表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/39

第18話 勇者は、人間だった

 翌朝、ギルド二階の会議室には、いつもより人が多かった。リア殿下。セシルさん。レグナ卿。ロイさん。ミラさん。ガルドさん。そして俺。ここまではいつもの面々だ。問題は、その隣に白い法衣を着た男が座っていることだった。


 年齢は四十代ほど。整えられた金髪。穏やかな顔。胸元には、聖教国の紋章。神官。しかも、ただの地方神官ではない。姿勢、視線、言葉を発する前の空気。王都の会議室にいた神官と同じ種類の人間だ。役割を背負っている人間。信じているというより、信じるべきものを管理している人間。


 ロイさんが書類を確認しながら言った。


「こちらは、聖教国ルーベル駐在司祭、マティアス・ローヴェン殿です」

「マティアスです」


 神官は静かに頭を下げた。


「勇者召喚に関わる記録が発見されたと聞き、同席を願い出ました」


 願い出た。と言っているが、実際にはかなり強い圧力があったのだろう。ミラさんの表情が硬い。レグナ卿も少し不機嫌そうだ。リア殿下は無表情。セシルさんは警戒している。ガルドさんは壁際で腕を組み、明らかに面倒くさそうな顔をしていた。


 俺は、机の上の写しを見る。昨日書き写したアオイ・ミナセの文章。日本語の原文。王国文字での翻訳。そして、リア殿下が作った注釈。帰れなかった勇者の記録。それを前に、神官がいる。嫌な予感がした。


「まず確認させてください」


 マティアス司祭は穏やかな声で言った。


「この異界文字の翻訳は、ユーマ・カンザキ殿によるものですね」

「はい」

「翻訳の正確性を確認できる者は?」

「現時点では、俺以外にいません」

「つまり、あなたの解釈に依存している」

「そうです」


 俺はそこを否定しなかった。事実だからだ。日本語を読める者は、この場では俺だけ。だからこそ、慎重に扱うべきだ。だが、それは「なかったことにしていい」という意味ではない。


 マティアス司祭は、王国文字で書かれた翻訳を見た。


「私は帰れない。この召喚は片道だ。神官たちは使命と言った。王は名誉と言った。村の人たちはありがとうと泣いた。でも、私は帰りたかった。お母さんに会いたかった」


 彼は最後まで読み、ゆっくり目を閉じた。


「痛ましい記録です」


 声は本当に痛ましそうだった。だが、その次の言葉で、俺の中の何かが少し冷えた。


「しかし、これを公的記録として扱うには慎重であるべきでしょう」


 レグナ卿が眉をひそめる。


「どういう意味ですかな」

「勇者アオイ・ミナセは、聖女として多くの人々を救った方です。今なお、地方のいくつかの村では祈りの対象にもなっています」

「それは記録にもありました」

「はい。彼女は救済の象徴です。使命を果たした勇者です。その方の個人的苦悩を不用意に広めれば、信仰や民の心を乱す恐れがあります」


 会議室が静かになった。ミラさんの表情がわずかに曇る。ガルドさんの腕に力が入る。リア殿下は、まばたきもせず司祭を見ていた。


 俺は、机の上の翻訳文を見つめていた。信仰を乱す。民の心を乱す。その理屈は分かる。分かってしまう。聖女として祀られている存在が、実は帰りたいと泣いていた。それが知られれば、人々は戸惑うだろう。感謝していた村人の子孫は、罪悪感を覚えるかもしれない。聖教国は、勇者召喚の正当性を問われるかもしれない。だが。


「つまり」


 俺はゆっくり顔を上げた。


「この記録は、公にはしない方がいいと?」


 マティアス司祭は静かに頷いた。


「少なくとも、慎重な検討が必要です」

「検討の間、どこに保管しますか」

「聖教国と王国で協議の上、適切な場所に」

「つまり、俺やリア殿下の手元からは離す」

「原本は元より王国資料です。写しについても、管理下に置くのが妥当かと」


 怒りは、不思議とすぐには湧かなかった。代わりに、頭が冷えた。これは昨日のような衝撃ではない。目の前で、記録がもう一度消されようとしている。今度は意図的に。


「マティアス司祭」

「はい」

「あなたは、アオイ・ミナセを尊敬していますか」

「もちろんです。彼女は多くの人々を救った聖女です」

「では、彼女が帰りたかったという言葉も尊重するべきでは?」


 司祭は少しだけ目を細めた。


「尊重しています」

「隠すことが?」

「隠すのではありません。守るのです」

「何を?」

「彼女の名誉を」


 名誉。その言葉が出た瞬間、昨日の文章が頭の中で響いた。王は「名誉」と言った。俺は翻訳文を指差した。


「彼女は、その名誉という言葉の横で、帰りたいと書いています」


 マティアス司祭は黙った。


「名誉を与えられたから、帰りたい気持ちは小さくなりますか」

「そうは言っていません」

「では、なぜ名誉を守るために、本人の言葉を管理するのですか」

「ユーマ殿」


 司祭の声が少しだけ低くなった。


「あなたは、この世界に来てまだ日が浅い。勇者という存在が、民にとってどれほど大きな支えかを理解していない」

「理解していない部分はあります」

「ならば」

「ですが、帰りたいという言葉の意味は分かります」


 会議室の空気がさらに重くなる。俺は続けた。


「勇者が誰かを救ったことと、その人が帰りたかったことは両立します」

「……両立」

「はい。アオイ・ミナセは多くの人を救った。聖女と呼ばれた。それは事実かもしれない。でも彼女は帰りたかった。それも事実です」


 俺は翻訳文を見る。


「片方だけ残して、もう片方を消すのは記録ではありません。編集です」


 ロイさんのペンが止まった。レグナ卿が静かにこちらを見る。リア殿下は、ほとんど動かない。だが、その目だけが強くこちらを見ていた。


 マティアス司祭は少しだけ息を吐いた。


「あなたは、記録を絶対視しすぎている」

「そうかもしれません」

「人々には物語が必要です。救いが必要です。勇者が苦しんでいたという事実を知ることで、何が救われるのですか」


 俺は答えに詰まった。その問いは、簡単ではなかった。真実を知れば全てが良くなる。そんな単純な話ではない。アオイ・ミナセが帰りたかったと知って、誰かが救われるのか。村人の子孫が苦しむだけかもしれない。聖女信仰が揺らぎ、救いを失う人がいるかもしれない。それでも。


「少なくとも」


 俺は言った。


「彼女は救われるかもしれません」

「死者が?」

「はい」


 マティアス司祭の眉が動く。


「死者は何も望みません」

「それは分かりません」

「魂は神のもとへ帰ります」

「魂は管理下にあるかもしれませんが、神のもとへ帰るという表現が正確かは未検証です」


 ミラさんが小さく「ユーマさん」と言った。宗教論争になる。それはまずい。分かっている。だが、今の言い方は確かに悪かった。


「すみません。今のは言い方が悪かったです」


 俺は一度頭を下げた。


「俺が言いたいのは、彼女が残した言葉を読むことは、彼女が確かに一人の人間だったと認めることだということです」

「一人の人間」

「はい。聖女でも、勇者でも、救済の象徴でもなく。帰りたいと思い、お母さんに会いたいと思った一人の人間です」


 そこで、リア殿下が静かに口を開いた。


「マティアス司祭」

「はい、殿下」

「記録から人間を消して、役割だけを残すことは、神の望むことですか」


 司祭の表情が少しだけ変わった。王女からの問い。しかも、宗教的な問い。簡単には返せない。


「神は、すべての魂を見守っておられます」

「なら、アオイ・ミナセの魂も見ていたはずです」

「もちろんです」

「では、彼女の帰りたいという言葉も見ていたはずです」


 リア殿下の声は静かだった。だが、昨日までよりも少し強かった。


「神が見ていた言葉を、人が隠すのですか」


 セシルさんが小さく息を呑んだ。レグナ卿も少し驚いた顔をした。マティアス司祭はしばらく黙った。


 俺も、リア殿下を見ていた。彼女は宗教を攻撃しているのではない。神の言葉を借りて、記録を守ろうとしている。それは、俺にはできないやり方だった。王族であり、古代文字の読者であり、記録に取り憑かれた人間。リア殿下だから言える言葉。


 マティアス司祭は深く息を吐いた。


「殿下は、これを公表すべきとお考えですか」

「すぐに民へ広めるべきとは言っていません」

「では」

「隠してはいけない、と言っています」


 リア殿下は翻訳文に視線を落とす。


「まず、正確に写すべきです。原文、翻訳、注釈、発見経緯。誰が翻訳し、どこに不確定性があるのか。すべて記録するべきです」

「そして?」

「王国、聖教国、ギルド、魔導院、それぞれが写しを持つべきです。一か所だけで管理すれば、また消えます」


 また消えます。その言葉は重かった。マティアス司祭はリア殿下を見て、それからレグナ卿を見る。


「レグナ卿は?」


 レグナ卿はしばらく黙っていた。老魔導士の顔には、疲労と苦渋があった。


「私は、王国魔導院の人間として、勇者召喚の正当性を守る立場にあります」

「はい」

「ですが、魔導士として、記録を隠すことには反対です」


 マティアス司祭の目がわずかに細くなる。


「それは王国の立場ですか?」

「いいえ。私個人の立場です」


 レグナ卿は資料に手を置いた。


「ただし、殿下の提案は現実的です。即時公表ではなく、複数機関による封印管理。原文、翻訳、不確定性を併記する。これなら、記録を消さず、同時に不用意な混乱も避けられる」


 ロイさんが頷いた。


「監察局としても、その形式なら報告しやすいです。情報の単独管理を避けることは、改竄防止にもなります」


 ミラさんが少し安心したように息を吐いた。ガルドさんは小さく笑った。


「難しいことは分からんが、消さねえならいい」


 マティアス司祭は最後に俺を見た。


「ユーマ殿」

「はい」

「あなたは、それで納得しますか」

「完全には」


 正直に言った。


「ですが、今できる現実的な方法としては妥当だと思います」

「あなたはもっと強硬に反発するかと思いました」

「したい気持ちはあります」

「では、なぜ」

「記録を守るには、怒りだけでは足りないからです」


 自分で言って、少し驚いた。昨日の俺なら、もっと直接ぶつかっていたかもしれない。だが、今は違う。アオイ・ミナセの言葉を守りたい。そのためには、ここで聖教国と完全に敵対するのが最善とは限らない。怒りは燃料になる。だが、燃料だけでは魔道具は動かない。回路が必要だ。制御が必要だ。出口が必要だ。


「怒りはあります。でも、その怒りで記録を燃やしたら意味がありません」


 マティアス司祭は、少しだけ目を伏せた。


「……あなたは、危険ですが、愚かではないようだ」

「ありがとうございます」

「褒めているかは微妙です」

「よく言われます」


 ガルドさんが吹き出した。少しだけ場の空気が緩む。だが、アオイ・ミナセの記録の重さは消えない。


 その後、正式な取り決めが作られた。アオイ・ミナセ個人記録の写しを四部作成。一部は王国魔導院。一部は聖教国ルーベル教会経由で本国へ。一部はルーベル冒険者ギルドに封印保管。一部はリア殿下の個人研究記録として、王城地下図書館に保管。


 そして、俺は自分の研究記録に写しを残す。これは公式部数には含まれない。だが、ロイさんは黙認した。


「非公式写しですね」


 俺が言うと、ロイさんは無表情で答えた。


「私は見ていません」

「ありがとうございます」

「礼を言われる立場ではありません」

「そうですか」


 写しを作る作業は、重かった。俺は日本語の原文を一文字ずつ確認し、王国文字の翻訳を整えた。リア殿下は横で、翻訳文の言葉の揺れを確認する。


「ここ、『使命』は王国文字ではどの語が近いですか」

「聖教国式なら『神より与えられた務め』に近いですが、本文では神官たちが言った言葉なので、少し重くした方がいいです」

「では、単なる仕事ではない」

「はい」

「名誉は?」

「王が与えた言葉なら、称号や栄誉に近いかもしれません」

「ありがとうと泣いた、は?」


 リア殿下の手が止まる。


「そこは、変えない方がいいです」

「はい」


 ありがとうと泣いた。この一文があるから、単純な被害者と加害者の話ではなくなる。村の人々は彼女に感謝した。救われた。泣いた。それも事実だ。だからこそ苦しい。アオイ・ミナセは、人々を救った。そして帰りたかった。どちらか片方ではない。両方なのだ。


 マティアス司祭も、写しの作業を黙って見ていた。やがて、彼は静かに言った。


「私は、勇者アオイを聖女として学びました」


 誰も口を挟まなかった。


「幼い頃、病に苦しむ村を救った聖女の話を聞きました。彼女は神の慈悲を地上に示した方だと。私にとっても、尊い存在でした」

「はい」


 リア殿下が静かに答える。


「だからこそ、帰りたいと泣いていた人だと認めるのは、苦しい」


 その言葉は、意外だった。司祭は隠そうとしているだけではなかった。彼自身も揺れている。聖女として信じていた存在が、一人の帰れない少女だった。その事実を受け止めるのは、彼にとっても簡単ではない。


「ですが」


 マティアス司祭は翻訳文を見た。


「苦しいから隠す、というのは、確かに祈りではないのかもしれません」


 俺は司祭を見た。少しだけ印象が変わった。この人は、制度側の人間だ。でも、考えられない人ではない。


「マティアス司祭」

「はい」

「アオイ・ミナセの祈りは、聖教国ではどう扱われていますか」

「祈り?」

「彼女本人が残した祈りや言葉です」


 司祭は少し考えた。


「公式には、聖女アオイの祝詞がいくつか伝わっています。ただし、本人の言葉かどうかは不明です。後世の神官が整えたものも多い」

「その中に、帰還に関するものは?」

「聞いたことはありません」

「調べられますか」

「……調べましょう」


 司祭は頷いた。


「私も、知る必要があるようです」


 リア殿下が小さく言った。


「記録は、人を変えますね」

「はい」


 俺は頷いた。記録は、誰かを傷つけることもある。救いの物語を揺らすこともある。だが、隠していたものを見せることで、人を変えることもある。今日、マティアス司祭は少し変わった。俺も変わった。たぶん、リア殿下も。


 会議の最後、リア殿下はアオイ・ミナセの名前を王国文字で丁寧に書いた。その横に、俺が可能性としての日本語表記を書いた。


 水瀬葵。


 正しいかは分からない。だが、仮の文字として残した。


「青い字ですね」


 リア殿下が言った。


「はい」

「いつか、正しい表記が分かるといいですね」

「はい」


 俺は写しの最後に、注記を書いた。翻訳者、ユーマ・カンザキ。翻訳不確定。ただし、意味は明確。


 帰りたかった。


---

 研究記録 No.016

 対象:アオイ・ミナセ記録の管理方法および聖教国司祭との対話


 観察結果:

 聖教国側は、アオイ・ミナセの個人記録が聖女信仰に与える影響を懸念。当初、記録の公的扱いに慎重姿勢。「名誉を守る」「民の心を乱さない」という理由で、管理下に置く意向を示した。

 これに対し、リア殿下は「神が見ていた言葉を、人が隠すのか」と指摘。結果、即時公表ではなく、複数機関による封印管理と写しの作成で合意。

 写し保管先:王国魔導院。聖教国。ルーベル冒険者ギルド。王城地下図書館。非公式に私の研究記録にも保存。

 仮説:

 記録は単に事実を保存するものではない。信仰、政治、名誉、個人の感情、後世の解釈が衝突する場でもある。記録を守るには、真実を叫ぶだけでは不十分。消されないための保管経路、複数の写し、翻訳注記、管理者間の牽制が必要。

 結論:

 怒りは記録を守る燃料になる。しかし、燃料だけでは足りない。回路と制御が必要。

 追記:

 アオイ・ミナセの言葉は消さない。

 聖女でも、勇者でも、象徴でもなく。

 一人の人間として。

---


 その夜、俺は安宿の机で、今日の記録を読み返していた。昨日書いた言葉。世界を越える技術は、誰かの帰り道を奪ってはならない。そして今日、もう一つ分かった。誰かの言葉を残す技術もまた、誰かの帰り道になるのかもしれない。


 アオイ・ミナセは、もう地球へ帰れなかった。母親にも会えなかった。けれど、彼女の言葉は二百四十年後に届いた。同じ文字を読める俺に。古代文字を読むリア殿下に。聖女として彼女を信じていたマティアス司祭に。それは帰還ではない。でも、完全な断絶でもない。記録は、時間を越える門なのかもしれない。


 俺は紙の端に、日本語で書いた。記録。その横に王国文字で、覚えたばかりの「記す」という文字を書く。まだ下手だ。だが、書く。さらにその隣に、古代アストラ文字の「門」を写した。


 記録。門。この二つは、思ったより近い。どちらも、隔たりを越えて何かを届ける。距離。時間。世界。死。忘却。それらの向こうへ。


「記録は、帰れなかった人の声を未来へ帰す門」


 声に出すと、少し詩的すぎる気がした。だが、悪くない。俺は研究記録の最後に、短く書き足した。


 ――記録もまた、門である。


 窓の外には、二つの月。そのうち一つは、青く淡く光っていた。俺はそれを見ながら、アオイ・ミナセの名前をもう一度書いた。


 水瀬葵。


 正しいかは分からない。それでも、今夜だけはその字で呼びたかった。帰りたかった勇者。消してはいけない言葉。彼女の記録は、もう一人ではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ