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第12話 第三王女は、危険人物の報告書を読む

 ルミナス王国王都。


 王城の地下には、王族と一部の許可された者しか入れない書庫がある。正式名称は、王立禁書保管庫。ただし、王城の人間はそれを単に「地下図書館」と呼んでいた。


 高い天井。石造りの壁。湿気を防ぐための保存魔法。壁一面に並ぶ書架。古い歴史書、魔導書、禁術記録、王家の系譜、戦争記録、神託写本、そして誰にも読めなくなった古代文字の石板。


 その地下図書館の一角に、一人の少女がいた。


 年齢は十七。淡い銀髪。静かな青い瞳。白い指先。王族らしい整った顔立ちをしているが、その表情には華やかさよりも眠たげな知性があった。


 彼女の名は、リア・エルヴァルディア。ルミナス王国第三王女。


 王族としての序列は高くない。政治的価値も、第一王子や第二王女に比べれば低い。だが、王城内では別の意味で有名だった。


 舞踏会に出ない。茶会に出ない。縁談にも興味を示さない。王族同士の権力争いにも関わらない。代わりに一日の大半を地下図書館で過ごし、誰も読まない古い本を読み、誰も理解できない古代文字を書き写している。


 王城の侍女たちは、陰で彼女をこう呼んでいた。


 地下書庫の姫君。あるいは、少し悪意を込めて。紙と結婚した王女。


 リア本人は、その呼び名を知っていた。そして特に気にしていなかった。人が自分をどう呼ぶかより、目の前の文字の方が重要だったからだ。


 彼女は今日も、古い石板の写しを前に座っていた。石板に刻まれているのは、現代王国文字ではない。聖教国文字でもない。魔導院で使われる術式文字とも違う。もっと古い。もっと硬い。文字というより、世界に直接刻まれた傷のような記号。


 古代アストラ文字。王国では、ほとんど読める者がいない。


 リアは、その文字に十歳の頃から取り憑かれていた。


 きっかけは偶然だった。幼い頃、王城の式典から逃げ出し、この地下図書館に迷い込んだ。そこで一枚の石板を見つけた。誰も読めないとされたその文字を見た瞬間、彼女は思った。


 綺麗だ、と。


 意味は分からない。音も分からない。だが、その文字には強い意志があった。何かを残そうとする意志。忘れられまいとする意志。世界に対して、ここにあったと刻みつける意志。


 それ以来、リアは古代文字を学び続けている。教師はいなかった。資料も少なかった。王族教育の一環としては無駄だと言われた。それでも彼女は続けた。なぜなら、知りたかったからだ。


 この文字を書いた者たちは、何を見たのか。何を恐れたのか。何を残そうとしたのか。そしてなぜ、彼らの文明は消えたのか。


 リアは石板の写しに指を沿わせながら、小さく呟いた。


「……境界、ではない。これは、門?」


 古代アストラ文字には、一つの記号に複数の意味がある。線の角度。交差の数。刻まれた深さ。周囲の補助記号。それらで意味が変わる。今読んでいる文は、まだ完全には解読できない。だが、断片的には分かる。


 世界。外。門。禁止。観測。崩壊。


 その単語だけで、胸がざわつく。古代アストラ文明は、何をしようとしていたのか。


「リア様」


 背後から声がした。侍女のセシルだった。リアの数少ない世話係であり、彼女が地下図書館に籠もることを半ば諦めている人物でもある。


「昼食のお時間です」


「ここに置いてください」


「またですか」


「はい」


「陛下がお呼びになるかもしれません」


「では、その時に行きます」


「その時には髪を整える時間がありません」


「髪は世界構造の理解に関係ありません」


「王女としては関係あります」


 セシルは深くため息をついた。このやり取りは日常だった。リアは視線を石板から動かさない。セシルは諦めたように、机の端に軽食を置いた。


 その時、地下図書館の扉が開いた。入ってきたのは、王国魔導院の老魔導士レグナだった。彼はリアの姿を見つけると、少しだけ驚いた顔をした。


「リア殿下。こちらにおられましたか」


「はい」


「相変わらずですな」


「相変わらずです」


 リアは顔を上げた。レグナの手には、分厚い報告書の束があった。通常の書類ではない。魔導院の印と、王国機密を示す赤い封印。リアの視線がそこへ向く。


「召喚儀式の報告ですか」


 レグナの眉がわずかに動いた。


「耳が早いですな」


「王城全体が騒がしいです。召喚広間の一部が焦げたとも聞きました」


「……噂は広がるものです」


「勇者召喚は成功したのですか」


 レグナは答えるまでに少し時間を置いた。


「成功はしました」


「なら、なぜ皆さんはあんな顔をしているのですか」


「勇者候補が逃亡しました」


 セシルが息を呑んだ。だが、リアは表情を変えなかった。


「逃亡」


「ええ」


「勇者召喚直後に?」


「はい」


「興味深いですね」


 セシルが小さく咳き込んだ。


「リア様、そこは興味深いではなく、重大事です」


「重大だから興味深いのです」


「そういう問題ではありません」


 レグナは苦笑した。リアは王族の中では変わり者として扱われているが、レグナは彼女を嫌っていなかった。むしろ、その知識欲と古代文字への執着には、少し親近感すら抱いていた。


「殿下。この資料を地下保管庫の機密棚に納めに来ました。閲覧権限は陛下、宰相、魔導院上層部、一部王族に限られます」


「私は一部王族に含まれますか」


「本来は微妙なところです」


「そうですか」


「ですが、殿下は古代文字の協力者でもあります。召喚陣の一部に古式刻印が含まれている以上、後日ご意見を伺う可能性があります」


 リアの目が少しだけ変わった。


「召喚陣に古式刻印が?」


「中心部ではなく、外周補助回路に痕跡があります」


「見せてください」


「今はまだ」


「見せてください」


「殿下」


「見せてください」


 声は静かだった。だが、その静かさの中に、一歩も引かない強さがあった。レグナはしばらく彼女を見て、ため息をついた。


「写しの一部だけです」


「十分です」


 レグナは報告書の中から一枚を抜き、机に置いた。そこには、勇者召喚陣の外周部分が写されていた。リアは食い入るようにそれを見る。現代術式。聖教国式補助紋。王国魔導院の安定化線。そして、その下に隠れるように刻まれた古い記号。


 古代アストラ文字。


 リアは思わず立ち上がった。


「これは……」


「読めますか」


「完全には。ただ、意味の方向は分かります」


「何と?」


 リアは指先で古式刻印の列をなぞった。


「魂。固定。外部。同期。帰還不可。境界補正……」


 レグナの顔が険しくなる。


「やはり、召喚陣には境界系の古式刻印が使われているのか」


「勇者召喚は、単純な空間転移ではありません。魂を世界の外側に近い領域から引き込み、こちらの世界に固定する術式です」


「外側?」


 リアは顔を上げた。


「レグナ卿。召喚された方は、何と言ったのですか」


「何、とは?」


「逃亡した勇者候補です。彼は召喚陣を見たのでしょう。何か言いましたか」


 レグナは少し迷った。だが、やがて報告書の別紙を開いた。


「証言記録があります」


「読ませてください」


「これは機密です」


「読ませてください」


「……一部だけです」


 リアは無言で頷いた。レグナは証言記録を机に置いた。そこには、王城広間でのユーマの発言が書かれていた。


 この魔法陣、分解して調べてもいいですか。


 外周の魔力流路が大きく迂回しています。


 魂固定らしき術式と、肉体構築らしき術式が分離していません。


 失敗した場合に魂と肉体の同期ずれが起きませんか。


 火属性というより、魔力から熱エネルギーへの変換ですね。


 俺がやりたいのは、魔王を倒すことではありません。


 魔法を研究したい。


 そして、もし可能なら、この世界の外側へ行きたい。


 リアの目が止まった。指先が、最後の一文の上で止まる。


 その世界の外側へ行きたい。


「……この方は」


 リアの声が、わずかに低くなった。


「この世界の外側、と言ったのですか」


「証言では、そうです」


「勇者召喚直後に?」


「はい」


「魔王討伐ではなく?」


「はい」


「王国への忠誠でもなく?」


「はい」


「魔法陣を見て、魂固定と肉体構築の不備を指摘し、火属性を熱変換と呼び、世界の外側へ行きたいと言った」


「……そうなりますな」


 リアは黙った。セシルは不安そうに彼女を見る。リアは、これまで見たことがない表情をしていた。驚きではない。恐れでもない。歓喜に近い。だが、それを表に出し慣れていないため、表情が固まっている。


「レグナ卿」


「はい」


「この方は、本当に危険人物なのですか」


「危険です」


「破壊者ですか」


「現時点では不明です」


「反逆者ですか」


「王命を拒否した以上、政治的にはそう見なされる可能性があります」


「でも、この記録を見る限り」


 リアは報告書から目を離さなかった。


「この方は、ただ知りたいだけではありませんか」


 レグナは答えなかった。それは、彼自身も会議で言ったことだった。ただ知りたい者が最も危険な場合がある。だが、リアの声には違う響きがあった。危険視ではない。理解。あるいは共鳴。


「リア殿下」


 レグナは慎重に言った。


「あの者に興味を持つのは危険です」


「なぜですか」


「彼は王国の命令に従わず、召喚陣に干渉し、逃亡しました」


「それは王国に従う理由がなかったからでは?」


「殿下」


「私は王国の立場も分かっています。勇者召喚の政治的意味も、魔王領との緊張も、聖教国の面子も」


「ならば」


「でも、この発言は捨て置けません」


 リアは報告書を見つめる。


「火属性を熱変換と呼んだ者は、現代魔導院にはいません」


「一部の異端理論にはあります」


「はい。アストラ古論にも似た記述があります」


 レグナの表情が変わった。


「殿下、その記述を読んだのですか」


「断片だけです」


「どこで」


「第七棚、封印分類前の未整理写本です」


「……あそこは禁書に近い棚ですぞ」


「鍵が開いていました」


「殿下が開けたのでは?」


「結果的には」


 セシルが頭を抱えた。


「リア様……」


 リアは気にせず続けた。


「アストラ古論には、こうあります。属性とは、理解できぬ者が世界を切り分けるための仮名である」


 レグナは息を呑んだ。


「それを、ユーマ・カンザキは知らずに言った可能性があります」


「偶然かもしれません」


「偶然で、召喚陣の魂固定を見抜きますか」


「……難しいでしょうな」


「この方は、古代アストラの魔法観に近いものを持っている」


 リアの声がわずかに震えた。


「会ってみたいです」


「なりません」


 レグナは即答した。


「殿下が関わるべきではない。陛下も許可しないでしょう」


「なぜですか」


「彼は現在、王国管理対象です。捕縛命令も出ています」


「捕縛してどうするのです」


「勇者として導く」


「導けますか?」


 リアの問いに、レグナは答えられなかった。あの若者が、大人しく勇者として導かれる姿など想像できない。王も、神官も、騎士も、彼を従わせようとするだろう。だが、彼は問う。なぜ、と。それに答えられなければ、従わない。


 リアは静かに報告書を閉じた。


「レグナ卿。この方を無理に捕縛すれば、また術式に干渉して逃げるのではありませんか」


「その可能性はあります」


「なら、会話できる人間を送るべきです」


「誰を?」


 リアは少しだけ黙った。そして、当然のように言った。


「私です」


「なりません」


 二度目の即答だった。セシルも慌てて口を挟む。


「リア様、何をおっしゃっているのですか。王女が逃亡中の危険人物に会いに行くなど」


「逃亡中の危険人物ではなく、魔法理論上の重要人物です」


「もっと駄目です」


「なぜ?」


「なぜではありません」


 レグナは深く息を吐いた。


「殿下。お気持ちは分かります」


「分かるのですか」


「少しは。私も、彼の発言には興味があります」


「では」


「ですが、王国は彼を研究対象とは見ません。勇者候補として見る」


「それが間違いです」


「政治は、正しさだけでは動きません」


 リアは黙った。


 政治。王族。使命。神託。勇者。彼女が苦手とするものばかりだった。


 彼女は本が好きだった。古い文字が好きだった。忘れられた記録を読むことが好きだった。そこには、誰かの意思が残っている。だが、王城の政治には、意思より役割が先にある。王女として。勇者として。魔導士として。騎士として。そういう枠が、人を先に決める。


 リアは、それが嫌いだった。おそらく、ユーマ・カンザキも同じなのだろう。勇者として召喚された。だが、彼は勇者という枠を拒否した。魔王討伐ではなく、魔法を研究したいと言った。世界の外側へ行きたいと言った。


 リアは報告書の最後の一文を、もう一度見た。


 ――そして、もし可能なら、この世界の外側へ行きたい。


 その言葉は、古代アストラ文字の石板に刻まれていた断片と、どこかで重なっていた。


 世界。外。門。観測。


「レグナ卿」


「はい」


「この報告書の写しを作ってもいいですか」


「機密です」


「では、記憶します」


「殿下」


「もう半分覚えました」


 レグナは疲れたように目を閉じた。


「……古式刻印の部分だけなら、後日正式に協力を依頼します」


「ユーマ・カンザキの発言記録も必要です」


「なぜです」


「古代アストラ文字の解読に関係する可能性があります」


「本当ですか?」


「可能性はあります」


「殿下は時々、その言葉を便利に使いますな」


「レグナ卿も使います」


「否定できませんな」


 レグナは報告書をまとめ直した。


「分かりました。一部抜粋のみ、私の監督下で閲覧を許可します。ただし、外部持ち出しは禁止」


「ありがとうございます」


「そして、絶対に勝手な行動をなさらぬように」


「勝手な行動とは?」


「ルーベルへ行くことです」


「まだ行くとは言っていません」


「今、考えましたな」


「少し」


「殿下」


 リアは視線を逸らした。セシルが小さく悲鳴のような声を出す。


「リア様、本当にやめてくださいね」


「行きません。今は」


「今はと言いましたよね?」


「言いました」


「どうして正直なんですか」


「嘘は記録を歪めます」


「そういう問題ではありません」


 レグナは報告書を抱え、地下図書館の奥へ向かった。機密棚に資料を収めるためだ。セシルはリアを見張るように立っている。


 リアは机に戻り、古代アストラ文字の石板写しを見た。


 世界。外。門。観測。崩壊。


 そして、ユーマ・カンザキの言葉。世界の外側へ行きたい。


 リアは紙を一枚取り出した。その上に、古代アストラ文字で短い文を書いた。


 世界は、閉じているのか。それとも、誰かが閉じたのか。


 続けて、現代王国文字で別の一文を書く。


 ユーマ・カンザキ。勇者候補。危険人物。魔法解析者。世界の外側を望む者。


 そこまで書いて、リアは手を止めた。


 危険人物。その言葉に違和感があった。彼は危険なのかもしれない。だが、それだけではない。たぶん、彼は自分と同じだ。ただ、知りたい。その気持ちを止められない。


 リアは小さく呟いた。


「会ってみたいですね」


 セシルが即座に反応する。


「駄目です」


「まだ何も言っていません」


「言いました」


「会ってみたいと言っただけです」


「その次に行動するのがリア様です」


「信用がありませんね」


「あります。だから止めています」


 リアは少しだけ首を傾げた。信用があるから止める。不思議な言い方だ。だが、セシルらしい。


 その頃、王都の空を一羽の小さな魔道具鳥が飛んでいた。青い羽根の通信具。夜明け前にルーベルを発ち、街道上空を飛び続け、夕刻、王城の通信塔へ到着した。


 通信係の魔導士が筒を開く。中の紙を読む。そして顔色を変えた。


 数分後、その報告はレグナのもとへ届けられた。


 ルーベル冒険者ギルドにて、該当人物を確認。名はユーマ・カンザキ。Fランク冒険者として登録。解体場、魔道具屋、図書館に出入り。水属性見習いの新魔法に関与。市場火災対応で住民より感謝を受ける。王都側の追跡対象、所在判明。


 レグナは報告を読み、深く息を吐いた。


「……もう街に馴染み始めているのか」


 捕縛は難しくなる。ただの逃亡者なら簡単だった。だが、現地ギルドに登録し、街の火事を止め、職人や冒険者と関係を持ち始めている。無理に連れ戻せば、ルーベル側の反発もあり得る。何より、彼自身がどう反応するか分からない。


 レグナは額に手を当てた。


「陛下への報告が、また難しくなったな」


 その時、ふと嫌な予感がした。レグナは振り返る。少し離れた机で、リアがこちらを見ていた。どうやら、報告書の一部を読んでしまったらしい。リアの目が、静かに輝いていた。


「レグナ卿」


「……はい」


「ルーベルにいるのですね」


「殿下」


「図書館にも出入りしている」


「殿下」


「解体場と魔道具屋にも」


「殿下」


「非常に興味深いです」


 レグナは心の底から思った。


 まずい。


 勇者候補ユーマ・カンザキだけでも十分に厄介なのに。王国第三王女リア・エルヴァルディアまで、その存在に興味を持ってしまった。


 この二人を会わせてはいけない。理性はそう告げていた。だが同時に、魔導士としての自分の奥底が、まったく逆のことを囁いている。


 会わせたら、何が起きるのか。それを知りたい、と。


---


 その夜、ルーベル。


 ユーマ・カンザキは、安宿の机で図書館から借りた文字練習帳を写していた。もちろん、王都で自分の報告書を読んだ第三王女が、異常な興味を持ち始めたことなど知らない。彼はただ、今日覚えた文字を紙に並べていた。


 火。水。風。土。魔力。魔物。図書館。世界。外。


 外、という文字を書いた瞬間、彼は手を止めた。


「……外」


 この世界の文字で、初めて書けた。世界の外側。まだ遠い。果てしなく遠い。けれど、一文字分だけ近づいた気がした。


 ユーマは紙の端に、日本語で小さく追記する。


 ――まずは、この世界の文字で「外」と書けるようになった。


 それは、とても小さな一歩だった。だが彼にとっては、勇者として称号を与えられるより、ずっと価値のある一歩だった。

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