どうやら帝国最強の魔導卿が最短記録で帰ってきたようです
空間が、バキリと割れた。
執務室の温度が、一瞬で下がる。
冷気にも似た魔力が、床を這うように広がっていき、賑やかだった空気を容赦なく塗り潰した。
「……僕のいない間に、随分と賑やかじゃないか」
低く、甘く――けれど、底のない怒りを孕んだ声。
門から現れたのは、陛下との面談を常識外れの速さで終わらせてきたゼノスだった。
その紫の瞳には、もはや嫉妬と独占欲しか映っていない。
彼が目にしたのは――
愛するミラを取り囲み、至近距離で銀糸のうさぎを覗き込む若い魔導師たちの群れ。
「な……」
ゼノスの口元が、ぴくりと引きつる。
「……僕のミラに、許可なく近づく不届き者がこんなにいるとはね……!」
「ひいっ! 主様、お早いお帰りで!」
「に、逃げろ! 消されるぞ!」
魔導師たちはクモの子を散らすように飛び退いた。
だが、ミラうさぎの試作品を握ったまま固まっていた数名は、ゼノスの威圧にその場へ縫い付けられる。
ミラは思わず瞬いた。
「え、ちょっ……ゼノス様、本当に三秒で帰ってきたんですか?」
「約束しただろう?」
ゼノスは真顔だった。
「……むしろ、一秒ほど遅れた。反省している」
「そこ真面目に反省するところなんですか?」
ミラの突っ込みなど耳に入らないように、ゼノスはずかずかと歩み寄る。
「……ミラ」
低く、甘く、そして明らかに拗ねている声だった。
「三秒より長くかかった僕が悪かった。
だが、もう教えるのはおしまいだ」
そのまま、ミラを奪い返すように抱き寄せる。
腰を抱かれ、ぐいと引き寄せられたミラは、そのまま当然のようにゼノスの胸の中へ収まった。
「君のその指先が紡ぐ奇跡は、僕だけに見せていればいいんだよ」
「もぉー、ゼノス様。早すぎますよ!
まだお耳の編み方を教えてる途中だったのに」
「ダメだ」
即答だった。
ついでのように、ミラの手に残っていた未完成のうさぎもひょいと取り上げ、自分のポケットへしまい込む。
「これから先、君が僕のいない間に誰かへ何かを教えるのも禁止。
……いや、やっぱり執務中も、僕の膝の上以外は禁止にしよう」
「禁止が増えてるんですけど?」
ミラが呆れて見上げると、ゼノスは微塵も悪びれずに頷いた。
「当然だよ。
一度離れたせいで、こんな恐ろしい光景を見る羽目になったんだから」
「いや、ただの編み物教室ですよ?」
「僕には大惨事に見えた」
真顔で返され、ミラは思わず吹き出した。
その笑い声に、ゼノスの眉間の皺がほんの少しだけ和らぐ。
だが、完全には消えない。
若い魔導師たちは壁際で固まり、息を潜めていた。
「しゅ、主様……我々はただ、術式の構造を……」
「ミラ様がご厚意で教えてくださっていて……」
「決して、邪な気持ちは――」
「邪かどうかは問題じゃない」
ゼノスの声が落ちる。
「君たちが、僕のいない間にミラへ近づいた。
その事実だけで十分だよ」
ひゅっ、と数人の顔色が青くなった。
その場を救ったのは、やはりミラだった。
「ゼノス様」
ミラはゼノスの胸元を軽くつつく。
「そんなに怖い顔しないでください。
みんな、ただ知りたかっただけですよ」
「……知る必要がない」
「あります。だって、せっかく面白いんですから」
「ミラ」
「それに」
ミラは少しだけ笑う。
「ゼノス様の魔力、すごいってみんなに知られるの、嫌じゃないでしょう?」
一瞬。
ゼノスが言葉に詰まった。
そこへ、側近の深い溜め息が重なる。
「……主様。陛下との面談を最短記録で終わらせて戻って来たかと思えば、それが結論ですか」
側近は死んだ魚のような目で書類を抱え直した。
「しかも、門を蹴破る勢いで帰還なさるとは。王城の魔導師たちが半泣きでしたよ」
「知ったことかい」
「知ってください」
冷たく返しながら、側近は散らばった書類を拾い集めていく。
その横でゼノスは、なおもミラを抱えたまま残りの書類へ視線を移した。
「……よし」
次の瞬間、彼の手が光のような速度で動き始める。
さらさらさらさら。
ペン先が残像になる。
書類の山が、目に見えて低くなっていく。
「え、ちょっ、早っ」
「嫉妬で処理速度が上がってる……?」
「主様、怒ってる時だけ事務処理能力が跳ね上がるの、やめてください」
若い魔導師たちの小声が漏れる。
ミラはその膝の上で、思わずゼノスの頬をつんとつついた。
「……もう二度と、置いていかないとか思ってます?」
「思っているよ」
「やっぱり」
「仕事のたびにそれを言われると困るんですけど」
「困らせるつもりだからね」
「堂々と言わないでください」
ミラは呆れ半分、笑い半分で肩をすくめた。
ゼノスはそんな彼女の髪へ頬を寄せたまま、恐ろしい速度で署名を続ける。
執務室には、若手魔導師たちの怯えと、側近の疲労と、ミラの苦笑と、ゼノスの重すぎる独占欲が混ざり合っていた。
そして頭の上では、ミラうさぎがなぜか得意げに耳を揺らしている。
まるで「やっぱりこうなると思った」とでも言いたげに。
やがて最後の一枚に署名を終えると、ゼノスはペンを置き、満足げに息をついた。
「これで終わりだ」
「終わったのは仕事だけで、問題は何も終わってない気がするんですが」
「何のことかな」
「若手魔導師のみなさんが、まだ完全に怯えてます」
壁際では、数名が未だに直立不動で固まっていた。
そのうちの一人が、おそるおそる手を挙げる。
「あの……主様。
我々、明日からミラ様への質問は、事前に書面申請した方がよろしいでしょうか……」
「当然だ」
「即答しないでください!」
ミラの叫びに、執務室の空気がようやく少しだけ緩んだ。
くすり、と笑いが漏れる。
側近はこめかみを押さえながら、静かに告げた。
「……主様。お願いですから、次はせめて“十分”は陛下の前にいてください」
「努力はするよ」
「信用できません」
「僕もです」
ミラが便乗すると、側近はほんのわずかに目を閉じた。
「……ですよね」
その諦めきった声に、ついに若い魔導師たちまで吹き出した。
ゼノスは不満そうに眉を寄せたが、ミラが腕の中で笑っているのを見ると、結局それ以上は何も言えなくなる。
「……まあいい。
君が笑っているなら、それで」
「重いけど、今日はちょっとだけ許します」
「少しだけなのかい?」
「少しだけです」
即答されても、ゼノスは満足そうだった。
ミラを抱えたまま椅子へ深く座り直し、頭上のミラうさぎを指先で軽く撫でる。
足元では、ハクたちが再び好き勝手に丸まり始めていた。
魔塔の午後は、今日も騒がしく、甘く、そして少しだけ命がけだった。
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