガルドさんも立会人として部屋にいた。昨日と同じ面々。ただ、空気は昨日より重い。
「まず前提を確認します」
レグナ卿が言った。
「本日閲覧を許可するのは、歴代勇者記録の抜粋です。原本は王都地下保管庫にあります。ここにあるものは写しであり、一部は黒塗りにされています」
「黒塗り」
「機密部分です」
「何が機密なのですか」
「召喚術式の詳細、聖教国の神託記録、王家との契約、勇者の最期に関する一部記述」
「最期もですか」
俺が尋ねると、レグナ卿は苦い顔をした。
「政治的に扱いが難しいものもあります」
「つまり、綺麗な英雄譚に合わない部分がある」
「……そうとも言えます」
会議室が静かになる。ミラさんが少しだけ目を伏せた。ガルドさんは腕を組んだまま、表情を険しくしている。リア殿下は資料を見つめていた。
「ユーマさん」
リア殿下が言った。
「はい」
「読む前に、一つ確認しておきたいです」
「何でしょう」
「あなたは、この記録を読んで王国を敵と見なしますか」
まっすぐな問いだった。俺は少し考えた。王国。勇者召喚。帰還不可。捕縛命令。管理。たしかに、警戒すべき要素は多い。だが、敵か。そう単純には言えない。
「現時点では、敵とは見なしません」
俺は答えた。
「ただし、勇者召喚制度はかなり危険なものとして見ます」
「制度と個人を分ける、ということですか」
「はい。王国にも、レグナ卿やミラさんのように問題を認識している人がいます。制度が危険だからといって、関係者全員を敵と見るのは雑です」
レグナ卿がわずかに目を細めた。リア殿下は小さく頷く。
「分かりました」
「リア殿下は?」
「私は、王国の王女です」
「はい」
「だから、王国の記録が間違っているなら、知る責任があります」
その言葉に、セシルさんが少しだけ表情を変えた。心配そうで、けれど少し誇らしそうでもあった。リア殿下は静かに続ける。
「知らないまま正しいと言うことは、記録を歪めることです」
「同感です」
俺は資料へ視線を落とした。
「では、読みましょう」
最初の記録は、五百年前の勇者だった。名前は、カイル・レオンハルト。出身世界の詳細は不明。王国記録では「剣の才に優れ、聖剣を与えられし初代勇者」と書かれている。魔王軍の侵攻を退け、王都を守った英雄。晩年は王国北部の領地を与えられ、貴族となり、この世界で没した。
「帰還についての記述は?」
俺が尋ねると、レグナ卿は首を横に振った。
「ありません」
「本人が帰りたいと言った記録は?」
「抜粋にはありません」
「原本には?」
「確認が必要です」
俺は紙にメモを取る。初代勇者。帰還記録なし。この世界で没。本人意思不明。
次の記録。三百八十年前。勇者セリア・ノーウェル。女性。大規模な魔物災害を鎮めた治癒魔法の使い手。聖女勇者とも呼ばれた。記録には、彼女が多くの村を救ったこと、聖教国に深く信仰されたことが記されている。だが、晩年の項目には不自然な空白があった。
「ここは?」
俺が指差すと、レグナ卿は苦い顔をする。
「黒塗り部分です」
「死因ですか」
「おそらく」
「おそらく?」
「抜粋では判別できません。原本を見なければ」
ロイさんが淡々と記録する。
「歴代勇者記録、第二例。晩年に黒塗りあり。死因または処遇に関係する可能性」
リア殿下は黙って資料を見ていた。指先が本の表紙を叩いていない。昨日のような興奮ではない。今は、別の集中だった。記録を読む者の顔。誰かの人生の終わりを、軽く扱わない顔だった。
三人目。そこで、部屋の空気が変わった。記録の表題にはこうあった。
異界勇者、アオイ・ミナセ。
俺は手を止めた。
「アオイ・ミナセ」
声に出した瞬間、胸の奥が冷えた。日本語の名前だ。水瀬葵。あるいは、葵水瀬。表記は分からない。だが、明らかに日本人名に近い。
「ユーマさん」
ミラさんが気づいた。
「知っている名前ですか?」
「本人は知りません。ただ、俺の世界の名前に近いです」
会議室が静まった。リア殿下の視線もこちらへ向く。
「あなたと同じ世界の人、ということですか」
「可能性があります」
俺は資料を読む。といっても、王国文字はまだ完全には読めない。ミラさんとリア殿下が補助してくれた。
アオイ・ミナセ。約二百四十年前に召喚。魔法適性は水と光。剣才は低い。戦闘能力は当初低かったが、治癒と結界に高い適性を示した。魔王領との局地戦ではなく、大規模疫病と魔物化病の対処に尽力。多くの村を救った。聖教国から聖女認定を受ける。王国記録では、慈悲深き異界の聖女と称される。
だが、その下に、別紙が挟まれていた。古い紙。王国文字ではない。見た瞬間、俺は息を止めた。
日本語だった。
古い。崩れている。紙も劣化している。だが、読める。間違いない。日本語だ。
「ユーマさん?」
リア殿下の声が少し遠く聞こえた。俺はその紙を見つめる。手が震えそうになる。そこには、短い文章が書かれていた。
私は帰れない。
この召喚は、片道だ。
神官たちは「使命」と言った。
王は「名誉」と言った。
村の人たちは「ありがとう」と泣いた。
でも、私は帰りたかった。
お母さんに会いたかった。
読み終えた瞬間、部屋の音が消えた。目の奥が熱くなる。怒り。今度は、はっきりと怒りだった。
俺は地球で死んだ。だからまだいい。でも、この人は違う。お母さんに会いたかった。その一文だけで十分だった。彼女には帰る場所があった。帰りたい相手がいた。それでも帰れなかった。勇者として讃えられ、聖女と呼ばれ、多くの人を救った。それは尊いことだったのかもしれない。だが、その裏で、彼女は帰りたかった。
「何と書いてあるのですか」
リア殿下の声は静かだった。俺はすぐには答えられなかった。言葉にすると、何かが壊れそうだった。けれど、記録は読まなければ意味がない。残された言葉を、誰も読まないままにしてはいけない。俺は深く息を吸い、翻訳した。
「私は帰れない。この召喚は片道だ。神官たちは使命と言った。王は名誉と言った。村の人たちはありがとうと泣いた。でも、私は帰りたかった。お母さんに会いたかった」
誰も話さなかった。セシルさんが口元を押さえている。ミラさんは目を伏せていた。ガルドさんは拳を握っている。ロイさんのペンが止まっていた。レグナ卿は、顔色を失っていた。リア殿下は、紙を見つめたまま動かなかった。
「……これは」
レグナ卿がかすれた声で言った。
「原本にはなかった。少なくとも、私が見た写しには」
「抜かれていたのですか」
俺の声は、自分でも驚くほど低かった。
「分かりません。隠されていたのか、単に読めない文字として別紙扱いされたのか」
「でも、残っていた」
リア殿下が言った。
「はい」
俺は紙を見つめる。アオイ・ミナセ。彼女は、おそらく自分の世界の文字で書いた。誰にも読めないと知っていたかもしれない。それでも書いた。帰りたかった、と。お母さんに会いたかった、と。
それは、記録だった。誰かに届くか分からない記録。だが、二百四十年後、俺は読んだ。同じかもしれない世界から来た俺が。
「リア殿下」
「はい」
「これが、記録です」
俺は紙から目を離さずに言った。
「誰にも読まれなくても、残す意味はある。二百年以上経っても、届くことがある」
リア殿下は静かに頷いた。
「はい」
「この人の言葉は、英雄譚には残っていない」
「はい」
「でも、ここにあります」
「はい」
リア殿下の声も、少しだけ震えていた。
「記録は、誰かを飾るためだけのものではありません」
「はい」
「誰かが、確かにそう感じたことを残すためのものです」
俺は頷いた。今まで、研究記録は自分のためだった。観察し、仮説を立て、結論を書く。でも、それだけではない。記録は、声を残す。消されそうなものを、未来へ渡す。アオイ・ミナセは、帰れなかった。でも、彼女が帰りたかったことは、今ここに残っている。その事実は重い。
「この記録は、王国にとって都合が悪いですね」
ロイさんが静かに言った。
「報告しますか」
俺が尋ねると、彼は少しだけ間を置いた。
「します。しなければ、私は監察官ではありません」
「その場合、この紙は没収されますか」
「可能性はあります」
「なら、写しを取ります」
「許可が必要です」
「誰の?」
俺の声が少し強くなった。ロイさんは表情を変えない。
「王国記録物です」
「これはアオイ・ミナセ本人の記録です」
「現在の保管権限は王国にあります」
「本人の意思は?」
部屋が静まる。
「彼女は、この文字が読まれることを望んでいたと思いますか」
ロイさんは答えなかった。俺は続けた。
「俺は写しを取ります。これは研究のためだけではありません。同じ世界から来たかもしれない人間として、この記録をなかったことにしたくない」
ミラさんが少し心配そうに俺を見る。ガルドさんは何も言わない。リア殿下が静かに口を開いた。
「私も写しを取ります」
「リア様」
セシルさんが小さく言う。
「これは古代文字ではありません」
「はい」
「でも、記録です」
リア殿下はまっすぐロイさんを見た。
「王国のためにも、これは隠してはいけません」
ロイさんはしばらく黙った。そして、深く息を吐いた。
「写しを一部作成。王都報告には、異界文字による個人記録を発見、と記載します。ただし、原紙は王国資料として保管継続」
「十分ではありませんが、今はそれで」
俺は答えた。怒りはまだある。だが、ここでロイさんに怒りをぶつけても意味はない。制度と個人を分ける。朝、自分で言ったことだ。ロイさんは制度側の人間だが、隠す人間ではない。少なくとも今は。
俺はアオイ・ミナセの文章を慎重に写した。一文字ずつ。間違えないように。書きながら、胸の奥が重くなる。私は帰れない。この召喚は、片道だ。お母さんに会いたかった。短い文章。だが、そこに一人の人生があった。
リア殿下は、俺が書く日本語の形を見つめていた。昨日なら、文字構造に興味を示しただろう。だが今は違う。彼女は、文字の向こうにいる人を見ていた。
「ユーマさん」
「はい」
「アオイ・ミナセの名前は、日本語ではどう書くのですか」
「分かりません。音だけでは複数の可能性があります」
「そうですか」
「ただ、候補は書けます」
俺は紙の端に、いくつかの可能性を書いた。水瀬葵。水瀬碧。南瀬葵。正確には分からない。けれど、アオイという音には、青や葵という文字が使われることが多い。
「青」
リア殿下がその一文字を見る。
「この文字は?」
「青色の青です」
「青い勇者」
「かもしれません」
リア殿下は、小さく呟いた。
「青い記録ですね」
その言い方に、俺はしばらく何も言えなかった。青い記録。帰れなかった勇者の、小さな記録。
会議は一度中断された。時間管理のためではない。全員が、少し休む必要があった。
俺は会議室を出て、ギルド裏の小さな空き地へ向かった。外の空気を吸いたかった。ガルドさんが黙ってついてきた。しばらく二人で、何も言わずに立っていた。
「ユーマ」
ガルドさんが言った。
「はい」
「怒ってるな」
「はい」
「珍しいな」
「そうですね」
「魔法が暴発した時より、王都に捕まりそうになった時より、怒ってる」
「はい」
俺は空を見る。昼の空。二つの月は見えない。ただ、青い空だけがある。
「俺は、勇者になりたくありませんでした」
「ああ」
「でも、勇者そのものを馬鹿にしていたわけではないんです」
「分かってる」
「多分、過去の勇者たちは誰かを助けた。村を救った。魔物を倒した。多くの人に感謝された。それは事実だと思います」
「ああ」
「でも、それと帰れなかったことは別です」
「そうだな」
「感謝されていたからいい、英雄になったからいい、名誉を得たからいい。そういう話ではない」
ガルドさんは黙って聞いていた。
「帰りたかったなら、帰りたかったんです」
「ああ」
「その言葉を、英雄譚で塗り潰すのは違う」
自分でも、驚くほど感情が動いていた。アオイ・ミナセ。会ったこともない。二百年以上前の人間。でも、俺は彼女の文字を読めた。読めてしまった。だから、無関係ではいられない。
「お前が記録しろ」
ガルドさんが言った。
「え?」
「その人の言葉。お前が読めるんだろ」
「はい」
「なら、お前が記録しろ。誰かが消しても、もう一回残せ」
俺はガルドさんを見た。彼はいつものように雑に頭を掻いた。
「俺は難しいことは分からん。世界がどうとか、魂がどうとかもな。でも、帰りたいって言葉くらいは分かる」
「……はい」
「それは消したら駄目だ」
胸の奥が少しだけ軽くなった。ガルドさんは学者ではない。魔導士でもない。古代文字も読めない。だが、時々とても重要なことを簡単に言う。
「ありがとうございます」
「礼はいい。昼飯食えよ。怒ってる時ほど食っとけ」
「研究と関係ありますか」
「ある。腹が減ると判断が雑になる」
「なるほど」
実用的だ。俺は頷いた。
会議室に戻ると、リア殿下がアオイ・ミナセの記録を見つめていた。セシルさんが横にいる。レグナ卿は一人で重い表情をしていた。彼もまた、王国魔導院の人間として思うところがあるのだろう。
午後の会議では、残りの勇者記録を確認した。
四人目。戦闘に優れた勇者。魔王軍幹部を討伐。王国騎士団と共に戦う。戦死。帰還記録なし。
五人目。結界修復に関与。魔力枯渇による衰弱死。帰還記録なし。
六人目。聖教国の記録では「神に召された」とある。王国側資料では黒塗りが多い。詳細不明。
七人目。百年前の勇者。魔王との大規模戦争を終結させたとされる。その後、王都から姿を消す。死亡記録なし。帰還記録なし。行方不明。
「行方不明」
俺はその項目で手を止めた。
「はい」
レグナ卿が答える。
「王国記録では、魔王との戦いで傷を負い、療養後に姿を消したとされています」
「逃げた可能性は?」
「あります」
「帰還を探した可能性は?」
「それもあります」
七人目。百年前。行方不明。これは重要だ。もし彼が帰還方法を探していたなら、何か記録が残っているかもしれない。あるいは、古代アストラ文明の痕跡に辿り着いた可能性もある。
リア殿下も同じことを考えていたようだった。
「この勇者の関連資料を見たいです」
「殿下」
レグナ卿が言う。
「今度は俺も見たいです」
「あなたは当然そう言うでしょうな」
「はい」
ロイさんが記録する。
「第七勇者の行方不明記録に、両名強い関心。追加資料要求」
レグナ卿は疲れたように目を閉じた。
「……王都に戻ったら、申請します」
「ありがとうございます」
「ただし、すぐには出せません。機密度が高い」
「なぜですか」
「第七勇者は、魔王と直接対話したという記録があります」
部屋が静まった。
「魔王と対話」
「はい。戦っただけではない。対話した。そして、その後、戦争は終結した」
「魔王は悪ではない可能性がある」
俺が呟くと、レグナ卿はすぐには否定しなかった。
「少なくとも、対話可能な相手である可能性はあります」
「では、なおさら魔王討伐を即断しなくてよかった」
俺が言うと、部屋の空気が少しだけ重くなった。王国側の人間にとっては、聞き流しづらい言葉だろう。だが、レグナ卿は静かに頷いた。
「あなたの拒否は、政治的には問題でした。ですが、研究者として見れば、判断保留は妥当だったのかもしれません」
「ありがとうございます」
「褒めてはいません」
「そうですか」
どこかで聞いたやり取りだ。少しだけ空気が緩んだ。しかし、アオイ・ミナセの記録の重さは残っている。
会議の最後、リア殿下が言った。
「ユーマさん」
「はい」
「アオイ・ミナセの記録を、あなたの研究記録に残しますか」
「はい」
「私も残します」
「王国記録として?」
「いいえ」
リア殿下は少しだけ首を横に振った。
「私個人の記録として」
「リア殿下個人の」
「はい。王国の記録は、時に人を役割で残します。勇者、聖女、英雄、反逆者、行方不明者」
彼女は紙の上に手を置く。
「でも、私は名前と言葉を残したい」
その言葉で、俺はリア殿下を見る。名前と言葉。それは、今日の記録にふさわしい表現だった。
「なら、俺もそうします」
「はい」
「アオイ・ミナセ。帰りたかった勇者」
「聖女でも、英雄でもなく」
「一人の人間として」
リア殿下は静かに頷いた。
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研究記録 No.015
対象:歴代勇者記録およびアオイ・ミナセの個人記録
観察結果:
過去五百年で記録上の完全召喚は七回。全員、帰還記録なし。一部勇者はこの世界で没。一部は戦死、衰弱死、行方不明。
第三勇者アオイ・ミナセの記録に、日本語と思われる個人文書を発見。
内容:
「私は帰れない。
この召喚は、片道だ。
神官たちは『使命』と言った。
王は『名誉』と言った。
村の人たちは『ありがとう』と泣いた。
でも、私は帰りたかった。
お母さんに会いたかった。」
仮説:
アオイ・ミナセは地球、もしくは地球に近い文化圏の世界から召喚された可能性が高い。彼女はこの世界で聖女勇者として記録されているが、本人の記録には帰還不能への苦痛が明確に残されている。勇者召喚制度は、召喚された者の人生と帰還意思を軽視していた可能性がある。
結論:
勇者召喚陣の問題は術式の危険性だけではない。召喚された者の意思、帰還権、記録の歪みを含む制度全体の問題である。
追記:
記録は、英雄を飾るためだけのものではない。名前と言葉を残すためのものでもある。
アオイ・ミナセ。帰りたかった勇者。
この記録は消さない。
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夜。俺は安宿の机に向かい、アオイ・ミナセの文章をもう一度書き写した。日本語で。その下に、王国文字で翻訳を書く。まだ下手な文字だ。何度も形を確認しながら書いた。だが、書いた。この世界の文字で、彼女の言葉を残したかった。
私は帰れない。この召喚は、片道だ。お母さんに会いたかった。
書き終えた時、手が少し震えていた。怒りはまだある。悲しみもある。だが、それだけではない。責任のようなものが生まれていた。
俺は世界の外側を見たい。その気持ちは変わらない。けれど、世界を越える術式を研究するなら、アオイ・ミナセの言葉を忘れてはいけない。誰かを閉じ込める門は作らない。誰かの帰りたいという意思を奪う術式は作らない。世界間移動は、探究である前に、誰かの人生に触れる技術なのだ。
俺はペンダントに触れた。青い石は静かだった。転生時に与えられた猶予。俺はそれを使って、何を知るのか。何を作るのか。何を残すのか。
机の上には、三つの文字が並んでいる。世界。外。門。その横に、新しい言葉を書き足した。
帰る。
この言葉も、重要だ。世界の外側へ行くことばかり考えていた。だが、今日からは違う。行くことと、帰ること。その両方を考えなければならない。門とは、片側から見るものではない。こちらと向こう。行きと帰り。開く者と、通る者。すべてを考えなければ、それは門ではなく檻になる。
俺は最後に、一文を書いた。
――世界を越える技術は、誰かの帰り道を奪ってはならない。
炭筆を置いた後も、しばらく眠れなかった。窓の外には、二つの月が浮かんでいる。その光は静かで、どこか青かった。




