第15話 六時間
「こちらこそ、古代アストラ文字について聞かせてください」
俺がそう言った瞬間、ギルド内の空気が明らかに変わった。
ミラさんは額に手を当てた。ガルドさんは笑っていた。レグナ卿は深いため息をついた。リア殿下の侍女らしき女性は、今にも倒れそうな顔をしていた。王都監察局のロイさんは、無言で報告書に何かを書き足している。
おそらく、こうだ。対象、王女殿下との初対面から三十秒以内に古代文字の話題へ移行。不敬ではないが、極めて扱いづらい。そんなところだろう。
だが、俺としてはかなり我慢した方だった。こちらから最初に古代文字を見せてくださいとは言わなかった。世界の外側についても、向こうから聞かれた。だから、これは俺だけの責任ではない。たぶん。
「リア様」
侍女の女性が、震える声で言った。
「まずは正式なご挨拶と、調査団としての手続きを」
「しました」
「今のは挨拶だけです」
「では、次に調査を」
「調査とは、ユーマ様を質問攻めにすることではありません」
「質問しなければ調査になりません」
「順序があります」
リア殿下は少しだけ首を傾げた。その仕草に、俺は妙な親近感を覚えた。たぶん、俺もよく同じ顔をしている。なぜ止められているのか分からない、という顔だ。
レグナ卿が咳払いをした。
「まず、場所を移しましょう。ここでは人目が多すぎます」
確かに、ギルド内の冒険者たちは全員こちらを見ていた。王女。勇者候補。危険人物。古代文字。世界の外側。興味を引く単語ばかりが並んでいる。
ミラさんがすぐに動いた。
「二階の会議室を使います。支部長には私から話を通します」
「助かります」
ロイさんが短く頷いた。
俺たちはギルド二階の会議室へ移動した。部屋には長机が一つ。椅子が数脚。壁にはルーベル周辺の地図。窓からは市場の屋根と、遠くの外壁が見える。
席順は少し揉めた。リア殿下を上座に。護衛騎士は扉側に。レグナ卿はリア殿下の横。ロイさんは記録役として端。ミラさんはギルド側の立会人。ガルドさんは俺の保証人として壁際。侍女のセシルさんはリア殿下の背後。俺は、なぜか全員に囲まれる位置に座らされた。監視しやすいからだろう。合理的ではある。
「では、改めて」
レグナ卿が口を開いた。
「ユーマ・カンザキ。今回の調査は、あなたの捕縛や尋問を目的としたものではありません」
「はい」
「少なくとも現時点では、あなたはルーベル冒険者ギルド監視下で経過観察中です」
「理解しています」
「ただし、勇者召喚陣への干渉、召喚直後の火魔法暴発、王城からの逃亡については、王国として確認せざるを得ません」
「はい」
「その上で、殿下は召喚陣に使われていた古式刻印の解読協力者として同行されています」
リア殿下は小さく頷いた。
「古代アストラ文字は、完全には読めません。ただ、断片的な意味なら取れます」
「十分です」
俺が即答すると、セシルさんが小さく身構えた。ミラさんもこちらを見ている。質問は一つずつ。距離を詰めすぎない。相手の持つ本を勝手に開かない。分かっている。分かっているが、目の前に古代文字を読める人がいる。非常に難しい。
リア殿下は、俺の鞄に目を向けた。
「あなたが、古式刻印の写しを持っていると聞きました」
「はい。ドルガンさんの魔道具屋にあった古い術式板の写しです」
「見せていただけますか」
「もちろんです」
俺は鞄から紙束を取り出した。安い紙。炭筆で写した不完全な線。まだ正式な研究ノートではない。だが、今の俺にとっては重要な記録だ。
紙を机に広げる。リア殿下が身を乗り出した。その瞬間、セシルさんが小さく声を上げる。
「リア様、近いです」
「近くないと読めません」
「相手との距離もあります」
「文字との距離の方が重要です」
セシルさんが頭を抱えた。俺は少しだけ感心した。かなり似ている。
リア殿下は紙の上の線を、目で追っていた。指先は触れない。触れたいのだろうが、我慢しているように見える。俺はその点に気づき、紙の端に小さな石を置いて固定した。
「触れても大丈夫です。これは写しなので」
「いいのですか」
「はい」
リア殿下の指が、そっと紙に触れた。その動きは慎重だった。まるで、古い死者の言葉に触れるような手つきだった。
「……これは、古代アストラ文字です。ただし、現代に伝わる写本形式より古い。術式用に圧縮されています」
「やはり文字ですか」
「文字であり、術式でもあります」
その言葉に、俺は思わず前のめりになった。
「文字と術式が一体化している?」
「はい。意味を伝えるためだけの文字ではありません。読み手の認識を一定方向へ誘導する構造です」
「認識起動型術式」
俺が呟くと、リア殿下の目がわずかに開いた。
「その表現、近いです」
「ドルガンさんも似たことを言っていました。古い術式には、読んだ瞬間に認識へ干渉するものがあると」
「あります。なので、全文を声に出して読むのは危険です」
「なるほど。音声化が起動条件になる場合も?」
「あります。音、意味理解、魔力接触、視線固定。起動条件はいくつかあります」
「視線固定まで」
「はい。古代アストラ文字は、読む側の認識を術式の一部として使います」
胸が高鳴った。文字が、ただの記録ではない。術式でもある。認識を誘導し、魔力を流し、世界に干渉する。つまり、古代アストラ文明は、言語と魔法の境界を曖昧にしていた。これは重要だ。非常に重要。
「ユーマさん」
ミラさんの声が飛んだ。
「はい」
「呼吸してください」
「しています」
「少し浅いです」
「すみません」
どうやら興奮していたらしい。リア殿下も同じような顔をしていた。セシルさんが彼女の前に水を置く。
「リア様もです」
「私は大丈夫です」
「指が本の表紙を叩いています」
「……止めます」
リア殿下は手を膝の上に置いた。だが、視線は紙から離れていない。レグナ卿はその様子を見て、深く息を吐いた。
「……この二人を同じ机に着かせたのは、正しかったのか間違いだったのか」
「両方では」
ロイさんが静かに言った。俺は聞こえなかったことにした。
「リア殿下。この写しには何と書かれているのですか」
俺が尋ねると、リア殿下は少し考えた。
「全文は無理です。欠損もありますし、写しなので線の深さが分かりません。ただ、断片なら」
「お願いします」
「声に出すと危険な可能性があります。意味だけ言います」
「はい」
リア殿下は紙を見つめながら、ゆっくり言葉を選んだ。
「これは、おそらく魔力変換回路の一部です。ただし、現代の属性回路ではありません」
「現象分類?」
リア殿下の指が止まった。
「今、何と言いましたか」
「現象分類です。属性ではなく、熱、圧力、流体、振動、光、構造変化など、実際に起きている現象で魔法を分類する考え方です」
リア殿下は数秒、完全に動かなかった。そして、小さく呟いた。
「……同じです」
「同じ?」
「古代アストラの一部資料に、似た分類があります。属性ではなく、現象で魔法を捉える記述です」
レグナ卿の表情が険しくなった。
「殿下、その資料はどこで?」
「地下図書館の未整理写本です」
「また未整理棚を」
「鍵が開いていました」
「殿下が開けたのでしょう」
「結果的には」
セシルさんが小さくうめいた。
俺はそのやり取りを聞きながら、別のことで頭がいっぱいだった。古代アストラ文明にも、現象分類があった。つまり、俺の仮説は完全な独自発想ではない。この世界の過去に、同じ方向へ進んだ文明があった。
それは悔しいことではない。むしろ、嬉しい。道がある。先達がいる。そして、その先達は消えた。なぜか。何を見たのか。どこで失敗したのか。知るべきことが、また増えた。
「リア殿下」
「はい」
「古代アストラ文明は、なぜ滅びたのですか」
部屋の空気が少し重くなった。レグナ卿が俺を見る。セシルさんも表情を硬くする。リア殿下は、しばらく答えなかった。
「公式には、魔法災害による崩壊です」
「公式には」
「はい。ですが、地下図書館の資料には別の断片があります」
「どんな?」
「世界境界実験」
世界境界。その単語だけで、背筋に何かが走った。
「世界の境界に干渉した?」
「可能性があります」
「世界の外側へ出ようとした?」
「断定はできません」
「でも、その可能性はある」
「あります」
リア殿下はまっすぐ俺を見た。
「だから、あなたの発言記録を読んだ時、驚きました」
「どの発言ですか」
「その世界の外側へ行きたい、という発言です」
部屋が静まり返る。俺は少しだけ視線を落とした。あの時、魂の管理者にも同じようなことを言った。転生前。白い空間。世界は一つではないと知った瞬間。俺の中で、何かが決まった。
「俺は、地球で死にました」
自然と、そう話し始めていた。リア殿下は静かに聞いている。他の者たちも口を挟まない。
「死後、魂を管理する存在に会いました。そして別世界へ転生すると言われた。つまり、その時点で一つ分かったんです」
「世界は一つではない」
リア殿下が言った。
「はい」
「だから、外側を考えた」
「はい。地球にいた頃から、宇宙の外側に何があるのか考えていました。でも、それは仮説ですらなかった。観測できなかったからです。けれど、死後に別世界へ来た。魂が世界を越えた。なら、世界と世界の間には何かがある」
「境界」
「はい。境界です」
リア殿下の指が、紙の上の古式刻印に触れた。
「古代アストラ文字でも、境界は重要な概念です。物と物の境界。生と死の境界。世界と外の境界」
「境界を理解すれば、門が作れるかもしれない」
「あなたは、門と考えるのですね」
「最近、この世界の文字で『門』を覚えました」
リア殿下は少しだけ瞬きをした。
「それは……重要な進展なのですか」
「はい」
「なぜ?」
「世界の外へ至る門、という言葉がこの世界の文字で書けるようになったので」
リア殿下は数秒黙った。そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑った、のだと思う。
「それは、重要ですね」
「分かりますか」
「分かります」
その瞬間、部屋の外側の音が少し遠くなった。
誰かが分かると言った。ただの文字を覚えただけではない。その言葉が、自分の目指すものに一歩近づいた気がする。その感覚を、リア殿下は笑わなかった。理解した。それは、思った以上に不思議な感覚だった。
ミラさんが小さく呟いた。
「……本当に気が合ってしまった」
ガルドさんが肩をすくめる。
「だから言ったろ」
セシルさんは青ざめている。ロイさんは無言で記録を続けている。レグナ卿は、諦めたように天井を見ていた。
だが、俺とリア殿下はすでに古式刻印の写しへ戻っていた。
「この部分は、何ですか」
俺は紙の中央付近を指差す。
「おそらく、変換を意味する補助記号です。ただし現代術式の変換とは違います。対象を別の属性へ変えるのではなく、状態を移す」
「状態遷移?」
「近いです」
「魔力を熱に変えるのではなく、魔力を熱状態へ移す?」
「その表現、面白いです」
「火属性魔法も、それで説明できますか」
「古代アストラなら、火とは書かないと思います」
「熱?」
「熱、燃焼、光、膨張。その複合です」
「やはり」
「やはり?」
「火属性は存在しない可能性が高い」
部屋の数人が同時に反応した。レグナ卿は目を閉じた。ミラさんは額に手を当てた。ガルドさんは笑った。セシルさんは何か言いかけてやめた。リア殿下だけは、真剣に頷いた。
「存在しないというより、浅い分類なのでしょう」
「はい。最近、その言い方に修正しました。属性分類の下に現象分類がある、と」
「その方が、現代魔導士との衝突は少なそうです」
「同じことを言われました」
「誰に?」
「ガルドさんとミラさんです」
「良い助言です」
「はい」
俺は少しだけ意外だった。リア殿下は、ただ古代文字だけを見る人ではないらしい。言葉の出し方や、社会との摩擦も理解している。いや、王族だから当然なのか。だが本人は政治に興味が薄そうだ。それでも、言葉が人を傷つけることは分かっている。俺よりもずっと。
「リア殿下は、なぜ古代アストラ文字を?」
俺が尋ねると、リア殿下は少し視線を落とした。
「幼い頃、地下図書館で石板を見つけました。誰も読めない文字でした。でも、見た瞬間に思いました」
「何を?」
「この文字は、忘れられたくなかったのだと」
その言葉で、俺は黙った。
「意味は分かりませんでした。音も分かりませんでした。でも、線の中に意志がありました。ここにあった。私たちは存在した。忘れるな。そう刻まれているように見えました」
「記録としての文字」
「はい。私は、それを読みたいと思いました。誰かが残したものを、誰も読まないままにしたくなかった」
リア殿下の声は静かだった。だが、その奥に確かな熱があった。俺が魔法の流れを見る時の感覚に似ている。表面は静か。内側に強い流れがある。
「あなたは、なぜ記録を取るのですか」
リア殿下が逆に尋ねた。俺は机の端に置いた紙束を見る。安い紙。炭筆。日本語で書かれた研究記録。
「忘れないためです」
「何を?」
「観察したことを。考えたことを。失敗したことを」
「失敗も?」
「はい。失敗の方が重要な場合もあります」
「それは分かります」
「それと……いつか、自分以外の誰かが読むかもしれないので」
言ってから、自分でも少し驚いた。これまで、俺の記録は自分のためのものだった。この世界で日本語を読める者はいない。だから、他人に読ませる前提ではなかった。だが、今、自然にそう言った。誰かが読むかもしれない。誰かに残すかもしれない。それは、リア殿下の言葉に影響されたのかもしれない。
「なら、文字を覚えないといけませんね」
リア殿下が言った。
「はい。今はまだ、この世界の文字を勉強中です」
「どこまで?」
「外、門、世界は書けます」
「重要な単語から覚えていますね」
「はい」
リア殿下は小さく頷いた。
「では、後で古代アストラ文字の『門』を教えます」
心臓が跳ねた。
「本当ですか」
「はい。ただし、発音は教えません」
「なぜ?」
「起動語である可能性があるので」
「なるほど。意味記号だけ」
「はい」
「素晴らしいです」
セシルさんが震える声で言った。
「リア様、あまり簡単に古代文字を教えないでください」
「危険なものは教えません」
「危険ではないものも、普通は教えません」
「彼には必要です」
「なぜですか」
リア殿下は、俺を見た。
「同じ問いを持っているからです」
部屋が静かになった。
同じ問い。世界はなぜこうなっているのか。世界の外側には何があるのか。古代アストラは何を見たのか。魔法とは何か。記録とは何か。それらの問いが、俺とリア殿下の間に置かれていた。
王女と勇者候補。王族と逃亡者。調査員と調査対象。そういう関係ではない。少なくとも、この机の上では違った。俺たちは、同じものを見ていた。
「リア殿下」
「はい」
「俺は勇者になるつもりはありません」
「知っています」
「王国に仕えるつもりもありません」
「報告書にありました」
「魔王討伐を目的にするつもりもありません」
「それも」
「それでも、古代文字を教えてくれますか」
リア殿下は少しだけ不思議そうに首を傾げた。
「なぜ、それが条件になるのですか」
「王国側から見れば、俺は扱いづらい存在だと思います」
「はい」
即答だった。
「そこは否定しないのですね」
「事実なので」
少し、俺に似た言い方だった。
「私は、あなたが勇者になるかどうかにはあまり興味がありません」
「そうなのですか」
「はい」
リア殿下は紙の上の古式刻印を見る。
「私は、あなたが何を見ようとしているのかに興味があります」
その言葉は、静かに胸に残った。
俺が何を見ようとしているのか。そんなことを聞いた人間は、これまでほとんどいなかった。多くの人は、俺に何をさせるかを考えた。勇者になれ。王国に従え。魔王を倒せ。魔法を暴発させるな。解体場では勝手に切るな。それらは必要な言葉だ。だが、リア殿下は違った。何を見ようとしているのか。俺の視線の先を見ようとしている。
「俺は、世界の外側を見たいです」
改めて言葉にすると、部屋の空気が少し変わった。レグナ卿が目を細める。ロイさんのペンが止まる。ミラさんは静かにこちらを見る。ガルドさんは何も言わない。リア殿下だけが、表情を変えなかった。
「なぜ?」
「世界が一つではないと知ってしまったからです」
「知ってしまったから?」
「はい。知らなければ、この世界で普通に生きることもできたかもしれません。でも、知ってしまった。地球があり、アルトレイアがある。なら、他にもあるかもしれない。世界が複数あるなら、その間に何があるのか知りたい」
「この世界に留まることは、考えないのですか」
その問いに、少しだけ答えが遅れた。
リア殿下の声は静かだった。だが、ただの確認ではなかった。何かを測っている。俺がこの世界をどう見ているのか。通過点と見るのか。住む場所と見るのか。俺は嘘をつけなかった。
「今は、まだ分かりません」
「分からない」
「はい。この世界を知りたいとは思っています。魔法も、魔物も、魔道具も、文字も、種族も、歴史も、全部知りたい。でも、理解した先で、次を見たいと思うかもしれません」
「それは、この世界を捨てるという意味ですか」
「違います」
そこは、はっきり言えた。
「捨てたいわけではありません。理解したい。理解した上で、外も見たい」
リア殿下はしばらく黙っていた。その表情から、感情は読みづらい。だが、彼女の指が本の表紙を叩いていないことに気づいた。静かに考えている。
「古代アストラも、同じことを考えたのかもしれません」
リア殿下は言った。
「そして滅びた?」
「可能性があります」
「なら、俺も同じ失敗をするかもしれない」
「はい」
即答だった。部屋の空気が少し冷える。だが、俺は嫌な気はしなかった。むしろ、安心した。
リア殿下は、俺の目的を美化しなかった。世界の外側を目指すことを、素晴らしい冒険とは言わなかった。危険だと言った。失敗するかもしれないと言った。その上で、問いを共有しようとしている。
「だから、記録が必要です」
リア殿下が続けた。
「何を考え、何を試し、どこで危険が生まれたのか。記録しなければ、同じ失敗を繰り返します」
「同感です」
「あなたの研究記録を、いつか読ませてください」
「日本語ですが」
「日本語?」
「俺の元の世界の文字です。この世界では誰も読めません」
リア殿下の目が、今日一番はっきりと輝いた。
「異世界の文字」
「あ」
まずい。言った瞬間に気づいた。これはリア殿下にとって、古代文字と同じか、それ以上に興味を引く可能性がある。
「見せてください」
「リア様」
「少しだけ」
「リア様」
「一文字だけでも」
「リア様」
セシルさんが止める。だが、リア殿下の視線は完全に俺の紙束へ向いていた。ミラさんが頭を抱えた。
「今度はユーマさん側の文字に食いついた……」
ガルドさんが笑う。
「やっぱり同類じゃねえか」
俺は少し迷った。異世界の文字を見せることに、危険はあるだろうか。日本語自体に魔力はない。少なくとも地球ではそうだった。この世界で認識起動型術式になる可能性は低い。ただし、情報としては重要だ。
俺は紙の端に、短く日本語を書いた。
世界。
そして、その横に王国文字で覚えたばかりの「世界」を書く。
「これが、俺の世界の文字での『世界』です」
リア殿下は、息を止めたようにそれを見た。古代文字を見る時と同じ目だった。
「……全く違う構造です」
「はい」
「音を表すのですか。意味を表すのですか」
「両方です。この場合は意味を持つ文字です」
「表意文字」
「はい」
「複数の文字を組み合わせて意味を作る?」
「そうです」
「古代アストラ文字に少し似ています。ただし線の思想が違う」
「線の思想」
「はい。古代アストラ文字は、世界へ刻む線です。あなたの文字は、紙に置く線に見えます」
その表現は面白かった。世界へ刻む線。紙に置く線。文字に対してそんな見方をしたことはなかった。
「リア殿下」
「はい」
「あなたの文字の見方は、かなり面白いです」
「あなたの文字も面白いです」
「交換しますか」
「交換?」
「俺は王国文字と古代アストラ文字を学ぶ。リア殿下は、日本語を少し学ぶ」
セシルさんが声にならない声を出した。レグナ卿が頭を抱えた。ミラさんは机に額をつきかけた。だが、リア殿下は真剣に頷いた。
「良い提案です」
「リア様!」
「危険な内容は扱いません。文字だけです」
「文字だけで終わるわけがないでしょう!」
「終わらないかもしれません」
「認めないでください!」
ロイさんが静かに報告書へ書き込む。
「第三王女殿下と対象者、文字交換の約束を交わす。関係性の進展、要監視」
「ロイさん、声に出ています」
俺が言うと、ロイさんは無表情でペンを止めた。
「失礼しました」
会話はそこから止まらなくなった。
古代アストラ文字の構造。王国文字と術式文字の違い。火属性と熱変換。水属性と流体制御。魔石が記録媒体である可能性。生活魔法の用途分類。勇者召喚陣に含まれる魂固定術式。世界境界実験。地球の宇宙論。星が太陽のような存在であること。月が二つある世界で潮汐がどうなるか。魂は情報なのか。記録と記憶は違うのか。
途中でミラさんが水を置いた。途中でセシルさんが昼食を置いた。途中でガルドさんが飽きて部屋の隅で干し肉を食べ始めた。途中でレグナ卿が何度か口を挟み、そのたびに議論がさらに広がった。途中でロイさんの報告書の枚数が増えた。
時間の感覚が消えた。
俺はただ、話していた。リア殿下も話していた。彼女は感情を大きく出す人ではない。だが、古代文字や記録の話になると、声の速度がわずかに上がる。目が静かに輝く。指が本の表紙を叩く。俺が新しい仮説を言うと、少しだけ沈黙してから、別の資料の断片を返してくる。
それが心地よかった。ただ聞かれるのではない。ただ感心されるのでもない。問いが返ってくる。仮説が増える。視点がずれる。そして、また別の道が見える。こんな会話は、地球でもほとんどなかった。
「ユーマさん」
どれくらい経ったのか分からない頃、ミラさんの声がした。
「はい」
「もう夕方です」
「……夕方?」
窓の外を見る。朝ではない。昼でもない。空が赤い。二つの月が薄く見え始めている。
「会話開始から、約六時間です」
ロイさんが記録を見ながら言った。
「六時間」
リア殿下も少し驚いた顔をした。
「そんなに?」
「経っています」
セシルさんの声は疲れ切っていた。
「リア様、昼食もほとんど手をつけていません」
「あとで食べます」
「冷めています」
「冷めた食事も資料になります」
「なりません」
ガルドさんが立ち上がり、肩を回した。
「いやあ、すげえな。俺は途中から何言ってるか全然分からなかったぞ」
「俺も一部しか分かりませんでした」
ロイさんが静かに言った。
「ですが、危険性はよく分かりました」
「どのあたりがですか」
俺が尋ねると、ロイさんは真顔で答えた。
「二人を放置すると、食事も睡眠も忘れて何かを始める点です」
否定できなかった。リア殿下も否定しなかった。ミラさんとセシルさんが同時にため息をついた。レグナ卿は、疲れたように椅子にもたれていた。
「……だが、収穫はありました」
老魔導士はそう言った。
「ユーマ・カンザキ。殿下。あなた方の会話で、召喚陣の古式刻印についていくつか仮説が立ちました」
「魂固定、境界補正、情報同期ですね」
俺が言うと、リア殿下が頷く。
「それと、帰還不可の補助記号」
「帰還不可?」
俺は眉をひそめた。
「勇者召喚陣には、帰還を妨げる術式があるのですか」
部屋の空気が変わった。レグナ卿が表情を硬くする。リア殿下も言葉を選んでいるようだった。
「断定はできません」
「でも、その可能性はある」
「あります」
「つまり、召喚された勇者は、元の世界へ帰る前提ではない」
沈黙。それが答えだった。
俺は静かに息を吐いた。怒りはなかった。少なくとも、自分の場合は地球で死んでいる。帰還する肉体もない。だが、もし生きたまま召喚された者がいたなら。帰れないようにされていたなら。それは、かなり大きな問題だ。
「勇者召喚は、思っていたより危険な術式ですね」
「はい」
リア殿下は静かに言った。
「だから、調べる必要があります」
俺は彼女を見た。
「協力します」
「私も」
それは、王国の命令ではなかった。勇者としての使命でもない。王女からの依頼でもない。同じ問いを持つ者同士の合意だった。
レグナ卿はしばらく黙った後、深く息を吐いた。
「……正式には、王国魔導院とルーベルギルド監視下での限定的調査協力、という扱いにします」
「ありがとうございます」
「ただし、勝手な実験は禁止」
「はい」
「召喚陣の再現は禁止」
「はい」
「古式刻印の音読は禁止」
「はい」
「睡眠を削って議論を続けることも禁止」
「それもですか」
「それもです」
リア殿下と俺は、ほぼ同時に少しだけ残念に思った。たぶん顔に出ていた。セシルさんとミラさんが同時に言う。
「禁止です」
「はい」
俺とリア殿下の返事も重なった。そこで、ガルドさんが腹を抱えて笑い出した。
「本当に同類じゃねえか」
誰も否定しなかった。
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研究記録 No.013
対象:リア・エルヴァルディア殿下および古代アストラ文字
観察結果:
リア殿下は古代アストラ文字を一部解読可能。古代アストラ文字は、単なる記録文字ではなく、術式回路・意味記号・認識誘導構造を兼ねる可能性。全文音読、視線固定、意味理解、魔力接触が術式起動条件となる危険あり。ドルガン氏所有の古式刻印写しには、魔力変換および状態遷移に関する記号が含まれる可能性。古代アストラ文明には、属性分類ではなく現象分類に近い魔法観が存在した可能性が高い。召喚陣には魂固定、境界補正、情報同期、帰還不可に関わる補助記号が含まれる可能性あり。
仮説:
勇者召喚陣は単純な召喚術式ではなく、魂情報を世界境界から引き込み、肉体へ固定し、帰還経路を閉じる複合術式。古代アストラ文明は、世界境界への干渉技術を持っていた可能性がある。
結論:
リア殿下は、古代文字・記録・世界境界研究において極めて重要な協力者。王族としては面倒だが、研究者としては非常に話が早い。
追記:
会話が六時間続いた。ミラさんとセシルさんから、睡眠と食事を忘れないよう強く注意された。リア殿下に日本語の「世界」を見せた。後日、古代アストラ文字の「門」を教えてもらう予定。
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その夜、俺は安宿の机に向かっていた。
今日の記録は、いつもより長くなった。書いても書いても足りない。古代アストラ文字。リア殿下の解釈。召喚陣の危険性。帰還不可の補助記号。日本語への反応。六時間の会話。全てが重要だった。
俺は紙の端に、日本語で「世界」と書く。その横に、王国文字で「世界」と書く。さらに空白を空けた。ここには、いつか古代アストラ文字の「世界」を書きたい。そして、その隣に「外」と「門」も。
世界。外。門。
まだ断片だ。だが、断片は集めれば地図になる。地図ができれば、道が見える。道が見えれば、いつか門にたどり着く。
俺は炭筆を置き、窓の外を見た。二つの月が空に浮かんでいる。この世界に来てから、何度も見た月。けれど今夜は、少し違って見えた。
この世界を一人で見ているわけではない。同じ問いを持つ人間が、少なくとも一人いる。
それは、とても奇妙で。少しだけ、心強かった。




