第14話 第三王女が、ルーベルに来た
王族への礼儀を学ぶことになった。
理由は簡単だ。数日以内に、ルミナス王国第三王女リア・エルヴァルディアがルーベルへ来る。そして俺は、その王女と接触する可能性が高い。
王族。正直に言えば、避けたい。王城での記憶が良くない。国王。勇者召喚。魔王討伐。王命。管理。拘束。その全てが面倒だった。
だが、リア王女は古代アストラ文字を一部読めるという。それは非常に困る。王族は避けたい。しかし古代文字は知りたい。この二つが同じ人物にまとまっている。世界は、時々かなり意地が悪い。
「ユーマさん」
ギルドの受付で、ミラが真剣な顔をしていた。
「はい」
「まず、王族相手に最初に言ってはいけない言葉を確認します」
「はい」
「魔法陣を分解してもいいですか」
「言いません」
「王族制度に興味ありません」
「言いません」
「あなたは古代文字をどこまで読めますか。いますぐ見せてください」
「……状況によります」
「状況によらず、最初には言わないでください」
「分かりました」
ミラは頭を抱えた。横ではガルドが笑っている。
「いいじゃねえか。最初に本性が分かって」
「相手は王女殿下です」
「向こうも古代文字狂いなんだろ? 案外、気が合うかもしれねえぞ」
「それが一番怖いんです」
ミラは本気で言った。俺は少し首を傾げる。
「気が合うなら良いのでは?」
「ユーマさん一人でも危険なのに、似た方向の人が増えたらどうなると思いますか?」
「研究が進みます」
「それが怖いんです」
「なぜですか」
「たぶん止まらなくなるからです」
否定できない。古代アストラ文字。勇者召喚陣。世界の外側。もしそれらについて本当に話せる相手なら、時間を忘れる自信がある。悪い意味ではなく。いや、周囲からすれば悪い意味かもしれない。
ミラは机の上に、薄い冊子を置いた。
「これを読んでください」
「これは?」
「王族への基本的な礼儀作法です」
「文字の勉強にもなりますね」
「目的は礼儀作法です」
「はい」
冊子を開く。文字はまだ全て読めない。だが、挿絵が多い。頭を下げる角度。呼び方。許可を得てから話す。相手の発言を遮らない。質問を連続しすぎない。距離を詰めすぎない。持ち物に勝手に触らない。魔法の実演を求めない。
最後の項目は、普通の礼儀作法に含まれるものなのだろうか。ミラを見ると、目を逸らされた。
「一部、ユーマさん向けに追記しました」
「ありがとうございます」
「本当に守ってくださいね」
「努力します」
「努力ではなく、守ってください」
「はい」
俺は冊子を読みながら、紙に要点をまとめた。
王族対応。
一、最初に頭を下げる。
二、相手をリア殿下と呼ぶ。
三、許可なく質問攻めにしない。
四、古代文字を見せてください、は後で言う。
五、王族制度への意見は言わない。
六、魔法陣を分解しない。
七、相手の持つ本を勝手に開かない。
八、世界の外側について話す場合、周囲の反応を見る。
書いていて、少し不安になった。八番目は本当に守れるだろうか。リア王女がもし本当に古代アストラ文字を読めるなら、世界の外側について何か知っている可能性がある。その場合、聞かずにいられるか。難しい。非常に難しい。
「顔がもう駄目です」
ミラが言った。
「何がですか」
「絶対に聞く顔をしています」
「古代文字が関わるなら」
「まず挨拶です」
「はい」
ガルドが笑いながら肩を叩いてきた。
「まあ、気負いすぎるな。王族だろうが何だろうが、相手も人間だ」
「王族も人間」
「当たり前だろ」
「そうですね」
王族。国王。貴族。政治。それらの単語にまとめてしまうと、相手が人間であることを忘れそうになる。リア王女も、立場の前に一人の人間だ。古代文字を読む人間。地下図書館に籠もる人間。世界の外側という言葉に興味を持ったかもしれない人間。そう考えると、少しだけ印象が変わる。王族としてではなく、研究者候補として見ればいいのかもしれない。
「今、変な方向に納得しましたね?」
ミラが言った。
「いえ」
「しましたよね?」
「相手を王族ではなく、一人の人間として見るべきだと思いました」
「それ自体は悪くありません」
「古代文字研究者としても」
「そこです」
ミラはため息をついた。
「とにかく、今日から調査団が来るまでは問題行動禁止です」
「はい」
「解体場で変な発見をしても大騒ぎしない」
「はい」
「ドルガンさんの店で古式刻印を勝手に起動しない」
「はい」
「図書館で禁書庫に入ろうとしない」
「入れるのですか?」
「入れません」
「残念です」
「残念がらないでください」
そんなやり取りを終え、俺は解体場へ向かった。
今日の仕事は角兎の処理と魔狼の解体補助だった。魔狼。初めて見る魔物だ。大きさは地球の狼より一回り大きい。黒灰色の毛。鋭い牙。脚の筋肉が発達し、耳と鼻の周辺に強い魔力反応がある。おそらく嗅覚と聴覚を魔力で強化している。魔石は胸部ではなく、喉の奥に近い位置にあった。遠吠えや群れの連携と関係しているのかもしれない。
「ユーマ」
ボルグ主任が低い声で言った。
「今日は大人しいな」
「王族対応の予習をしています」
「解体しながらか?」
「はい」
「器用なのか不器用なのか分からんな」
俺は魔狼の喉元を慎重に開きながら答える。
「魔狼の魔石位置は発声器官に近いです。群れとの通信に魔力を使っている可能性があります」
「それが王族対応と何の関係がある」
「王族も群れの上位個体と考えれば、通信と立場の構造は重要かと」
「やめとけ。王女を群れの上位個体とか言うな」
「言いません」
「今のは本当に言うなよ」
「はい」
ボルグの注意は正しい。言葉を選ぶ必要がある。王族を生態分類で考えるのは、たぶん失礼だ。たぶんではなく、確実に。
解体場での仕事を終えると、俺はドルガンの魔道具屋へ向かった。ドルガンは作業台に古い術式板を置いて待っていた。
「来たか」
「はい」
「リア殿下が来る前に、これの写しを作っておけ」
「写し?」
「現物をいきなり王族の前に出すのは面倒じゃ。まず写しで話せるようにする」
「なるほど」
術式板は、以前見せてもらった古い板だった。現代術式よりも細かく、無駄が少ない。文字と回路が一体化している。俺には読めない。だが、魔力の流れは見える。ただし壊れているため、途中で何度も途切れていた。
俺は紙に線を写し始める。普通の紙に炭筆。まだ正式な研究ノートではない。立派な記録書も、解析眼鏡も、探検家の鞄も今はない。あるのは、安い紙束。炭筆。借り物の外套。普通の鞄。火傷の残る手。それだけだ。
だが、これでいい。最初から完成品を持っている必要はない。必要なら作る。観察し、記録し、改良する。道具も、自分で育てればいい。
ドルガンが俺の写しを覗き込む。
「線が妙に正確じゃな」
「魔力が流れていた痕跡を追っています」
「文字は読めんのだろう?」
「読めません」
「なのに写せるのか」
「絵や回路としてなら」
「お前の目は、本当に厄介じゃな」
「便利ではあります」
「厄介で便利。職人が好きな類じゃ」
ドルガンは少し笑った。
「この写しを見て、殿下が何か読めば面白い」
「はい」
「だが、注意しろ」
「何をですか」
「古代文字は、読むだけなら安全とは限らん」
手が止まった。
「どういう意味ですか」
「古い術式には、文字そのものが起動条件になっているものがある。読んだ瞬間に認識へ干渉する。意味を理解した瞬間、術式が動く。そういう厄介なものがある」
「認識起動型術式」
「そう呼ぶかは知らんが、近い」
文字を読むことで起動する術式。つまり、情報そのものが魔法の鍵になる。これは重要だ。非常に重要。魔法が認識を必要とするなら、文字はただの記録ではない。認識を誘導する装置でもある。古代アストラ文字がその性質を持つなら、リア王女の読解能力は危険でもある。
「リア殿下は、その危険を理解しているのでしょうか」
「知らん。だが、古代文字狂いなら多少は分かっておるじゃろう」
「古代文字狂い」
「お前と同類かもしれんな」
「まだ会っていません」
「会えば分かる」
ドルガンは短く言った。それから、棚から壊れた眼鏡のような魔道具を取り出した。
「それと、これを見ておけ」
「眼鏡ですか」
「視力補正用の魔道具じゃ。壊れておる。右の魔石板が曇って使えん」
俺は受け取った。軽い金属の枠。薄い透明板。レンズというより、加工した魔石板に近い。内部に細い魔力線がある。視界を補正するため、光の屈折を魔力で微調整しているのだろう。面白い。
「これを改造すれば、魔力濃度の可視化に使えるかもしれません」
「やっぱりそう考えるか」
「はい」
「今は触るな」
「はい」
「王女が帰った後、時間があれば試す」
「本当ですか」
「ただし、勝手に分解するな」
「分かりました」
「目がもう分解しておる」
「まだです」
この壊れた眼鏡が、後に解析眼鏡になるかもしれない。今はただの壊れた視力補正具。だが、魔力の流れを可視化できれば、俺の観察精度は大きく上がる。道具が欲しい。強力な武器ではなく、よく見るための道具。それが俺には必要だった。
その日の夜、俺は安宿で古式刻印の写しを清書した。書いている途中で何度も手が止まる。この線は文字なのか。回路なのか。命令なのか。それとも祈りなのか。分からない。分からないから、知りたい。
窓の外には、二つの月。机の上には、安い紙束と炭筆。そして、古代の術式の写し。これだけで、眠るのが惜しくなる。だが寝なければならない。ミラに言われた。寝てください。正しい。
俺は紙の端に、今日覚えた王国文字を書いた。
外。門。世界。
その三つを並べる。意味はまだ単純だ。だが、いつかこの三つがつながる。世界の外へ至る門。
俺はその文字列を見つめながら、小さく息を吐いた。
「まずは、古代文字を読める人に会うところからですね」
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研究記録 No.012
対象:古式刻印写しおよび視力補正魔道具
観察結果:
ドルガン氏所有の古い術式板には、現代術式とは異なる古式刻印が含まれる。文字と回路の境界が曖昧。魔力流路と意味記号が一体化している可能性あり。壊れた視力補正魔道具を確認。魔石板による光の補正と、微細な魔力制御によって視界を調整していると推定。
仮説:
視力補正魔道具を改造すれば、魔力濃度・魔力流路・魔石反応を可視化する観察補助具にできる可能性。古式刻印には、認識起動型術式が含まれる可能性あり。読解そのものが術式発動条件となる場合、古代文字の解読には危険が伴う。
結論:
リア殿下の古代文字読解能力は重要。同時に、危険な術式を読ませる場合は慎重な検証が必要。
追記:
「外」「門」「世界」の王国文字を覚えた。この三文字は重要。
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翌日の昼過ぎ。
ルーベルの東門に、王都からの馬車が到着した。白い王家の紋章が刻まれた馬車。護衛の騎士が六名。魔導院の馬車が一台。そして、監察局のロイが門の前で出迎えている。
街の人々は遠巻きにそれを見ていた。王族が辺境の街に来ることなど、滅多にない。門番たちは緊張した面持ちで姿勢を正している。
馬車の扉が開いた。最初に降りたのは、王国魔導院のレグナだった。白髪の老魔導士。彼は周囲を見渡し、ロイと短く言葉を交わす。続いて、侍女のセシルが降りる。最後に、淡い銀髪の少女が姿を現した。
リア・エルヴァルディア。ルミナス王国第三王女。
彼女は王族らしい上質な旅装をまとっていたが、華美ではなかった。青を基調とした外套。手には小さな本。腰には護身用の短い杖。その目は、街並みよりも、門の石材に刻まれた古い補修跡を見ていた。
セシルが小声で言う。
「リア様、まず前を見てください」
「この門、古い補修跡があります。王国初期の刻印かもしれません」
「到着直後に門を調べないでください」
「少しだけ」
「駄目です」
ロイはその様子を見て、わずかに眉を動かした。レグナは諦めたように言う。
「殿下、まずギルドへ向かいます」
「ユーマ・カンザキはそこに?」
「おそらく」
「そうですか」
リアの声は静かだった。だが、指先が本の表紙を軽く叩いていた。彼女が興奮している時の癖だった。セシルはそれに気づき、さらに不安そうな顔をした。
王都からの調査団は、ルーベルの街を進んだ。市場の人々は道を開け、冒険者たちは興味深そうに見送る。リアは歩きながら街を見る。火事跡。ギルドの看板。魔道具屋の煙突。図書館の屋根。そして、街のあちこちに残る生活の痕跡。
ここに、あの青年がいる。勇者にならなかった異世界人。魔法を属性ではなく現象として見た者。世界の外側へ行きたいと言った者。
リアは小さく息を吸った。未知の本を開く前のような感覚があった。
一方その頃、ギルドの奥では、俺がミラから最後の確認を受けていた。
「ユーマさん」
「はい」
「リア殿下が到着されたそうです」
「分かりました」
「まず頭を下げる」
「はい」
「リア殿下と呼ぶ」
「はい」
「質問は一つずつ」
「はい」
「古代文字を見せてください、は最初に言わない」
「はい」
「世界の外側についていきなり語らない」
「……はい」
「今、間がありました」
「気をつけます」
ガルドが横で笑った。
「無理だろ」
「無理ではありません」
「じゃあ賭けるか? 三分以内に古代文字の話になる」
「それはあり得ます」
「認めるなよ」
その時、ギルドの扉が開いた。室内の空気が変わった。
まずロイが入る。次にレグナ。護衛の騎士。侍女。そして最後に、銀髪の少女が入ってきた。
静かな青い瞳。手には本。年齢は俺より少し下に見える。だが、その目は、ただの王女のものではなかった。
こちらを見ている。いや、観察している。俺が魔道具や魔石を見る時のように。彼女もまた、俺を何かの資料として見ていた。
俺はすぐに理解した。この人は、普通の王族ではない。
リア王女は俺の前で足を止めた。ミラの視線を感じる。頭を下げる。リア殿下と呼ぶ。質問は一つずつ。
俺は学んだ通りに、軽く頭を下げた。
「初めまして。ユーマ・カンザキです、リア殿下」
よし。ここまでは問題ない。
リア王女は数秒、俺を見ていた。そして、静かに口を開いた。
「初めまして。リア・エルヴァルディアです」
声は落ち着いていた。だが、その次の言葉で、ミラが小さく息を呑んだ。
「あなたが、世界の外側へ行きたいと言った方ですね」
ギルド内の空気が止まった。
俺は顔を上げた。リア王女の目は、まっすぐこちらを見ていた。王族としてではない。調査員としてでもない。同じ問いを見つけた者の目だった。
俺は、ミラの注意事項を思い出した。世界の外側について、いきなり語らない。
だが。向こうから言われた場合は、どうすればいいのだろう。
俺は少し考え、答えた。
「はい」
リア王女の指が、本の表紙を軽く叩いた。
「では、後でお話を聞かせてください」
「こちらこそ、古代アストラ文字について聞かせてください」
ミラが額に手を当てた。ガルドが小さく笑った。レグナが深いため息をついた。セシルが青ざめた。ロイが無言で報告書に何かを書き足した。
こうして俺は、ルミナス王国第三王女リア・エルヴァルディアと出会った。
王族としてではなく。勇者候補と王女としてでもなく。世界の外側という、同じ問いに反応した二人として。




